14) 発端
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「白雪さんって、課長補佐と付き合ってるんですか?」
営業課まで請求書の確認をしに行った帰り、理子を後ろから呼びとめる声がした。
振り返ると、胸のあたりまで伸びた黒髪が印象的な女性が挑戦的な視線を向けている。
少し見下ろす格好になったので、背は理子よりも低い。
「あ…と、ごめんなさい。あなたは…」
「企画開発部の清水です」
企画開発部は営業課の途中にある。理子が通るのを見て後を追いかけてきたのだろう。
だがその内容がこれか。
とても勤務時間中に呼び止めて話す事だとは思えず、『またか…』と胸の内でため息をついた。
最近やたらとこの質問をされる。
顔を知っているくらいの女子社員や、同じ課の男性社員までもが口を揃えて同じ事を言ってくるのには、辟易していた。
発端は、修司の変化だ。
廊下ですれ違えば声をかける、食堂で一緒になれば同じテーブルに座る。
修司がはっきりと態度に表わすようになったのは、夏の終わりごろから。同僚で同期なら珍しくないことだろうが、修司は『王子』だ。
誰にでも優しいが特別はいない、というのが謳い文句だった男が、ここまで誰か一人をかまう姿を見たことがない。付き合っていた沙絵ですら、この扱いはなかった。
当然、社員達の目に二人は「特別な関係」と映った。
理子が勤務する会社は、社内恋愛を禁止していないので、昼休みは肩を寄せ合ってランチをとっている姿は当たり前に見られる。
隣に座る人が違う男性ならば、ここまで気に掛けられないのだろうが、相手はあの『王子』だ。
理子と修司の向かいに尚紀が座っているのに、誰の視界にも入らないから困っている。
修司ほどではないが、尚紀もインパクトのある外見をしているはずだが、修司の変貌の前には霞んでしまった。
(大人なんだし、放っておいてくれないかな…)
二人の様子を温かく見守る目は、まだ少ない。
沙絵が彼女の座にいた時は、「高木 沙絵なら仕方がない」と納得せざるをえない部分があった。それは沙絵が誰の目から見ても可愛いからだ。
だが、理子は違う。人ごみに紛れたら分からなくなるよう『「普通』の容姿。
だからこそ、こぞって真意を聞きたがるのだろう。
「……付き合ってないわ」
語尾につく『まだ』の一文字を口の中に残して理子は言った。
残酷だと思う。
誰よりも答えを知りたいのは、理子の方なのに。
付き合っていないと自分の口で否定する度に、現実を見せつけられる。
(付き合ってますって、言えたらいいのに……)
そう言えば、もう誰も聞いてこなくなるのだろうか。
ううん、違う。今度はきっと「どうしてあなたが?」と言われるに決まっている。
ならば嘘でも「付き合っている」と言ってやろうか。だがそんなことをすれば、きっとすぐに修司の耳に届く。
修司は理子をお隣さんで友人としか思っていなかったら、とんだ思い上がりだ。
彼の気持ちを聞きたいけれど、怖い。
そのせいで今の関係が壊れるのが怖い。
ずっと見ているだけだった人が、やっと近くに来てくれたこの場所を離れたくない。
そう思うととても告白する勇気はない。
もっと、確信できる何かがあれば。
そんなものがあれば、誰も苦労しない。
思わず漏れたため息が、清水に油を注いでしまった。
馬鹿にされたと勘違いした清水が頬を紅潮させて、理子を睨む。
「付き合ってもいないなら、あまり課長補佐の周りをうろつかないでください」
嫌悪と侮蔑を眼差しに乗せて、理子を睨みつける。
きつい視線を真っ向から受け止めて、ぐっと奥歯を噛みしめた。
ここまではっきりと「邪魔者」扱いされる理由は何だろう。
理子は誰に対しても同じ返事を返している。
それに対して納得いかない顔はされるものの、だからと言って何かを言われたりされたりしたことはない。
こんな風に邪険にされる覚えもない。
(うろつかないでって……)
余計なお世話だ、と怒鳴ってやりたい。
清水は正論を述べているつもりだろうが、見当違いもいいとこだ。
その目は何を見ている。理子と修司の間には必ず尚紀がいるのが見えていないのか。
勤務時間中ならいざ知らず、昼休みに世間話をするのがいけない事だとは思わない。
