22) 唯一確かなもの
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ひどい顔…。
ドレッサーの鏡に映った顔は悲惨だった。
両目の下にできたクマ、食欲が落ちていたせいでうっすらとこけた頬。くすんだ肌はハリも無くカサついている。なにより昨晩泣き晴らした瞼は恐ろしいほど腫れて、もともと小さな目が線になっていた。
とても会社に行ける顔ではない。
理子は溜息をひとつついて身支度をする手を止めた。そのままベッドにもぐりこむ。
枕の下に潜り込ませてある携帯を取り出して、会社に病欠の旨を伝える。もしかして尚紀が何か言ってくるかもしれないが、もうどうでもよかった。
修司にはとうにばれていた。今更尚紀にバレたからと言って何だと言うんだ。
犯人の目的が何にしろ、体調は最悪、修司との仲もこじれた。
少なくとも理子を苦しめることが目的だったのなら、犯人の目論見は達成されたことになる。
理子は負けたのだ。
だから、もうどうでもいい。
サイドテーブルに置いてある錠剤に手を伸ばす。最近これがないと眠れない。常用は良くないと分かっているが、今は薬の力が必要だった。
夢の狭間を漂っていても携帯の音が聞こえてくる。鳴り止まない着信に何度も目を覚ます。それが幻聴だと知っているのに、目をつぶると聞こえてくる。毎日その繰り返しで眠れるはずがなかった。
意識がぼんやりとするのは寝不足のせいか、それとも薬のせいなのか。
曖昧な思考は適量をも分からなくさせる。理子は4錠出して口に入れた。
隣ではまだ夢の中のシュウが眠っている。今はこの温もりだけが唯一確かなものだった。
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「ちょっといいか」
珍しく仕事中にやってきた山下に修司は視線を向ける。
今朝の企画開発部はいつになく緊張が張りつめていた。課長補佐が漂わせる負のオーラが根源であるが、誰もその理由に触れられない。
『王子』の仮面はつけているものの、眼光と抑揚の消えた声は鋭利さを極めている。
朝一で入っていた会議を終えた課内の顔は揃って青ざめていた。淡々と企画書の欠点を的確に指摘する冷たい口調に容赦はない。
声を荒げるわけでもなくスタンスはいつも通りなのに、内から漂うものがまるで違う。
研ぎ澄まされた刃物に、むやみに近づけば骨ごと断たれるのは明白だ。誰もがパソコンに画面を向いて、この恐怖の時間が一秒でも早く過ぎ去ることを固唾を飲んで耐えていた。
山下がやってきたのはちょうど会議室から戻った修司が席に着いた時だ。
視線で外に出るよう促して先に企画部を出る。
修司はチッと舌打ちしながら後に続いた。ようやくこの緊張から解放されて、自然と課の中からはほっと安堵のため息が聞こえる。修司はそれを見て見ぬふりをした。
向かった先は非常階段。
内ポケットから煙草を取り出して火をつける山下を、修司は黙って見ていた。
「…俺が言ったこと覚えてるだろ」
煙が風に流れていく様を見る。山下が何を言わんとしているのかくらい修司には分かっていた。
(敏い奴だな…)
相変わらず理子に関する事だけは鼻が利く。
「理子を大事に出来ない男にアイツは任せられない。…別れろよ」
飛躍した結論をせせら笑った。
「冗談だろ」
「いや、本気。もう理子には近づくな」
「お節介にもほどがあるぞ。俺も言ったはずだ。いくら兄貴でも俺達の事に口を挟む権利は無いってな。シスコンも大概にしろよ」
「これを見てもか?」
煙草を口に咥えた山下が内ポケットから取り出した携帯を操作して、修司にかざす。
目を眇めて映し出された画像を見た。
「…これが?」
映っていたのは、パソコンに向かう社員の姿。防犯カメラの映像だろう。上から撮られた画像には清水の顔がはっきりと見て取れた。
なんの変哲もない。周りの明るさから見て残業している風景としか見えなかった。
