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窓恋  作者: 宇奈月 香
本編
26/46

25) 病


☆★☆


 

 ―――また眠れなかった。

 

 うつらうつらとするだけで眠れない体に、どろりと重たい液体の中にいるような倦怠感が付きまとっている。

 眠りたい、何でもいいから眠ってしまいたい。

 誰からも邪魔されず、いやがらせもストレスもない世界に行きたい。

 永遠に戻ってこれなくても良かった。どうせこの世界は理子に優しくはない。

 何もかもを投げ出して終わりたい。

 思いつきの思考はすぐに願望へと成長し、切望へと変わる。

 薬に手が伸びる。ついさっきも飲んだ気がしたのは気のせいだったろうか。

 少しも効かない薬、いっそひと箱全部飲めば夢の世界へ行けるのだろうか。

 靄がかった頭で考える事はどれも甘美で魅惑的で、傷ついた心を癒してくれる。

 誘惑に誘われて箱の中身をぶちまけた。手に取って残っている錠剤を数える。

 ひとつ、ふたつ…、残りはたった6錠。

 これだけじゃ到底眠りにはつけない。せっかく見つけた出口なのに、肝心の鍵がないなら意味がない。

 ひとつも思い通りにいかない事がまた理子を失意の中へと落とす。

 溜息を吐いて、枕に顔を埋めた。抱えるように抱きしめると手に携帯が当たる。何気なく取り出して時間を見れば、まだ10時を少し過ぎた頃だ。

 あれからまだ2時間ほどしか経っていない。

 今は何もかもに苛立ちを覚える。

 進まない時間も、眠れない体も、隣で眠っているシュウすら恨めしく思えた。

 気だるい体で寝返りをうって、少し乱暴に小さい体を揺する。


「シュウ、起きて」


 壁の方をを向いて横たわっている愛犬に呼びかける。

 シュウもずっと眠り続けているのだろうか。

 いつもなら7時には起きて理子の顔に全身を擦りつけてくるのに、この時間までおとなしく眠っているなんてどうしたのだろう。

 怪訝に思って、今度はそっと体を揺する。反応のない愛犬に異変を感じるまでそう時間はかからなかった。


「シュウ?」


 体を起こしてシュウの顔をのぞきこむ。

 呼びかけても薄目を開けるだけで、顔を上げようとしない。尻尾が愛想程度に動くだけだ。

 床に置いてある水が入ったボウルを持ち上げて口許に運んでも、顔すら近付けない。飲めないのかと思い、指を濡らして近づけてみるがそれも駄目だった。抱き上げると、ぐったりとしている。

 くたりと両腕から零れ落ちる首に目を見開く。抱き上げた体が普段より重く感じられた。

 理子はだるい体を引きずるようにベッドから降りて、トイレシートを見に行く。案の定、それは綺麗なままだ。

 一度も水を飲まず、トイレにも行っていない。動いた形跡がないばかりか、呼びかけても反応が薄い。


(おかしい…)


 気を抜けばすぐに霧がかる頭を振って意識を保つ。とにかくシュウを病院に連れていかないと駄目だ。

 パジャマを脱いで、急いで身支度を整えた。化粧まで気を配っている余裕はない。

 下に降りて財布にかかりつけの病院の診察券を入れて車のキーを探す。


(そうだ、修理に出したんだった…)


 こんな非常時にどうして。

 苛立ちはすぐに犯人への憎悪に変わる。

 舌打ちして押し入れから電話帳を取り出し、タクシーを呼んだ。犬を乗せることも伝えておく。土壇場での乗車拒否でもされたら発狂しそうだったからだ。

 タクシーが来るまでの間に、シュウをそっと移動用のバッグに入れた。

 普段なら絶対に嫌がるのに。やはり具合が悪いのだ。

 一分でも一秒でも早くタクシーが来るのを祈りながら、到着を待った。10分ほどでやってきた車に乗り込んで『中村動物病院』の名を告げる。


「ごめんなさい。終わるまで待っててもらえますか?」


 降り際に一言告げて、病院に駆け込む。待合室には順番を待つ人が理子以外に3人いた。

 診察券を出してから、空いている席で順番を待つ。その間もシュウの様子は相変わらずだ。


(いきなりなんで。シュウに何があったの?)


 募る不安に握った指先が冷たくなっていた。バッグを胸に抱えて、ひたすら順番が来るのを待つ。

 シュウを守るように丸めた体が、ゆらゆらと微かに前後に揺れていることに、理子は気づかない。

 ただ俯いて、じっと時間が過ぎるのを待った。

 

「杉山さん。杉山 シュウちゃん」


 『杉山』は幸子の名字だ。ようやく呼ばれてはっと顔を上げる。


「はいっ」


 シュウを抱えて急いで診察室に入った。

 中では40代前半の男の獣医と、三人の助手が待っていた。診察台を机代わりにして、丸椅子に腰かけながらカルテを見ていた先生が顔を上げる。


「白雪さん、どうされました?」


 犬は具合が悪くても、言葉で訴えたりできない。些細な事でも、専門の先生に診てもらう事が大事だ。

 たびたび訪れる理子は、先生と顔なじみになっていた。


「あの…、シュウの様子がおかしくて。元気が無いしぐったりしてるんです」

「いつからですか?」

「今朝…からだと思います」


 咄嗟に答えたが、自信はない。


「そうですか。食欲は?今朝は食べましたか」

「今朝はまだ何も…、水も飲んでませんでした。昨日の夜は半分ほど残してました。でも普段からあまり量は食べないので、気にしなかったんです」


 昨日、理子が帰ってきたときは普段通りだった。修司が帰った後、泣きじゃくる理子の傍にずっと寄り添っていたのはシュウだ。 

 あの時シュウの温もりに、心を救われたのだ。

 もしかするとすでに具合が悪かったのかも知れない。まるで理子の心に呼応するように、ぐったりとなったシュウを見ると、鼻の奥がツンと痛くなった。

 

