2) 祖母の面影
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「それで、今日から実家通勤ってわけか。大変だな、お前も」
社員食堂で「今日のおすすめ」サバの味噌煮を美味そうに頬張っているのは、同期の山下。部署は違うが入社当時からなんとなく馬が合って、以来友人の関係を続けている。
「どうせなら、この機に沙絵ちゃんと同棲でもしたら良かったのに。向こうだって、"そろそろ"そういうの意識してんじゃないのか」
「やめてくれよ。俺はまだ結婚に縛られたくない」
キツネうどんに浮かぶ油揚げを箸でつつきながら、修司は辟易した顔を見せた。
沙絵は一昨年入社してきた女子社員で、その容姿をかわれて受付をしている。修司より5歳年下で可愛いと思うが、それが結婚に結びつくかといわれると「否」だ。
彼女に家庭的なものは求めてないし、四六時中一緒に居るのかと思うと、正直疲れる。
可愛いだけでは結婚に踏み切れない。それが本音だ。
「あ〜ぁ、可哀そうに。あの子、25歳までに寿退社したいって周りに言ってるらしいぞ。もちろん、相手はお前な」
「……ウソだろ?」
「ほんと。修司ももうすぐ30歳になるんだし、そろそろこの辺で決めたらどうだ」
「そういうお前は早かったよな。もうすぐ生まれるんだろ?二人目だっけ」
「そうなんだよ〜。来月の3日が予定日なんだけど、今から落ち着かなくって。嫁はもう臨月に入ってるし、いつ生まれてもおかしくないんだよな」
大学卒業と同時に結婚を決めた山下は、もうすぐ二児のパパになる。嫁の美咲は山下の胸ほどしかない小ささと線の細さのせいか頼りなさを感じたが、話してみるとこれがしっかりしていて、山下の手綱をしっかり握っていた。
二人を見ていると結婚もいいなと思うが、自分が子供を抱いている姿がまだ想像できない。
隣に並ぶ嫁の輪郭すら浮かばない。
(……あれ?)
浮かばないはずなのに、なぜか声だけは浮かんだ。昨日聞いたあの歌声だ。
(なんでだ?)
自分でも理解できない発想に、思わずうどんを食べる手が止まる。
顔も知らない、隣人。歌もまともに歌えないような女の歌声がどうして嫁の理想像に当てはまったのか。
「どうした?うどん、そんなに不味いか?」
じっとうどんを睨んで難しそうな表情をしている修司の顔を山下が覗きこんだ。
「あ、いや。なんでもない」
(昨日聞いたから、たまたま思い出しただけだ。自分に暗示めいたものをかけるなんて、バカバカしい)
修司は改めてうどんを食べ始めた。
出汁を吸って太さが増したうどんは、何の喉ごしもなかった。
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今夜も窓越しから隣人の鼻歌が聞こえる。
(今日はアニソンか…)
どうやら修司が風呂に入る時間と、隣人が台所をつかう時間は同じ時間帯らしく、今夜も隣人のワンマンライブを風呂場で聞いていた。
今歌っているのは、昔見た「○○食品」提供の世界名作劇場でやっていた「ピー○ーパン」だ。歌詞が合っているかは知らないが、相変わらず鼻歌とは思えない熱唱ぶりを披露している。
(こっちに筒抜けだってことに気づいてないのか?)
窓を半分だけ開けた状態で歌えば、外に聞こえることを知らないのか構わないのか。
どちらにしても、修司にはいい迷惑だ。
だったら窓を閉めて入ればいいだけの話だが、なぜかこっちも浴室の窓を半分だけ開けている。
(別に聞きたいわけじゃない。風呂場が暑いだけだ)
少し鼻にかかった歌声も耳触りではない。音程が良いのが救いだと、とってつけたような言い訳で自分を納得させ、たっぷりと彼女の歌声を堪能した。
「あら、めずらしくゆっくりとしたお風呂ね」
湯気のたつ修司を見た母が、驚きの声を上げるほどに。
冷蔵庫からビールを出してテーブルにつくと、旨そうなトマトがゴロゴロと転がっている。
「母さん、このトマトは?誰かにもらったの?」
買ってきたにしては不格好な形だが、色は真っ赤で張りもある。手にとって眺めていると、
「それね。お隣の理子ちゃんがくれたのよ。たくさん採れたから、良かったらどうぞ、って」
「理子ちゃん?」
「そう。白雪 理子ちゃん。お隣さんよ」
白雪 理子。なんだかメルヘンチックな名前だ。
「トマト作ってるんだ」
「修司の部屋からも見えるでしょ。お隣の広い畑。あそこで作ってるのよ」
「別にわざわざ作らなくても、スーパーに行けば売ってるだろ」
「それはそうだけど、やっぱり自分で作ったのは美味しいのよ。買えば簡単だけど、トマトだって数を買えば結構するのよ。それなら多少手間暇がかかっても苗を買って育てた方が安上がりだし、育てる楽しみもあるんだって。初めて作るから美味しいかどうかはわかりません、って言ってたわ」
理子との会話を思い出した母が、嬉しそうに笑っていた。
そんなものか、と手にしたトマトを眺める。
「そういえば、昔はばあちゃんが作ってたよな」
一昨年亡くなった祖母が元気なころは、毎年何かと野菜を作っていた。ジャガイモ掘りに、トマトの収穫。トウモロコシも捥いだ。
ニンジン嫌いの修司も、祖母の作ったニンジンだけは不思議と食べていた。
学年が上がるにつれて徐々に手伝うことはなくなったが、祖母が作った野菜はうまかった。
不細工なトマトを見ていると、祖母の面影を思い出す。
「母さん、これ一個洗ってよ」
手にしていたトマトを台所に立っている母に差し出した。
「冷えてないわよ」
「このままでいいから」
昔は獲れたてを食べた。なまぬるくてもうまいものはうまい。
洗ったトマトを受け取って、さっそく一口かじる。
口の中に広がる少しきつめの酸味。それ以上の旨みが唐突に記憶を呼び覚ました。
(ばあちゃんのトマトもこんな味だったな)
記憶は薄れても味覚はちゃんと覚えている。修司は無心で理子の作ったトマトを食べた。
「ごちそうさま」
見る間に腹の中に治まったトマト。母は満足気にそんな修司を見ていた。