10) 約束
☆★☆
夏は昼が長い。
午後7時を過ぎて、ようやく辺りが暗くなり始めたころ、帰宅途中の車の中から見覚えのある後ろ姿を見つけた。
羽つきの扇を連想させる白い尻尾、それが群青色に染まりかけた空に向かってピンと伸びあがり、歩く度にふわふわと揺れている。隣を歩くのは髪の長い女性。
ショートパンツから伸びた見事な脚線美に一瞬目を奪われるが、心が弾んだ理由はそこではない。
速度を落として、一匹と一人の後ろ姿に近づく。
「理子ちゃん」
呼びかけると、驚いた顔をした理子が振り向いた。長い黒髪がふわりと揺れて肩を覆う。
「浅野さんっ」
耳馴染んだ声。
黒目がちな小さな目が、転がり落ちそうなほど大きく見開く。
そんな理子の反応に満足しながら、修司は「呼び方、違うよ?」と笑って窘めた。
「あ…、そうでした」
「ついでに敬語も止めような」
「は…うん」
『はい』を『うん』と言い直したかったのだろうが、続けたせいでおかしな単語になった。
笑みを深くさせた修司が、歩道脇に車を一時停止させて、ハザードランプを点灯させる。
「もしかして散歩?いつもこんな遠くまで来てるんだ」
どういう道のりで来たのかは分からないが、直線距離でも1キロはある。そこを道にならって来たのなら、歩いた距離はそれ以上だ。
シュウは長い舌を垂らして、はあはあと荒い息づかいを繰り返している。よく見れば舌先に細かい砂が付いている。いったいどれだけ歩けばこうなるだろう。
まだまだ歩けるよ!と訴える黒目の横で、微妙に息のあがった理子がバツの悪い顔をした。
「いつもってわけじゃないんで…だけど、歩いてたら楽しくなってきちゃって」
つい歩きすぎました、と苦笑いを浮かべた。
「歩きすぎたってどれくらい?」
「えっと、今何時ですか?」
「7時20分くらい」
「あたしが家出たのが6時前だったから、1時間ちょっとくらいかな?」
さらりと述べた理子に驚いたのもつかの間、すぐに修司の眉間に皺が入る。
いくら日が長くなっているとはいえ、犬を連れて歩いているとしても、その脚線美を晒して1時間半も外を一人で歩いていたのは関心しない。
世の中、善良な人間ばかりではない。
もし何かあったらどうするつもりなのだろうか。
後ろ姿は完璧なのに、本人にその自覚が全くないのだから始末に負えない。
特にその足は曲者だ。
(俺が彼氏なら、絶対にそんなパンツは穿かせない)
見ていいのは自分だけだ。
急に不機嫌なオーラになった修司に、理子は小首を傾げた。
「浅野君?」
「乗って」
「え?」
「送るから、乗って」
「い、いいですよっ!歩いて帰れますからっ」
理子は慌てた様子で胸の前で手を振って一緒に首も振った。
小動物みたいだと思いながらも、修司は頑として譲らない。
「駄目だ。今から帰ってもまだ20分はかかるだろ。家に着くころには真っ暗になってるぞ」
暮れ始めると、夜は駆け足でやってくる。あっという間に暗くなるのだ。
「危ないから。女の子がひとりでで歩いちゃダメだ」
わかったら乗って、と助手席を指差す。
理子はまだ逡巡していたが、修司の気迫に押されて頷いた。
「でもシュウが居るから、車の中毛だらけになっちゃいますよ?」
それでもまだしぶっている理子にいい加減しびれを切らした修司が、運転席を降りて強引に助手席まで背中を押した。ドアを開けてまず理子を押しこむ。着ていたスーツのジャケットを脱いで、理子の足にかける。その上にシュウを乗せた。
再び運転席に戻ってようやくほっとすると、「すみません…」と蚊が鳴くような声で謝られた。
「謝るくらいなら、素直に乗って」
「ごめんなさい」
ため息をついて助手席を見やると、理子は体を小さくしている。
(しまった…。ビビらせたか…?)
