13) ままごと
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『お好み焼きをするので、食べに来ませんか?ただしビールは持参してね!』
理子からのメールに気がついたのは、午後の会議を終えて机に戻ってきたときだ。
絵文字も顔文字もない、文章と簡単な記号だけで作った文面。ところどころ敬語混じりなのが理子らしい。
アドレスの交換をしたのは、見舞いからの帰り道だ。
「アドレス?じゃあこっちからメールするから、えっと…、綴り教えて?」
赤外線通信を教えると、「そうでした…」と恥ずかしそうに苦笑した。
あの日、病室で里奈を抱いた理子は綺麗だった。母性にあふれたほほ笑みを、惜しみなく腕に眠る子に降り注いでいた姿は、修司の心に沁みた。
まるで最初からそこにあったものが戻ってきたように、わずかなズレもなくすんなりと落ちた。
あの時、頬を伝う涙をぬぐってやりたいと思った。
側にいてやりたいと感じた気持ちが、理子を意識しているのだと教えた。
偶然耳にした鼻歌が気になったのも、理子との未来を思い描いたのも、彼女の一挙一動に振り回されるのも、ただの興味本意ではないことくらいもう分かっている。
ただ、まだそれを認めるにはあまりにも時間が短すぎる。
知り合って間もない人に、こんな感情を抱くのは間違っているだろうか。
マイペースでどこか抜けているのが危なっかしくて、そのくせ飄々(ひょうひょう)としている。そしていつも楽しそうだ。笑顔で隣にいてくれるだけで心が和む。その日遭ったことを笑って話す姿に、どれほど癒されているか、理子は知らない。
『7時過ぎになるけど、いいかな?』
『お待ちしております』
すぐに届いた返信に、口端が緩んだ。
修司はさっさと仕事を切り上げて、帰りにコンビニで6本入りのビールと、チューハイを2本買った。
こうして理子の家で夕飯を食べるのも、これで何度目だろう。
あれからもうひと月が経っていた。
理由を見つけては会う約束をしていたのは、最初の頃だけで、今は週末を一緒に過ごすのが当たり前になっている。
いや、修司が当たり前にさせている。
会う回数を重ねていく毎に、理子の事を覚えていく。
例えば、酒は好きだが飲む量は少ないこと。どれも舐めるようにちびりちびりと飲むこと。
その中で割と好んで飲むのが、梅酒とカルピスサワーだということ。
修司はそれぞれを一本ずつ買って、一旦家へ戻り、着替えてから隣へ向かった。
出掛けに母が、
「理子ちゃんにコレ上げて。おいしそうな巨峰をいただいたのよ」
と実が張った巨峰を持たせた。
インターフォンを押すと、「どうぞ-」と声がする。
下駄箱の飾り棚には、観葉植物と『ルパン○世』の食玩が飾ってある。先週は『E○A』のフィギュアだった。頭と腕の一部がえぐり取られている部分までも再現してあるそれは、えぐい。理子は幸子が置いていったものだと言い張っていたが、
「このえぐい感じがたまんないのよね」
と恍惚に似た表情で熱く語っていた時点で、ボロが出ている。フィギュアが好きなのは男ばかりだと思っていたが、どうやら修司の偏見だったようだ。その証拠に理子の家には食玩やプラモデル、フィギュアが点々と飾ってある。
興味がないなら、まず片づけるだろうそれらが埃も被らず飾ってあるのを見ると、理子も満更ではない。
「お帰りなさい、浅野君」
台所でお好み焼きのタネを作っていた理子が、修司に気がついて顔を上げた。
『いらっしゃい』ではなく『お帰りなさい』。
ままごとみたいだ。
「お帰り、修司」
ただし、小姑付きのままごとはいらない。
「お前、また来てたのか?」
シュウを上に乗せてソファに寝そべりながらテレビを見ている山下に、修司はうんざりとして言った。
「つれないな。今日は俺がお好み焼き食べたいって言ったから、呼ばれたんだぞ」
俺のおかげだ、と言わんばかりの口調にますます気持ちが萎える。
美咲が上の子を連れて実家に帰っている間、山下は何かと理由を付けて食事をせびりに来る。
一人で食べる夕飯は味気ないだとか、レトルトや弁当はまずいとか、白米が食べたいとか、修司から見ればどうでもいい理由ばかりだ。
ならば理子のもとへ通わず、美咲の実家に行けば良いだろうと思うが、それはしない。
「だって、行ったら絶対何かと用事させられるし、ちっともゆっくりできないじゃん」
要はぐうたらでも文句を言わない理子が心地良いのだ。
呆れた山下は放っておいて、渡された巨峰を理子に差し出した。
「これ、母さんから理子ちゃんへって」
「わぁ、おいしそうっ!後から食べようねっ。冷蔵庫に入れておいてくれる?」
