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窓恋  作者: 宇奈月 香
本編
21/46

20) 告げ口


☆★☆



 理子の様子がおかしい。

 企画書に目を通しているが、さっきから一行も頭に入ってこない。理子の異変が常に片隅にあって、気が散って仕方がないのだ。

 一緒にいても、どこか上の空。あれは絶対何かに気をとられている。

 でも、何に?

 話す口調も、笑う顔も、少し赤くなって修司の悪戯を責める仕草も、何も変わらないように見せているが、何かが違う。

 そう、理子の気持ちが自分に向いていない。

 それに気づいたのは、3、4日前からだ。

 ふとした拍子に浮かない顔になる。いや、『脅えた』と言った方が正しい。

 気がついた時に尋ねているが、答えはいつも一緒。「なんでもないよ」と笑うだけだ。

 間口を開けて待っているのに、理子は見向きもしない。修司には頼らない、と言われているようなものだ。

 なにかあったのは間違いないのに、その原因が分からないもどかしさが、余計企画書を読めなくしている。

 悩んでいることがあるなら、話してほしい。きっと力になれるはずだ。

 思えば、理子からは相談を持ちかけられたことがない。

 いろんな話をするが、自分の内側の話はしない。するのは日常の出来事や、シュウの事。時々先の未来も話すが、彼女の奥底までのぞいたことはなかった。

 理子の過去を聞く機会も少ない。

 小学生くらいの頃、化石発掘がしたくて庭先に山下のゴム製の怪獣を埋めたことは知っている。当時は土のあるところには化石があると思っていたそうだ。あいにく理子が住んでいた場所は埋め立て地で化石どころか貝殻すら出てこないような赤土だ。ならば化石を作ってやろうと兄のゴム製怪獣を埋めたのだが、すぐに見つかり断念したという、微笑ましい小話。

 だが話す年代はそこまでで、中学生以降の話は一切口にしない。

 逆に聞かれた事も無い。言いたくない話題は突かない主義なのだろうか。

 せめて大学の話くらいはと思うが、理子の嫌がる事はしたくない修司が改めて聞くこともなかったし、昔話をしなくても話題には毎日事欠かない日々だった。

 会社の愚痴は話すくせに、肝心な話をしない恋人。

 まだ心を預けられるに値しないのだと知らされる。

  

「浅野課長補佐」


 その時、部下の一人に呼ばれた。

 課内で修司を微妙に長く呼びにくい役職で呼ぶ人物は、一人しかいない。

 少しも頭に入ってこない企画書から視線を上げて、デスク前に立つ清水を見る。


「なに?」


 長い黒髪は理子とよく似ているが、きつい印象を与える目元が違う。

 能力はあるが、完璧を求めすぎるために考えが固執する癖がある。柔軟性とコミュニケーション能力が足りないことが難点だ。

 清水は物思いにふけっていた修司の優しくない眼光に、一瞬ひるんだ。


「あの…、今お時間よろしいですか。お話したい件があります」


 改まった清水に、少しだけ怪訝な表情になる。

 この企画書も今日中に目を通さなければいけないのだが、今の状態ではまともな判断もできそうにない。 

 気分転換も兼ねて、清水の話を聞くことにした。

  

「いいよ。話して」

「……ここは、ちょっと」


 声のトーンを落としたことで、内密な話であることを匂わした。


「わかった。隣に行こう」


 席を立って向かったのは、併設された会議室だ。間を仕切るガラスはボタンひとつでスモークガラスになり、防音設備もある。修司は外からの視線を遮断して、清水を椅子に促した。自分もその隣に腰を下ろす。


「それで、話って何?」


 清水は途端に口を噤んだ。揃えた膝に握った手を乗せて俯いている。思い詰めた雰囲気に深刻さが窺えた。

 仕事で問題が起きたのだろうか。


「清水。黙ってても分からないよ」


 このままだといつまでだって押し黙っていそうだ。話さなければ先には進まない。

 早急に手を打たなければいけない事態になっているとしたら、こんなところで時間を無駄にするわけにはいかなかった。

 修司が促すと、ようやく顔を上げた。だが勝気な目に涙が溜まっている。


「なに、どうし」

「課長補佐は、騙されてますっ」


 唐突だった。

 穏やかでない発言に修司は眉を寄せる。

 

(何の話だ?)


 前振りも説明も飛ばして結論だけ告げた清水を、黙って見返す。

 清水も潤んだ目を真っ直ぐ修司に向けた。


「私なんかがこんなこと言う権利が無いことは、よく分かっています。でも、あんな人に騙されている課長補佐を見ていられないんです。あなたは優しすぎるんです」

「……ごめん。全然言ってる意味がわからない」


 全く意図の掴めない話だが、口ぶりから察すると仕事関係ではないようだ。

 ならば清水の言う『あんな人』とは。


「総務課の白雪さんの事です。あの人、不倫してます」


 あがった名前とあらぬ単語に耳を疑った。


(理子が、不倫…?)


