11) デート
☆★☆
午前10時5分前。
修司は隣の家のインターフォンを押した。
「は~い!今行きま~す!」
引き戸越しで聞こえた声は、少し遠い。早かったかなと浮かれた自分を改めていると、「シュウ!お座り!待て。待てよ~」と号令を出す声がして、続いてドアが閉まる音。「よしっ!」の掛け声がしたと思ったら、引き戸が開いた。
「お待たせしました」
言って、笑顔の理子が現れた。
「準備は出来た?」
「はい。完璧です」
「シュウは?」
「家で留守番です」
理子が日中仕事に行っている間は、部屋でおとなしく待っているのだと言う。初めはサークルに入れていたが、トイレもほぼ完璧に覚えた事と、いたずらをすることなく待っていることが分かって以来、部屋を自由に歩ける状態にして留守番をさせているらしい。
「そうだ。コレ、持ってきました」
カゴバックから取り出したのは、昨日言っていた『コロコロ』。
修司が助手席のドアを開けると、早速シートを掃除し始める。毛だらけと言っても、乗っていたのはたった10分程度。終始理子が抱いていたおかげで言うほど落ちていないが、理子はしきりに気にしていたので、好きにさせる。
ものの2分程度で元通りになった助手席に、改めて理子を乗せた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
運転席に乗り込んだ修司を見て、理子がほほ笑んだ。
今日の理子は、少しゆとりのあるジーンズの裾をくるぶしが見える程度に巻いて、足元は真っ赤なローヒール。上はネックラインがゆったりとした、絹のような風合いの白いブラウスを合わせている。腰の部分で一度絞って、裾がドレープ状になっている綺麗なブラウスだ。
ショートパンツでないことにほっとしたいような、残念だったような複雑な感想はあるが、少なくとも目のやり場には困らない。
長い髪を片側で無造作にまとめていると、顔の小ささがよくわかる。
「それで、どこに行こうか。お勧めの店とかって知ってる?」
エンジンをかけて尋ねると、理子は得意気な顔をした。
「昨日いろいろとネットで見てたんですけど。市外の国道沿いにあるショッピングモールに可愛いお店があるんですよ。ただちょっと遠いんですけど……」
「それって最近出来たあそこだろ?そんなに遠くないよ?」
「そ…うですか?なら、やっぱりそこに行きたいです」
「了解」
シートベルトを締めると、理子もそれにならう。
「では、出発」
「お願いします」
☆★☆
道中の車内は笑い声と、とりとめのない会話で終始喧騒に包まれていた。
理子が告げたショッピングモールは、車で30分ほど行った場所にある。ただし高速を使っての所要時間だ。
ETCのゲートを通る間際、理子はしきりに「ゆっくり、ゆっくりですよっ」と何度も念を押していた。
ゲートのバーに当たるのを心配していたのだ。
(いや、そんなバカじゃないし…)
いくらなんでもここを猛スピードで通り抜けたりはしない。制限速度を守っているにも関わらず、理子はぎゅっとシートベルトを握りしめていた。
理子は出勤にパールピンクの軽自動車を使っている。ならば高速ぐらい乗ったことがあるだろう。
尋ねると、
「ありますよ?2回くらいなら」
と、耳を疑うような答えが返ってきた。
「2回?2回って、もしかして免許取ってからってこと?」
「はい。あんまり高速に乗る機会もなかったし」
「じゃあ、ちょっと遠出をしたいときは?」
「電車、ですね。後は友達と一緒だったり、どうしても行かなきゃ行けない時は下道で行ったりとか」
つまり、運転は得意でないということだ。
それならETCに慣れていないのも頷ける。
(これからもっと連れ出そう…)
出かけること自体は好きそうだ。ただ運転に不安があるせいで、いまひとつ行動派になれないのだろう。ついでに予備知識として都会に遊びに行った回数を聞くと、両手で足りる数だった。
未だに地下鉄の見方がわからなければ、切符も言われるがままボタンを押した、という筋金入り。
危なすぎる。
だが本人は露ほどもそうは思っていない。
「数をこなせば慣れるんですけどね」と呑気なものだ。それまでに絶対泣きを見る。
「ちなみに、方向感覚はどうなの?」
一抹の不安に駆られながら助手席を見ると、途端、理子が口ごもった。
「あ…っとですね、実はあんまり」
(やっぱりか)
「前に友達と大阪に買い物に行ったんですけど、駅でトイレに入ったらそのまま逆方向に歩いてました。似たような景色だと、どこを曲がったのかわかんなくなりませんか?」
「全然」
本物だ。たった今、修司の中で理子は最重要保護対象者になった。
ショッピングモールに着くと、早速目当ての店へ歩く。
先ほどの会話から、修司はよぎった不安を口にした。
「で、店の場所は分かってるの?」
「はい。1階です」
「……そこの案内図、見て行こうか」
自信満々で答えた理子は、首を傾げていた。
修司は入口付近の柱にある案内図から理子が告げた店を探し、歩き出す。その隣を理子が歩く。
途中、女の子が好きそうな雑貨屋やセレクトショップの前を通り過ぎる度に、理子の歩く速度が落ちた。
「後で見に来ような」
どこまでもマイペースな理子。だがそれに振り回されるのは楽しい。
修司を見上げて笑う顔が見れれば、それだけで嬉しいからだ。
たどり着いた店はベビー用品専門店というわけではなく、店の3分の1ほどは雑貨が置かれていた。
ベビー服やおもちゃ、マタニティ用品など、今はまだ無縁なものばかり。
いつの日か結婚して子供が産まれたら、買い物をしにくるのだろうか。その時、隣に立つ女性は彼女だったらいいのに。
(……て、なに考えてんだ?)