(ごめんね、シュウ…)


「何か誤食をしたということもないんですよね?」

「ない…と思います」


 曖昧な記憶で部屋の様子を思い返すが、うまくできない。おそらくないだろうという程度だった。


「とりあえず血液検査をしてみましょうか。体に異常があると白血球の数値が上がるのですぐに分かりますよ。シュウちゃんは…まだ1歳ですね。生理はありましたか?」

「あ、はい。春先に」

「若いから子宮の病気はまだ無いと思うんですが、しばらく様子を診てみましょう。この状態が続くようでしたら明日また来てください。血液検査で異常がありましたら、すぐこちらから連絡しますので連絡がとれる番号を受付に伝えてもらえますか?」

「あ…、はい」


 理子は少し躊躇ったが、携帯番号を残すことにした。

 今は着信を受けること自体が恐ろしくなっていきている。できる事なら番号の流出は避けたい。

 だが、シュウの為だと思えば自分のことなど構っていられない。

 優先すべきは、シュウの体調だけだ。

 診療代を支払い、待たせてあったタクシーに乗り込んで家へ戻る。

 部屋に入って、改めて誤食をした形跡を探すが杞憂に終わった。

 単に調子が悪いだけだろうか。本当にそれだけなら良いのに。

 シュウをソファに寝かせて、その隣に腰を下ろす。

 いつの間にか時刻は昼になっているが、食欲などあるわけがない。ここしばらくまともに食べていないせいで、胃袋の活動も緩慢になっているらしい。

 食べたいという欲求が出てこない。空腹感も感じなくなっていた。

 結局、何もしないままただ日が傾くのをぼんやりと眺めていた。

 こうしていると自分とシュウだけ現実から取り残されたみたいだ。全部放棄した理子にたったひとつ残ったのが、シュウ。

 この命の温もりがすべてだ。

 シュウは理子の体温が消えると不安げな声を上げる。弱弱しい鳴き声に胸がつぶされそうになりながら、ずっと小さな体を撫でていた。

 何も考えられない。無言電話もいやがらせも、修司のことすら頭の隅に追いやられている。

 障子が茜色に染まり出す頃、携帯が鳴った。

 ぞくりと恐怖が背中を走る。

 『着信=無言電話』という構図は、いまや理子の中に染みついていた。

 取りたくない。

 携帯に伸びる手が躊躇う。しかし病院からかも知れない。そう思うと発信先を確認せずにはいられなかった。

 恐る恐る開けると表示されている『中村動物病院』の文字。

 ほっとするも、鼓動が跳ねた。血液検査に異常があったのだ。


「はい…、白雪です」


 声が震える。


『中村動物病院です。シュウちゃんの血液検査で異常が出ましたので、すぐに再診にいらしてもらえますか?』


 直後、目の前が真っ白になった。



☆★☆



 電話を切った後、自分はどうしたんだろう。

 気がついたら、修司の母 美由紀の車に乗っていた。今度はシュウを腕に抱えたままだ。

 病院に着くと、順番を待たずに診察室に通された。

 すぐにレントゲンと超音波検査をされるシュウを美由紀と共に固唾を飲んで見守った。


「シュウちゃんの白血球の数値が通常値の倍以上ありました」


 先生の堅い口調に眩暈を覚える。

 レントゲン写真と画面を睨みながら腹部を上から入念に探っていく手元を息を詰めて見つめる。

 どうか、原因が見つかりますように―――っ。


「…あ、これかな」


 呟きにはっと顔を上げる。先生は何度も異変がある部位を確認して、場所と原因を特定した。


「うん、間違いないな。わかりますか、ここに影が見えますよね」


 言ってモノクロの画面を指す。


「ここは子宮なんですけど、…これは膿ですね。子宮に膿が溜まっています」

「…膿ですか?」


 ピンとこない理子が聞き直すと、先生は引き出しからファイルを取り出し、一枚のプリントした用紙を取り出した。

 そこには『子宮蓄膿症』と黒字で大きく書かれてあった。

 

「これは子宮に膿が溜まる病気です。通常はもっと高齢の犬がなる場合が多いのですが、シュウちゃんはまだ1歳なのでおかしいなとは思ってたんですが、間違いないと思います。進行すると食欲がなくなったり、下痢をしたり、元気がなくなったりしてきます。治療法は外科手術で子宮を摘出するのが一般的ですね」


 先生はプリントと照らし合わせながら、ゆっくりと丁寧に症状を説明していく。理子の心はどんどん冷えていった。


「手術…ですか?」

「そうです。全身麻酔になりますが、手術自体は避妊手術と同じですので、さほど危険はありません。むしろこのまま放っておく事の方が危険です」

「あの、ちなみに手術ではなく薬で散らせる方法はないんですか?」


 他の方法が無いのか、本当にそれが最善なのか知りたくて尋ねた。


「シュウちゃんの場合、白血球の数値も異常ですし、かなり大きくなってますから、いつこの袋が破けてもおかしくありません。膿が体に回ってしまう前に摘出することが一番です。子宮をとることによって、メス特有の病気を防ぐ事もできますよ」


 迷っている時間はない。

 今、シュウの命運を握っているのは理子なのだ。

 しっかりしろ!

 理子はぎゅっと手のひらを握りしめると、真っ直ぐ先生を見た。


「わかりました。お願いします」






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