 なんて不似合いな言葉だ。そして、なんてバカな発想。

 彼女に不貞ができるはずがない。第一、四六時中修司と共にいる理子に、いつ不倫する暇があるというのか。

 とても男二人の間を渡り歩く器用さを兼ね備えているようには見えない。いや、無い。

 理子を見ていれば、それくらいわかることだ。彼女の恋人は、自分ひとりだけ。

 呆れた。バカバカしくてまともに取り合う気も失せた。

 一蹴すると頭の芯がスッと冷えた。

 修司は沈黙を守りつつ、視線を眇めて注意深く観察する。

 知りたいのは、清水がこの話題を持ち出した理由。あえて告げ口をした目的はなんだ。

 話を切ってしまうのは簡単だが、それは利口とは思わない。

 真意を掴むには、まだ情報が足りなかった。

 修司の顔から『王子』の仮面が消えかけていることに、清水は気づいていない。


「そうですよね、突然こんな事言われても驚くと思います。でも私、偶然聞いてしまったんです。外から戻ってくる時に資料庫の中であの人が電話してる会話を。"タカフミさん、どうしてっ"て必死な声で問い詰めてました」

「どうして、それだけで不倫してると分かるんだ?ただの友人かもしれない」


 名前で呼び合うだけで不倫が成立するなら、世の中皆そうだ。

 言うと清水は憐れんだ表情で首を振った。


「課長補佐は噂をご存知ないだけです。あの人、大学時代もその人と不倫してたそうです。会話を聞いたのは私だけでありません。他に何人もの子が同じような会話を聞いています。そうでなければ噂なんて流れたりしませんっ。課長補佐が傷つくから、誰も耳に入れないようにしていただけなんです。でも、これ以上課長補佐が裏切られている姿を見たくないんですっ」


 それは修司の知らない理子の過去だった。

 まさか他人の口から聞かされる羽目になるとは思わなかった。しかもなんて内容だ。

 百歩、いや千歩譲ってその話が本当だと仮定してもだ。なぜ、それを清水が告げる。

 そういえば理子と付き合い出す前、ご丁寧に『理子は付き合っていないと言っている』と教えてくれたのも彼女だった。

 

(それで"あんな人"ね…)


 清水は不倫をしている女として、理子を見下したのだ。

 修司とて不倫を容認しているわけではない。どんな事情があっても人のものに手をつけるのだ、中傷されても仕方がない。

 だからと言って、自分の恋人を侮辱されていいわけがない。

 「課長補佐がかわいそうです…」と清水が涙を流す。

 なぜだろう。同じ涙でも、彼女の流すものに何も感じない。むしろ、白々しく見えた。

 わかっているのだろうか、彼女が口にした言葉の重大さを。

 清水は今、修司達の関係に波紋を生もうとしている。

 冷めた目で見下ろすと「信じてくれないんですね…」とうなだれた。


「忠告だけは耳にとどめておくよ。でも、俺達の事に他人の君が口をはさむのは関心しない」

「でも、その権利はなくても」

「だったら、黙っていろ」


 部下という立場だけでは、修司の恋愛に口を挟む権利は無い。


「課長補佐っ」


 次第に頭の奥で苛立ちが生まれてきた。

 理子の過去については動揺はしたものの、それについて清水と話すつもりはさらさらない。

 いつまでもこんな茶番に付き合ってやるほど暇でもないのだ。


「君はそれを俺に言ってどうしたいんだ?目を覚ませとでも言うつもりか?」

「でも、裏切られているんですよ?」

「それはただの憶測だ。誰も現場を見たわけではないだろう」

「だったら電話の件はどうなるんですかっ?聞いたのは私だけじゃないってお伝えしました」


 その気になれば話はいくらでもつくれるのだ。それが事実である保障はどこにもない。

 恋人の不貞を密告する理由は、二つ。

 純粋な正義と、悪意。彼女の場合はどちらだ。

 清水は部下だ。多少目につく部分もあるが真面目な人間だ。

 だが修司が見ているのは多面体の一面。それが全てではない。つまり、清水の話を全面的に信用できるほど彼女に信頼を寄せていない、ということだ。

 

「仕事の話でないなら、もういいね」


 くだらない。

 他人の口から恋人の過去を聞き、不貞まで匂わされておもしろいはずがなかった。

 真実は本人に聞けばいい。他人の口を使えば、必ず入らぬ干渉が入るのは分かり切ったことだ。

 修司を納得させられるのは、理子の口から語られる言葉だけ。その他は雑音にしか聞こえない。


「待って下さい!お願いします、信じて下さいっ」


 立ちあがった修司の腕に清水の手が掛かる。修司はそれに視線を這わすことで放すよう促した。『王子』の仮面を外した眼光の鋭さに、清水の手が震えた。


「話が終わったら仕事に戻って」

 

 事務的な口調に清水が悔しそうに唇を噛みしめる。

 終止符を打った修司にまだもの言いたげな様子だが、しぶしぶ席を立ちあがった。

 清水が会議室を出て行くのを見届けて、再び椅子に腰を下ろした。

 テーブルに肘をついて、そこに額を乗せる。

 無意識にため息がもれた。

 清水の言った通りだとするなら、理子が過去を話したがらない理由も納得する。

 誰だって消したい過去はある。終わった恋を掘り返して問い詰めるつもりもない。

 過去は過去でしかない。

 それが今の彼女に続いていると思えば、受け入れることはできる。

 だが清水は気になる言葉をいくつか残した。


 『課長補佐は噂をご存知ないだけです』

 『会話を聞いたのは私だけでありません』


 密告は修司の心に『不審』という種を芽吹かせてしまった。

 確かめるべきだ。

 理子と向かい合うことでしか、この芽は刈りとれない。

 もしかしたら、それが理子の異変と何か関係があるかも知れない。

 心が決まると修司の行動は早かった。

 デスクに戻り、企画書に目を通す。担当者を呼び、修正事項と再提出期限を伝え、さっさと帰り支度をする。

 会議室から出てきた清水を見て、何人かが当惑していたが修司の知るところではない。

 

「お先」


 短く告げて、会社を後にした。







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