返答のしようがない修司を見て、山下がもう一枚の画像を見せた。
途端、修司の顔色が変わる。
「わかっただろ。彼女が見ていたのは課長以上でしか見れないはずの個人情報。夜の11時にする残業にはうってつけだな?」
清水が見ていたのは理子に関する個人情報だった。
瞠目すると、今度は山下がせせら笑った。
「お前のせいなんじゃないのか?この画像は9月上旬、ちょうどお前達が付き合い出した頃だ」
言われて修司の眉が寄る。
「この頃から清水が日中社内で携帯を使っている姿が残っている。映像が無い日もあるが、毎日どこかに電話をかけているのは間違いないだろうな。そしてこの携帯はプリペイド式だ」
簡単に番号を使い捨てにできる携帯を持つ理由は、定期的に番号を変える必要があるときかもしくは相手に知られたくない時。
嫌な予感がした。
「それと、これがここ数日の画像。なんと清水がかけた時刻と同じ時刻に理子も電話をしている。…もう分かるだろ。彼女がかけていた相手は理子だ。それもこれだけ長期にわたってかけていたのなら、十中八九いやがらせだな。これでもまだお前が関係してないって言えるか?『完璧を求めすぎて考えが固執する傾向がある』それがお前が出した清水の評価だったよな。清水の中でまさにお前は完璧な人間だった。だからこそ隣に並ぶ女は完璧でなければいけない。理子じゃ役不足だと判断したんだろう。周りには"課長補佐にあの人はふさわしくない"と言っていたらしいしな」
何かと理子との関係に口を出してきた理由はそれか。
「しっかしアレは叩くほど埃が出てくるな。…見ろよ、理子の車に細工してるだろ?これは、釘だな」
徐々に目の前に立つ男から表情が消える。
おちゃらけた仮面を外して現れたのは、冷酷な面。凍てつくほどの視線を躊躇なく修司に向けていた。
「お前、あれだけ側にいて何も気づかなかったのか?いやがらせに気づかなくても、理子の異変くらいはわかっただろう?なんで黙って見過ごしたんだ」
「…気づいてたさ。理子が何かに脅えてることは知っていた」
「知っていただけじゃ意味がない。いいか、理子を大事にしろっていうのは側で甘い言葉を囁けと言ってたわけじゃない。理子を支えろと言ってたんだ。お前は上っ面の美味い蜜だけ吸って満足してただけだろう。今まであいつの何を見てきた?大事な話は何もしてなかったんじゃないのか?」
修司には返す言葉が無かった。
まさに山下の言う通りだからだ。理子との甘い時間に酔って何も話してこなかった。
もっと修司が理子の心を埋めていれば、理子が修司の想いに満たされ愛を感じていれば、心をさらけ出しただろう。だが理子は、心を開くことを怖がっていた。殻を被り、頑なになった心に「愛されている」と自覚させるには時間が必要だ。
闇の影に気づきながら、修司は理子可愛さに見て見ぬふりをし続けた。そのツケがこれだ。
『別れろ』と詰め寄られても仕方がない。
「昨日、理子は自分の車で帰って来なかった。修理に出したと言って、誰かに送られて帰って来たんだ。俺はそれが不倫相手なのかと問い詰めた。……理子が不倫していると言われて彼女を疑ったんだ」
「んなわけないだろう。あの男は今頃東南アジアでアクセク働いているさ。その情報も清水が?」
「……あぁ、俺が騙されていると涙ながらに訴えてきた」
「アホだな、お前」
呆れ顔で煙草をもみ消した山下が、修司を睨む。
「それで今日理子は休みなんだ。病欠だって言うのも嘘だな」
「……多分」
「修司。お前どうするつもりだ?今度もやっぱり"適当な恋愛"で終わるつもりか?」
適当な恋愛。
それは沙絵の時に言われた台詞だ。
理子に感じる気持ちは今までなかったもの。誰かを強く求めて手に入れたいと思ったのは彼女だけだ。
山下は訝しんでいるが、理子を好きだと思う気持ちは間違いなく真実。
(あぁ、そうか…。理子もそうだったんだ)
昨日、問い詰めた末に聞いた言葉が今、鮮明に思い出される。
彼女も自分が疑われている中で唯一確かな気持ちを口にしたのだ。
