24) 後悔
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沙絵達と別れた後、修司はその足で理子の元に向かった。
(理子に謝りたい)
沙絵に言われて目が覚めた。
―――嫌われるのが怖くて何も聞けなかったんでしょ?
沙絵の指摘が繰り返し胸を射す。弁解も言い逃れもきかない。
自分は逃げていた。沙絵との別れの時も顔を出した、あの臆病風に吹かれて大事なものが見えなくなっていた。
―――そんなお前がどの面下げて会いに行くんだ。
もう一人の自分が嘲り笑う。
いつまで経っても成長しない。
理子を疑い、背を向けたお前に会いに行く資格などあるのか、と声高に糾弾する。
感情を現すのは嫌いだった。特に嫉妬や怒り、悲しみをさらけ出すことは、何かに負けた気がしていた。
いつだって一歩引いて接してきた。おそらく、理子にもそうだったのだ。
本気で向き合えないのは、自分が弱いから。拒絶されるのが怖いから、最初から近づかないようにしていた。
そんな距離感で、どうして心の内を見せてくれるだろうか。
清水の自分勝手な思い込みと偏見が生んだ悪意。
理子はその巻き添えをくっただけで、彼女に非はひとつもない。ただ修司と想いを結んだだけだ。
なぜそれが許されないのか。
沙絵のように目立つ容姿でもなければ、言えない過去もある。それが理由で人を好きになってはいけないことなど絶対にない。理子が修司の恋人になれない理由はどこにもないのだ。
なぜなら、修司が理子を幸せにしたいと願っているから。隣で笑っていて欲しいと思うからだ。
向けられる悪意の理由も知らず、彼女はすべてを自分一人で抱え込んでしまった。
誰に打ち明ける事もなく、たったひとりで耐えた。
何が理子にそうさせたのか。
頑なに口をつぐむ理由に、彼女の過去が関係しているのだろうか。
帰りの車の中で、山下が話した理子の過去。
不倫の結末だ。
別れ話がこじれて、理子は山下に助けを求めた。当時、男が関係していた女は理子の他にも数人いた。常務の一人娘と結婚し出世街道に乗っていた男は、女の目を引く容姿を餌に甘い言葉で若い女ばかりを食い物にしていた。
男にとって理子はその中の一人のはずだった。だが彼女が資産家 山下 幸三の孫だと知ると態度を一変させ、妻と別れてでも付き合いを続けたいと言い出したのだ。
妻と理子を天秤にかけ自分に有益な方を選んだ男に、山下は男が欲している権力を使い終止符を打たせた。早くから事業に携わっていた男にとって、それは造作もないことだった。
「あれからなんだよな。理子が悩みを打ち明けなくなったのって」
窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた声はひどく寂しげだった。
手を下した事を後悔しているのだろうか。
表情は夜の闇で隠され、修司からは窺うことができなかった。
山下は気づいていないのか。時折見せる冷酷な仮面の存在を。
もし理子がその顔を見ているのなら、それは間違いなくあの一件のときだろう。非情な顔をした兄を見て何を感じたのか。
理子のことだ。もう自分のせいで山下の冷酷さを表に出してはいけないと思ったはず。
だから口を閉ざし、一人で解決しようとした。
それならなぜ修司にまで隠す必要があったのか?
