18) 過去からの足音
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金木犀の香りが満ちた秋の半ば。
理子の家には、昆布だしの良い香りが漂っていた。
今夜の夕飯はおでん。昨夜から土鍋でじっくり煮込んだ力作を馴染みの顔が取り囲んでいる。
そもそもなぜ季節を先取りしておでんなのかと言えば、理子の兄・尚樹の我が儘ゆえだ。
しかも、自らリクエストしておきながら、当人はひどい仏頂面をぶら下げている。
「俺は認めてないぞ」
黄金色に染まった大根をつついて、尚樹がじろりと二人、いや修司を睨む。いいほど熱燗を飲んだ尚樹の目は据わっていた。
「もう、尚ちゃん。また言ってる」
理子は親の敵みたいにつつかれていた大根を、尚樹の皿によそいながら呆れた顔をした。
「そうだぞ、"お兄ちゃん"」
「お前の"お兄ちゃん"になった覚えはないっ!」
噛みついた尚樹に、修司は知らん顔で牛すじを食べている。
もう尚紀をあしらう態度も堂に入ったものだ。
晴れて『恋人』になった二人を素直に祝福できない尚樹は、思い出したように理子の家に押しかけては二人の邪魔をする。妻の美咲は二人の付き合いを賛成しているのだが、妹を思うあまり今や尚樹は立派な小姑になっている。行き過ぎた行動を無言で咎める妻の視線から逃れたい、という私的な理由もここへ足を向けさせる理由のひとつだ。
「理子、本当にこいつでいいのか?よぉく、考え直せ。今からだってちっとも遅くないんだからな」
「なに、言ってるの…。"よぉく"考えました」
それこそずっとこうなることを願ってきたのだ。今更何を考えるというのだろう。
「尚ちゃんこそ、美咲に何て言って家に来てるの?ちびっこ達の面倒も見ないで…、愛想尽かされたって知らないんだから」
「嫌な事言うなよっ!それでなくても最近美咲の目線が冷たいんだからなっ」
「じゃあ、帰れよ」
理子が注いだビールを飲み干して、修司が冷たく言った。
「でも、理子も心配なんだよっ!」
ずばり言われたのがおもしろくなかったのだろう。尚紀はムキになっている子供のようだ。
修司は鼻で笑っていたが、理子は尚樹がここまで過保護になる理由を知っているので、強くは言えない。もとはといえば、このシスコンの原因を作ったのは、理子自身だ。
もうすぐ二桁の年月が経とうとしているのに、未だに尚樹に心配をかけさせつづけている。
間に何度か恋愛をしていれば、ここまで過保護になられることもなかったのだろうが、過去の恋愛が残した爪痕は深く、無意識に理子を恋愛から遠ざけてきた。
おそらく尚樹も修司が信頼に足る人物だと分かっている。それでも確固たる確証が欲しいのだ。
『絶対に理子を裏切らない』という修司の誠意が。
「……心配症ね」
兄の気持ちが痛いほどわかるから、理子ははにかむことしかできない。
理子の過去は当然、美咲も知っている。非難の視線を向けつつも何も言わないのは、尚樹の気持ちがわかるからだろう。
「理子ちゃんも面倒な兄貴を持ったな」
「いいのよ、慣れてるから」
鬱陶しいくらいの尚樹に、理子は救われたのだ。
これを煙たがることなど、理子にできるはずがない。
修司には少し申し訳ないが、せめて尚樹が二人の事を認めてくれるまでは我慢してもらうしかない。
まだひとりぶつぶつと愚痴を言っている尚樹に水を出すため台所に入ると、修司も後についてきた。
「ん、何?」
傍に立つ気配に顔を上げると、不意に落ちてくる柔らかに感触に一瞬息が止まる。
目を見開けば、すぐ間近にある端整な顔が、蕩けるほど甘く微笑んだ。
「好きだよ」
満足気に笑う修司を見たら、理子は何も言えなくなる。
秋祭りから、少しずつ修司は理子に触れる。手や指、髪の先に唇を落とす。
『ここまでは?』『ここまでは、いい?』言葉にせずとも、視線が語っている。理子のわずかな反応も見逃さないよう真っ直ぐ見つめながら、唇を落としていくのだからたまらない。
修司は焦らすほどゆっくりと『友人』という色を染め変えていく。
今はまだ唇だけだが、そのうち全てを許してしまう。もう抱きしめられるぬくもりや、唇の感触だけじゃ物足りなくなっている。
体に生まれる鈍い疼きが何であるかも知っている。それは以前付き合っていた男性から嫌というほど教え込まされたもの。
「な、尚ちゃんがいるときは、嫌っ」
声音を押さえて言うと、修司は小さく肩をすくめた。
「だって、あいつがあんまり"理子、理子"言うから、ちょっとムカついた。それに、理子ちゃんだって全然嫌そうじゃない」
「それは……、兄妹だもん」
「山下には、俺が猛獣にでも見えてるのか?全く信用されてないんだけど」
修司は面白くない顔をして言う。
「それも……、そのうち分かってくれるよ」
今はそうとしか言いようがない。確かに修司にしてみれば、付き合って以来ずっと同じことを言われ続けられているのだ。面白いはずがない。
もしかして、何か感じているのかも知れないが、聞かれてもいないことをわざわざこちらから突くことはない。
知らなくていいことだって、あるはずだ。
「……まぁ、いいけど」
修司はまだ少し憮然としていたが、もう一度理子の唇を奪う事で手打ちにした。
直後、理子の鉄拳が脇腹にめり込んだのは言うまでもない。
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その夜、理子の携帯が鳴った。
調子良く歌っていた鼻歌と水道の水音で、それに気づくまでに時間がかかった。慌てて携帯をとり、通話ボタンを押す。
「はい、もしもし?」
直後、プツ…と回線が切れた。
「……っ」
一方的な切られ方に、理子はちょっと面食らった。
間違い電話だったのだろうか。それにしては随分失礼な切り方だった。ムッとしたものの、すぐ思い直して携帯を戻した。すると、また着信音が流れる。
眉を寄せながら、再び携帯を取る。
「もしもし?」
出ると、また切られた。
(なに、これ……)
本当に間違い電話なんだろうか。連続でかかってきて、両方とも無言で切られた。
沈黙した携帯をじっと凝視する。なんだか気味が悪い。
三度目もかかってくるだろうか。だとしたら、それはもう『無言電話』だ。
でも誰が、何のために?
履歴ボタンを押して番号を表示させるが、11桁の数字の羅列だけでは誰の番号なのか分からない。アドレスに検索をかけてみるが、誰にも当てはまらなかった。
やはり知らない番号だ。
着信拒否にしてしまおうか。だが、たかが2回かかってきた程度でそれは大げさな気がする。
もう少し様子を見てからでも遅くは無いはずだ。
不気味な感じはするが、理子はそのまま携帯を置いた。