『浅野君が好きなの』
あれが真実。それ以外に何が必要だったというのか。
他に気持ちが向いているなら、あれほど寂しげに笑う必要があるのか。
言いたいことがあったのだ。でも、何を言ってもきっと修司は信じない。
それが分かっていたから、修司への気持ちだけを伝えた。
理子の言葉だけが真実だとぬかしながら、口を割らない理子に焦れた。彼女を送ってきた見知らぬ車に冷静さを失った。
だから理子が告げたものを一笑に付したのだ。
向き合おうとする理子に先に背を向けたのは修司の方だ。
愚か過ぎる自分が心底嫌になる。
「なぁ、修司。俺はお前をかってるんだ。理子がずっとお前に片思いをしていたのも見ている。偶然とはいえ隣同士になって理子に興味を持った時は嬉しかったんだぜ。あいつには今度こそ幸せになってほしいんだ。いい加減お前の本気を見せてくれよ」
理子が大事だと思うなら、自ずとやるべきことが見えるだろう。今、修司がすべきことは何だ。
修司にはそう言っているように聞こえた。
「もう"みんなの王子"は辞めにしようぜ」
唯一だと思えるものを守るために、その仮面を捨てろ。
―――俺にお前を潰させるな―――
射抜く視線は本気だ。今修司が手を打たなければ、山下は清水もろとも修司も潰す気だ。
この男が本気になればやる。山下には底知れぬ冷酷さが潜んでいる。
「……そうだな」
修司はやりきれない思いを溜息を共に吐き出した。
差し出されたタバコに思わず手を伸ばす。ここ数年は禁煙していたが、こんな気分は吸わずにはいられない。山下がライターを取り出すと、手で風よけを作って火をつける。久しぶりのニコチンは美味かった。
しばらくぼんやりとタバコを吸っていたが、ふと疑問が生まれた。
「清水は沙絵にも同じことをしてたのか?」
「いや、沙絵ちゃんはないな」
「なんでだよ?」
断言した山下をちらりと横目で見る。
二本目を吸いながら手すりに背中を預けて空を見上げていた。
「言ったろ?清水は完璧主義なんだって。沙絵ちゃんは誰の目から見ても"可愛い"。完璧な修司と可愛い沙絵ならお似合いじゃないか。何かするわけないだろ?なんだったら本人に聞いて見れば?……おっ、噂をすれば」
言って、山下が一階下の踊り場をのぞいた。つられて見ると、なんと沙絵がいる。手には牛乳パックとパンを持参していた。
図ったようなタイミングの良さに目を細めると、山下は素知らぬ顔で「沙絵ちゃん」と呼んだ。
まさにパンに齧りつこうとしていた間際の呼び声に、沙絵はおもしろいほど肩を跳ねさせて、振り仰いだ。
「な、なにしてんのっ?」
「沙絵ちゃんこそ。今日はジャムパン?」
確信を得た台詞に修司は冷たい目を向ける。山下はここで沙絵がパンを食べることを知っていたのだ。清水の話題から沙絵との事が話題にあがるのも想定済み。
ここへ修司を連れてきたことも計算の内だ。
社内の防犯映像を自由に閲覧し、役職以上の権限でしか見れないはずのデータを見ることのできる男。
その正体を知っていても、まだまだ得体が知れない。
だが、得体の知れない男は頼りになる。
「沙絵、今日暇か?」
大きな目が修司を見上げた。
「なんで?」
「夕飯奢ってやるよ」
「ん~、でも今日は約束が」
「悪い、こっちが最優先だ」
「えぇっ!横暴だなぁ」
「頼む」
付き合っていた時もこんな物言いはしたことがなかった。沙絵の予定をキャンセルさせてまで自分を優先させた修司に、沙絵は少し驚いた顔をしていた。
「まぁ、そこまで言うならいいよ。場所は?」
「沙絵に任せる」
「オッケ!じゃあ、定時であがってね。ロビーで待ってるよ」
見る間にジャムパンを口に収めて、沙絵は手を上げて入って行った。同じように手を上げた修司は「お前も来い」と隣でニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている山下をねめつける。
いつものお調子者の顔に戻った友人に、
「喰えない奴だよ」
と悪態づいた。