周りを不快にさせるような態度もとっていない。会社にいる間は、常に修司を『同期』という視線で見ることを心がけている。それは修司とて同じだろう。
会社でなければ会えないわけではない。ほほ笑み合うのは帰ってからで十分だ。
清水がどんな意図を持って理子を非難したのかはわからない。
これが部下という立場からではなく、個人的な嫉妬から出た言葉だとするなら…。
「もう、行ってもいいかな」
これ以上、清水とこの話を続ける気はなかった。
理子ですら今の状況をうまく理解できないのに、他人に話せるわけがない。
付き合っているかと問われたから、ありのまま伝えた。
それだけのことなのに、なぜこんな言葉を言われるのだろう。
清水は理子だけが悪いと責めた。
苛立った気持ちが、理子にすげない態度をとらせる。それが清水の自尊心を傷つけた。
「ちょっと構われてるからって、いい気にならないでっ」
捨て台詞を残して走り去った後姿を唖然と見送った。これでは残された理子が悪者みたいだ。
釈然としない状況に、額を手のひらで擦りながら重たい息をつく。
「苦労してるみたいだな」
ポンと肩を叩いて、営業課長の深澤が現れた。
外回りの帰りなのだろう、深澤からは少しだけ土のにおいにおいがした。
「深澤さん…。聞こえましたか」
「たまたま、ね」
苦笑いを浮かべて尋ねると、深澤は少し肩をすくめて見せた。
「お見苦しいところをお見せしました」
「それは構わないが、随分な言われようだったな。いい気にならないで、か」
清水の捨て台詞を繰り返して含み笑いをする。
「それで、本当はどうなんだ?付き合ってるんだろ?」
「深澤さんまでそんな事を…。本当に付き合ってません、まだ」
今度は、ちゃんと最後まで続ける。
営業課長という肩書の他に、深澤には『親友の恋人』という特別な肩書がある。そのせいもあって、心を開いて話せる一人だ。
「ふぅん。まだなんだ。浅野って意外とオクテなんだな。理子ちゃんにその気はあるんだろ」
「…はい」
隠しても仕方がないので、理子は素直に頷いた。
「だったら、理子ちゃんから言えばいいのに。付き合って欲しいって」
「……言って振られたら、立ち直れません」
だからいつまでも同じ場所で足ふみをしているのだ。
「ま、それはそうだ」
深澤も今の恋人を落とすまでに珍しく時間をかけた身なので、理子の言葉に素直に頷いた。
「あいつは?理子ちゃんが陰で因縁つけられていることを知ってるのか?」
「因縁って…」
大げさな言い回しに、思わず笑いがこぼれる。
「浅野君には言ってません。別に何かが変わるわけでもないですし。それにあんな事言われたの、今回が初めてですよ」
そう、今は物珍しさが目障りなだけ。時間が経てば見方も変わってくるだろう。
「だといいがな」
何か言いたげな深澤だったが、それ以上を語ることはなかった。
☆★☆
理子の杞憂を知らない修司は、変わらず優しくて甘い。
「今年の秋祭りは、一緒に行こうか」
ソファに並んでテレビを見ていた修司が、当り前のように理子を誘う。二人の間に入って寝息を立てているシュウに「お前も一緒な」と声をかけた。
修司の言う秋祭りは市で一番大きな祭りだ。10日間かけて行う祭りには大勢の市民や観光客もやってくる。
『山車』と呼ばれる神輿に武者鎧を付けた人形を乗せて大通りを練り歩いたり、カーニバルやパレード、夜は民謡踊りもある。
アーケードの軒下沿いにひしめく屋台に目移りしながら歩くのが恒例で、人ごみの中を歩くせいか一周するだけでくたくたになる。
最近は疎遠になっていた祭りだが、修司が連れて行ってくれるのなら、ぜひ行きたい。
その時、思い切ってあの日の事を聞いてみようか。
飾り棚に食玩と一緒においてある、色褪せた『キン○マン』のゴム人形。修司はいつ気づいてくれるだろう。
「うん」
一緒にいられるなら、少々のやっかみくらい耐えられる。
清水が修司に上司以上の感情を抱いているのは、目を見て感じた。だからと言って理子が身を引く理由はない。
自分の存在で他の誰かが泣いているとしても、理子にはどうすることもできない。
修司が好きだから。
この現実が偶然が重なっただけのものだとしても、やっと舞い込んだ切符を手放すわけにはいかなかった。