26) 喧嘩 -前編-
☆★☆
手術は午後7時から始まった。麻酔が切れる時間を合わせて約2時間。
先生は一度家に帰るよう勧めたが、理子は無理を言って待合室で待たせてもらった。
車もないし、また来るとなると足を捕まえなくてはいけない。美由紀は何度でも送り迎えをすると言ってくれたが、さすがにそれは申し訳なくて断った。
「そう…、じゃあ9時過ぎに迎えに来るわね」
後ろ髪を引かれる美由紀を精一杯の笑みで送り、待合室の椅子に深く腰掛けた。誰もいない8畳ほどの部屋は有線が流れている。慌てて飛び出してきたので、理子の服装はこの時期には少し肌寒い。せめて上着くらい着てくるべきだった。暖房が入っているのは病院側の心遣いだろう。
流行りのJ-POPSを聞きながら、ぼんやりと天井を眺めていた。
「大丈夫、心配ありませんよ」
先生の声にほんの少しだけホッとした。
助かるんだ。
ずっと張りつめていた緊張がようやく和らいだ。吐きだした息と共に体の力が抜ける。
ほっとすると、瞼が重くなってきた。
一日気の張りっぱなしで、今頃になって疲れが出てきたようだ。顔を下げて目を閉じると、すぐに睡魔がやってくる。
(少しだけ……)
理子は誘われるまま、意識を手放した。
☆★☆
心地よい揺れと煙草の香りが、意識をまどろみからすくい上げた。
目を開けると辺りは暗く、時折白とオレンジの光が横切っていく。
(あ…れ…?)
起きぬけの頭はぼんやりとして、目からくる情報をうまく処理しない。
だが熟睡したのは何日ぶりだろう。頭の中でずっと鳴り続けていた着信音もしなかった。夢も見ず安心して眠れたのは、何かに守られている気がしたから。
温かくて気持ち良いあれはいったい何だったのだろう。
眠りから覚めたばかりの瞼は、放っておくとすぐにまた下がってくる。何度か船を漕いでは目を開けることを繰り返していると、頬に何かが触れた。
薄目を開けて身じろぐと、体にかけられている物に気づいた。すっぽりと理子を覆うようにかけられたそれは、男物のジャケット。
煙草の香りはこれからしていたのか。
でも、どうしてこれが?
「起きた?」
聞き慣れた声に、はっと目が覚めた。
驚いて飛び起きると、途中で強い力に拘束された。胸を圧迫するほどの強さに、一瞬息が止まる。
(シートベルト…?ここ、車…?え…、なんで)
自分は手術が終わるのを待合室で待っていた。途中眠くなってうつらうつらしているうちに、眠ってしまったらしい。だが目が覚めたら車の中で、聞こえた声は修司に似ていた。この車内のインテリアも知っている。
(どういうこと…)
理子の予想通りだとしたら、隣にいるのは。
体を固定しているシートベルトを左手で握りしめて、ゆっくりと右隣を振り向いた。
「浅野…君」
「おはよう、よく眠ってたね。家までもう少しあるから、まだ寝てていいよ」
信じられない、どうして彼が。
「何度も起こしたんだけどよく眠っていたから。話は代わりに聞いてきたよ。シュウも麻酔から覚めて大丈夫だ。これがその時の動画」
車の時計は9:51分を表示している。少しのつもりが3時間も寝てしまった。
叩き起こしてでも良いから起こしてほしかった。ひと目、シュウの元気な姿を見てたくて待ってたのに。
体を起こして、ジャケットを膝にかけ直す。車の中は十分温かかった。
修司に当たるのは筋違いだと分かっていても、どうしても恨めしい目で睨んでしまう。
だが修司は嫌な顔もひとつしない。
優しい修司、今はそれが理子を苛立たせる。
昨日の今日で、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
理子は修司ほど平然となんてできない。
(何で来たの)
理子が起きた時の為にあらかじめ用意してあったのだろう。修司は携帯を取って理子へ渡した。
差し出された携帯と、修司の横顔を見比べる。