(結局、答えは理子しか持ってないんだ)
車をカーポートに入れて、理子の家に向かう。
闇に沈んだ家はひっそりと静まり返っていて、修司の訪問を拒絶しているようだ。
この時間に電気がついていないことを訝しく思いながらインターフォンを押す。が、返事はない。
普段なら温かい光と共に招き入れていたドアも、今日ばかりは重くその口を閉ざしていた。
シュウの遠吠えも聞こえない。
不在を確かめたくても、いつも停まっているはずのピンク色の軽自動車は修理中だ。今は目に写るひとつひとつが修司を責めている。
しかしここで引き下がるわけにはいかなかった。
腹に力を込めると、岩戸と化した引き戸を引いた。
シュウが飛び出してくるのを警戒してゆっくりと開けるが、聞こえてくるはずの廊下をかける軽快な足音がない。
暗闇はどんよりと重たい空気を漂わせて、沈黙を守っていた。
「理子?」
本当にいないのか。だとしたら車もなくシュウを連れてどこへ行ったのか。
怪訝に思って、中に入った。もう一度呼びかけてみるが、やはり返事が無い。リビングの電気を灯して見るが、二人の姿はなかった。
在るはずの存在がいないことが、修司を不安へ駆りたてる。
そのまま階段をのぼると、寝室のドアが開けっぱなしになってた。
「理子、寝てるのか…?」
初めて見る寝室。
踏み入れる事に躊躇いを感じて、部屋への入口で呼びかける。しかし、問いかけは虚しく闇に消えた。
部屋の大部分を占めているダブルベッド。天井からは丸い天蓋が下がっていて、入口から枕元を隠している。
暗闇に目を凝らすが、人の気配がしない。
物音ひとつ聞こえない部屋に、いよいよ不安が本物へと変わる。
その時だ。
「修司っ、修司。帰ってるの?」
階下で修司を呼ぶ声がした。声の主は紛れもなく母だ。
でもなぜ母がここに?
驚いて二階から顔だけ出した。
「あぁ良かった!やっと帰って来たのね!」
慌てた声にすぐに何かあったのだと悟る。
「母さん、理子は?」
「理子は?じゃないわよっ!あんた今まで何処にいたのっ。何度も電話したのに全く肝心な時に使えないんだからっ」
「ちょっと待って。何の話?理子に何かあったのか?」
「何かあったのはシュウちゃんなのっ。今、病院で手術中よっ!」
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「―――は?どういう事」
ただ事で無い単語に、修司は瞠目した。
「だから、そのままの意味に決まってるでしょ!」
「そうじゃなくて、何で手術しているの?何があったのかちゃんと話して」
階段から駆け降りた修司が落ち着いた口調で問いかける。
取り乱していた母は、その声にはっと我に返った。
「え、えぇそうね。そうだったわ。どこから話せばいいかしら。…そう、夕方、理子ちゃんに頂き物のお菓子を持ってきた時だったわ。血相変えた理子ちゃんが飛び出してきて、"お願い、動物病院に連れて行って!"て泣きながら頼んできたの。何事かと思ったんだけど、とにかく理子ちゃんの様子が尋常じゃなくて、つられて私も慌てたのよね。急いで車に二人を乗せて、かかりつけの病院へ運んだわ。そしたらシュウちゃんの子宮に膿が溜まっていて破裂すると危ないって言われたの。それで」
「それで、手術なんだな」
ようやく話が繋がって、母が大きく頷いた。
鍵もかけず家を空けたのは、それどころじゃなかったからか。幸子の置き土産とはいえ、シュウは理子にとって家族も同然だ。
昨日訪れた時は、特に変化はなかった。だが修司も理子にばかり気をとられていたので、正確な記憶とは言えない。そんな感じがしたというだけだ。
不調を訴える小さな姿にどれほど心が凍ったことか。
命の危険を示唆された時、彼女の心はどれほどの闇に覆われたのか。
今、シュウを失うことになれば、理子の心は壊れてしまうかも知れない。連日の嫌がらせ、非情で残酷な悪意は少しずつ確実に彼女の心を疲弊させていったはずだ。
追い打ちをかけたのは修司からの猜疑心。そして愛犬の急変。
どうして彼女だけがここまで追い詰められなきゃいけない。
自分はなんて愚かだったんだ。
髪に手を突っ込んではがゆさをかき回す。そんな修司に母のきつい視線が飛んできた。
「理子ちゃんはシュウの麻酔が冷めるまで待合室で待つって言って、今そっちにいるの。それなのにあんたって子は!」
携帯を取り出し履歴を確認すると、不在着信が並んでいる。家と母の携帯からだ。
狂いだした歯車は、どんどん噛み合わなくなっている。
理子からの着信が一件もないことが、さらに修司を焦燥へと急きたてていた。
ぐっと奥歯を噛みしめると、「早く理子ちゃんのとこに行きなさいっ!」と一喝された。
言われるまでもない。
「病院はどこ?」
「中村動物病院よ」
修司は玄関を飛び出し、車に飛び乗った。