顔を明るくさせて喜ぶ理子に心が洗われる。一人暮らしには十分すぎる大きさの冷蔵庫に飲み物と巨峰をしまうと、理子のすぐそばに立った。
「手伝おうか?」
「大丈夫、もうすぐ終わるから。それに浅野君には"焼く"ていう大仕事が待ってるのよ」
「理子ちゃんはひっくり返すのはヘタクソだからな」
「も~。まだ言うかな」
ひっくり返した生地が、二つに折れて半円形の分厚いオムレツみたいになった。以来、タネを作るのは理子、焼くのは修司の役目になっている。
「お~い、修司。腹減った」
せっかくの気分に水を差すのは、いつだって小姑。
上半身をホールディングしているシュウが、山下が動く度に「ウウゥッ」と唸っている。
ベッドが動くな、と言っているようだ。
「尚ちゃんも寝転がってないで、油くらい引いてよ」
言って冷凍庫から脂身を取り出して十分に加熱されたホットプレートに落とす。修司は出来上がったタネの入ったボウルを抱えて、長机についた。
生地を流し入れたそばから熱で焼かれる香ばしい音に、山下を支配していたシュウが顔を上げた。そそくさと下りると、修司の隣でお座りをして愛らしく見上げている。
持参した飲み物と麦茶、それにハラミの入ったボウルを乗せたトレイを持って、理子がやってきた。
ホットプレートの空いたスペースで肉を焼くのも、理子流。
本人はさほど食べないが、肉は山下の好物だ。
台所へ戻り、まだ作業を続けている理子の後ろ姿を見ていると、ハラミを焼き始めた山下が言った。
「修司、俺は認めたわけじゃないぞ」
「なんだよ。藪から棒に。もっと話は脈絡を持ってしろ」
「理子のことだよ。確かに沙絵ちゃんとの事が片付いたらって言ったけどな、付き合っていいとは言ってない」
ジュワ…と肉独特の香りが立ち込める。
「それは俺と彼女が決めることだ。兄貴だからって口出しする権利はないと思うぞ」
「なくても言いたいの。あいつには本当に大事にしてくれる男でないと駄目だ」
「それって俺のことだろ?」
「馬鹿言え。理子はお前のことなんてなんとも思ってないよ。だって警戒心無いじゃん」
痛いところを突く。
普通、部屋に男を上げるなら、それなりの展開を予想するものだ。
だが、理子にはそれがない。全くの無防備さに修司が戸惑ったくらいだ。もしかして山下と自分は同格なのでは、と不安が募る。
理子が修司の事を兄のような存在としか見ていないなら、警戒心が働かないのも納得がいく。
それでは嫌だ。
修司は理子の兄になりたいわけじゃない。
「遅くなりました」
ようやく作業を終えた理子が、修司の隣に座る。それだけで心が弾んだ。
修司に気があるから、隣を選んだのか。警戒心が無いからどこでも良かったのか。理子の心が知りたい。
(俺のことをどう思ってる?)
聞いてみたいが、聞きたくない。もし修司が思っている事がそのまま理子の口から語られたら、絶対に立ち直れない。やっとここまで来た関係すら壊れてしまいそうだ。
ならば、今はまだこのままがいい。
お隣さんとして、友人として理子に関われれば、今は満足だ。
「浅野君、もうそろそろ良いんじゃない?」
ひっくり返せと言われて、修司は二つある生地をひっくり返した。店で食べるより一回り大きいそれを器用に裏返す。
一人分ずつ三枚焼くより、みんなでつついた方が美味しそう、という理子の発案だ。
以前は、これをひっくり返したのは理子だったが。尊敬のまなざしで見られると、優越感が湧く。
こんなことでとしらける自分と、良いところを見せたい自分。
シュウは待ちきれないんだと、修司の腕を鼻で何度もつつく。
山下はさっさとハラミを焼いて晩酌を始めている。
焼きあがった生地にソースと鰹節をかけて皿に取り分けると、理子が笑顔になった。
ずっとこんな景色が続けば良いのに、と願う。
もうこの気持ちの正体が何なのか知っている。
だからどうか理子も同じ気持ちでいてほしいと、願ってしまう。
美味しそうにお好み焼きを頬張る姿に、自然と頬が緩んだ。
「おつかれさま」
言って、修司のグラスにビールを注ぐ理子は可愛い。お返しに理子のグラスにも梅酒を注ぐ。
いつからこんな尽くす男になったんだ。
呆れるくらい世話を焼きたがる自分が滑稽で、そんな自分も悪くないと思う時点でもう理子にハマっているのだろう。
口についたソースを指で拭ってやると、恥ずかしげにはにかんだ。
「冬になったらお鍋も良いね」
理子はごくさりげなく未来の話をする。
この先も続いていくのを望んでいるんだと思うと、たまらないほど嬉しさがこみ上げてくる。
「冬になったらな」
もうすぐ夏が終わろうとしていた。