躊躇いながら受け取って再生ボタンを押すと、プラスチックのカラーを首につけたシュウがケージの中で動き出した。
『シュウ、大丈夫か?』
修司の声だ。シュウはまだ少しふらつく四肢でケージの一番前までやってくる。
『手術は成功です。麻酔からの回復も良いですし、今のところ問題はありません』
『ありがとうございます。それでいつ退院できますか?』
『そうですね、早くても一週間後だと思います。食事は明日の夕方からになりますので、その時はシュウちゃんの一番好きな物なものを持って来てもらえますか。このときだけは何でもいいです。とにかく一番食いつきのいい物を持って来てください』
『わかりました』
『それと、これが摘出した子宮です。どうされるかは飼い主の方が決めて下さい。埋葬も良いと思いますし、火葬でもかまいません』
先生とのやり取りの間も、携帯はシュウを映している。首に巻いたカラーが気になるのか、しきりに首を振ったり手を上げてカラーを触っていた。
一日ぶりに見る元気そうな姿に思わず口許が綻んだ。画面に映るシュウを指で撫でる。
(よかった、大丈夫そう…)
一時はどうなることかと途方に暮れたが、自分の判断が間違ってなかった事にほっと胸をなでおろす。
あの時、手術を決めて良かった。
『じゃあな、シュウ。また明日来るから』
修司の手がシュウの鼻をくすぐって、動画は終わった。
「理子が起きた時、絶対シュウの様子が気になると思ったから撮ってきたんだ。明日会いに行けるから、今日はそれで我慢してくれないか。あと受け取った箱は後ろにあるから」
言って後部座席を指差した先に、手のひらほどの大きさをした箱があった。
「子宮をとると太る子が多いらしいね。シュウも体調管理は気をつけてくれって言われた」
「そう…」
素直に「ありがとう」と言えないのは、昨日のわだかまりが胸の内でくすぶってるから。
シュウの事がひと段落しても、理子にはまだ難題が残っている。
そのひとつが修司とのことだ。解決しなければ駄目だとわかっているが、口火を切る勇気が無い。
窓ガラスに顔を向けて流れる景色を眺め始めた理子に、修司は何も言わない。
無言を乗せて車は真っ直ぐ家路へと走る。
どうしてここに居るの。
なぜ不倫の事を知っているの。
もう、あたしの事嫌いになったんでしょ……。
尋ねたいことは溢れてくるのに、どれも口に出してはいけない気がしていた。
また喧嘩になるのが怖い。傷つけ合いたくなかった。
違う、本当は自分の言葉で誰かが傷つくのを見るのが嫌なんだ。罪悪感は後悔となっていつまでも記憶に残るから。自分が可愛いから、口論はしたくない。
所詮は、自分が嫌な思いをしたくないだけ。
変わる景色の分だけ時間を無駄にしている。今は話しかけるタイミングを図る時じゃないのに。
あれきり修司は口を閉ざしている。
伝える事が無くなれば、それ以上理子と話をするつもりはないということなのか。こじれた仲をなんとかしたいと思っているのは理子だけで、修司の中ではとっくに終わってしまっているんじゃないか。漂わす硬質な空気が話しかけるなと言っているみたいだ。
怖がってても何も始まらない。
でも、怖い。
この期に及んで、まだ穏便に済ませたいと思う自分は、どれだけ憶病なのだろう。
額を窓ガラスにコツンと当てて、やきれない気持ちを吐き出すとその部分だけガラスが白く濁った。
いつの間にか車は修司の家に到着してしまい、さっさと駐車させるとエンジンを切った。
「降りて」
すっかり委縮してしまった理子に、抑揚のない声はただ冷たく聞こえる。
この先に結末がある。
そう思うだけで足が動かない。
「理子」
躊躇っている間に、修司が助手席のドアを開けた。遠くの街灯ひとつでは修司の表情は見えない。
逃げられないんだ。
観念した理子は、こくりと息を飲んで助手席を降りた。