ぎゅっと膝の上に乗せたシュウを抱きしめて俯いた理子を見て、強く言いすぎたことに気付いた。
だが今頃気づいても遅い。
たかが「送っていく」の一言が、どうしてスマートに言えないのか。
「ごめん。怒ったわけじゃないから」
声のトーンを和らげて、できるだけ優しく声をかける。
まだ知り合ってばかりの相手からいきなり強い口調で言われるのはさすがに怖いだろう。
修司は気を抜くとすぐに『怖い』と言われる事があるので、理子もそう感じたのかも知れない。
ようやく一歩近づけたのに、こんな些細なことで二歩も三歩も下がりたくは無い。
今までとは、何もかもが違う。
相手を気遣うことは、こんなにも難しい。
相手の機嫌を伺うなど、これまでの修司ならありえないことだ。
そうしてでも会話を続けたいと思うのは、どうしてだろう。
理子が見せるほんの少しの翳りに、焦燥を感じるのはなぜだ。
怖がらないでほしい。
じっと様子をうかがっていると、やがて理子が顔を上げてぎこちなくはにかんだ。
「わかってます」
本当にわかっているのだろうか。
不安はくすぶったままだが、これ以上弁解するのもわざとらしく感じたので、それ以上は何も言わなかった。
理子も車内のぎこちない雰囲気に居心地が悪いか、何も話さない。
修司は諦めてハザードランプを消して、アクセルを踏んだ。
(失敗した)
外ばかり見ている理子を横目で気にしつつ、胸の中で盛大なため息を吐いた。
修司の車に乗ったことを後悔しているようで、怖い。
ただ理子が心配だっただけなのに、どうしてこんなことになるんだろう。
もっと話したいと思った。
それだけなのに、上手くいかない。
信号で止まると、それまで外しかみていなかった理子が、初めて修司を見た。
うかがうような顔には、まだ脅えた色が残る。
完全に怖がられたのだとわかって、数分前の自分を殴りたくなった。
「あの…」
それでも理子が開こうとした突破口を見逃すほど間抜けでもない。
「なに?」
顔を向けると、理子と目が合う。怒っていないことが分かるように、ことさら優しく見ると、理子の表情から強張りが抜けた。
「あの、尚ちゃん…じゃない。山下君の奥さん、今朝、無事に赤ちゃん産んだってメール来てました」
選んだ会話が山下関連なのはいただけないが。
理子と修司に共通する話題はまだ少ない。理子にすれば必死の話題だったのだろう。
しかし、
(なんで山下がちゃん付けで呼ばれるんだ)
付き合いの長さが違うのは分かっていても、おもしろくない。
自分はまだ敬語さえ取れていないのに、尚紀の分際で生意気だ。
だがそんな事はおくびにも出さず、修司は人畜無害な笑顔で相槌を打った。
「俺のところにもメールが来たよ。初めての女の子なんだろう?」
「そうなんです。美咲もものすごく喜んでました!」
会話の糸口を見つけられたのが、嬉しかったのだろう。ほっとした表情で理子が言った。
「理子ちゃんは顔を見に行くの?」
「はい!明日行こうかと思って」
何持って行こうかな、と嬉しげに呟いた横顔に、ほっと胸を撫でおろす。
どうやら苦手意識は持たれずに済んだようだ。
そうとわかれば、また進むだけ。
「なら一緒に行かないか?」
「はい?」
「俺もまだ何贈ろうか迷ってたところなんだ。生まれた子が女の子なら、やっぱり女の子が選んだ物の方が良いと思わない?」
よくもしゃあしゃあとこんなセリフが出てくるものだ。と自分で自分に舌を出す。
母が聞いたら、また『まぁそんな嘘を』を呆れられそうだ。
ちょうど信号が青に変わり、再び車が動き出す。
理子は前を向いた修司の横顔を茫然と見つめていた。
(さぁ、なんて言うかな)
驚いた表情の理子は、本当に小動物だ。
瞬きする仕草や、つぶらな目が余計そう思わせるのだろうか。
左半身に神経を集中して、じっと理子の返事を待つ。
「そ…うですね。そう言われるとそんな気がします」
思わずガッツポーズをしたくなった。
「じゃあ、決まりだ。病院は何時から面会時間なのか知ってる?」
「確か10時からだったと」
「なら午前中に買い物をして、午後から病院に行けばいいかな。俺、ベビー用品なんて初めて見に行くよ」
丸一日を一緒に過ごそう、という意図は伝わっただろうか。
やや強引な誘い方だったが、これに頷いてくれれば万々歳だ。
もっと理子の事が知りたい。
もっといろんな顔を見てみたい。
どんな食べ物が好きで、どんなことに興味があるのか。何を見て感動するのか。
口ずさむ音楽は知っているが、それ以外の事はまだ何も知らない。
知らない事が知りたくてたまらなかった。
「いいと思います。じゃ、あの…。待ち合わせは何時にしますか?」
「10時くらいでいいんじゃない?迎えに行くよって、お隣さんだけど」
「わかりました。じゃあ、待ってます」
暗くなりかけた車内では理子の表情までは読み取れなかったが、その声は間違いなく弾んでいた。
理子も修司と出かけることを楽しみに感じてくれたことに、無性に叫びだしたくなる。
どうして家路はこんなに短いんだろう。
もっと遠くの家ならば、もっといろんな話ができるのに。
見え始めた我が家を恨めしく睨みながら、車をカーポートに駐車する。
「ありがとうございました」
シュウを先に下ろしてから、理子が降り際に言った。
「多分、毛がいっぱい落ちてると思うんで、明日コロコロ持ってきますね」
「コロコロ?」
「ほら、絨毯なんかの上でコロコロ…て転がす」
「あぁ、あれね」
「そう。アレです。明日持ってきますから」
「了解。忘れずにお願いします」
「まかせてください」
修司も車を降りて、鍵をかける。
「あと、これはクリーニングしてからお返しします」
言われて、そういえばジャケットをかけたことを思い出した。素足の上に犬の爪は痛いだろうと思ったのと、理子に傷をつけるのが嫌だったのと、あとは自分の視線がそこに行かないようにするための目隠しのつもりでかけたものだ。
「そんなの気にしないで」
「でも、シュウの足汚れてるし、絶対白くなってますよ」
スーツなのに、と言う理子は、よほどこれが高級なものに見えるのか。
「別に大したもんでもないから」
事実、それは大量生産のメーカー品で、近頃流行りの洗えるスーツだ。
「ほら、貸して?」
車を回って、理子の前に立つ。ぎゅっとジャケットを抱きしめている姿に苦笑し、腕を出す。理子はしばらくためらっていたが、やがておずおずとそれを手渡した。
「すみません……」
どうせ謝るなら、その敬語をとってくれた方が良いのにと思う。
「それじゃあ、ありがとうございました。…おやすみなさい」
「おやすみ」
軽く会釈して、そのまま理子は隣へ入って行った。
残ったのは、理子の移り香とシュウの足跡がついたジャケットだけ。
「おやすみなさい、か……」
腕時計はまだ7時半にもなっていない。
10分も満たないドライブ。でも実りはあった。
わくわくする胸が、ほんのりと温かい。
明日はもっと温かくなるんだろうか。
こみ上げる笑みを奥歯で噛み殺して、修司も家に入っていった。