ごく自然に理子との未来を思い描いた自分に驚いた。
以前、山下に沙絵との結婚を追及された時、修司が思い描いた女性の声は理子だった。
今度ははっきりとそれが理子の姿と重なる。
「いらっしゃいませ」
女性スタッフがこちらに気づいて、笑顔で声をかける。
二十代くらいのスタッフに愛想笑いで対応している姿を見ながら、頭から幻想を追いだした。
そうしなければ本当に自分に暗示をかけそうで怖い。
「ちなみに浅野君は何か考えてました?例えば、こんなものがいいなとか」
「そうだな」
実を言えば、理子と出かけることばかり気持ちがいって、何も考えていない。
だが少し見栄を張りたくて、目に入った物を出すことにした。
「赤ちゃんの服…とかかな」
適当に言ったが、意外にも理子は「良いですね」と賛同した。
「あたしもいろいろ考えたんですけど、肌着ならいくらあってもいいかなって思って。後はおむつとか日常使う物でもいいと思うんですけど。どうでしょう?」
顎に手を添えて難しい顔になった理子に親しみを覚えた半面、適当な自分が恥ずかしくなった。
理子はあらかじめ店を決めていた。
昨日から考えていたのは明白で、真剣な表情に目を奪われる。
山下夫妻に訪れた天使を想う理子の気持ちが伝わって、胸が温かくなった。
「いいと思うよ」
きっと自分も驚くほど蕩けた笑みをしていただろう。
案の定、真正面にいる理子が固まる。
次いではっきりと分かるほど頬を赤らめると、慌てた様子で視線を背けた。
「じ、じゃあそういうことで!ここからは別行動にしましょうっ!」
あたふたと急いで修司から離れようとする理子の手を思わず掴む。
「どうして?一緒に見ようよ」
「あ…、え…っと」
「駄目か?」
首を傾けて、小さな目を覗きこむ。ますます顔が赤らんだ。かわいそうに耳まで真っ赤になっている。
修司も自分の容姿が他人の目を惹いていることは自覚している。
それを目当てに寄ってこられるので辟易していたが、こういう使い道もあるのか。
「駄目じゃないです」
耳を澄まさなければ拾えないほど小声で話す理子はおもしろい。
いちいち修司を満足させてくれる。
「ほら、選ぼう?」
つかんだ手を引くと、おとなしく理子が付いてくる。手のひらで包んだそれは、修司の心の中みたいに温かかった。
(少しやりすぎたかな)
男に対する免疫がないのはなんとなく感じていた。この程度で恥ずかしがるなら付き合った経験も少ないだろう。
まだまだいろんな理子を見てみたい。一秒前まで覆っていた憂いが、一瞬にして晴れた気分だ。
修司は陳列してあるベビー服を手に取って広げる。
「ちっちぇえ…。何これ」
本当に自分と同じ人間が着るのか。新生児はこれほど小さいのか。
目を疑うほど小さな服。かつて自分もそうだったのだろうが、そんな昔のことはどうでもいい。
「そんなものでしょう?」
ようやく復活した理子が、横から口を挟んだ。
「浅野君、赤ちゃん見たことないの?」
初めて砕けた口調になった理子の問いかけに、修司は首を振った。
「あるけど、ベビー服は買ったことがない。見てるのと手に取るのってこんなにも違うんだな」
「でも、可愛いよね」
理子もそばにある服を手に取っている。
ピンクは女の子、ブルーは男の子、黄色はどちらでも使える色だろうか。
しばらく二人で物色していると、いつの間にか側に店員が立っていた。
「贈り物ですか?」
顔を上げるとさっきとは違う店員だ。中年代の女性は店員というより『初孫を持ったお母さん』という印象の婦人。
「はい。友人への出産祝いです」
「それはおめでとうございます。女の子ですか?」
言い当てたのは、修司がピンクの服ばかり見ていたからだろう。
「えぇ、昨日生まれたんです。でもどれにしたら良いか迷ってしまって」
婦人は嬉しそうにほほ笑みながら頷き、さりげなくアドバイスをくれる。
「洋服を贈る場合でしたら、少し大きめのものを選ぶと良いですよ。子供はすぐに大きくなりますからね。そうですね…、この辺りのサイズがよろしいんじゃないでしょうか?」
案内したのは、今まで見ていたものよりもう少し大きいサイズが並んでいた。
「肌触りも良いですし、なによりお値段もお手頃です」
ちゃめっけの効いた口調に、思わず二人してはにかんだ。
「どうする?」
「良いと思う。浅野君は服に決めるの?」
「え、理子ちゃんは?」
「あたしは、あれもちょっと気になってるの」
指差したそれはケーキに見えた。
「何あれ?」
「おむつケーキ。おむつで土台を作って、あとはオモチャとかタオルとかでデコレーションしてあるんだけど、見た目も良い感じでしょ?」
尋ねているが、目は買う気満々だ。
土台のおむつを囲うこげ茶色のタオル、ウエディングケーキを模した天辺には、大きな耳が特徴のゾウが乗っていた。
(へぇ、ああいうのが好きなんだ)
やはり女の子だな、と思う。
「じゃあ、俺は服にするから、理子ちゃんはアレだな」
「うん」
贈り物はあっと言う間に決まった。