9) 口実
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家に帰った修司を待っていたのは、帰りを今か今かと待ちかねていた母だ。
「なに?」
言わんとすることの予想はついているが、一応尋ねる。
案の定、母は手招きをしながらテーブルに着くよう修司を促した。
「理子ちゃん、喜んでいたでしょ?」
「さぁね。喜んでたんじゃない?」
シュウの一件で『いただき物』の印象は薄れてしまったが、スイカが嫌いというわけではなさそうだった。
テーブルの上には、それの"保険"が乗っている。
スイカは食べ飽きたと言っていた母だが、これは別格だったようだ。
「なんて言って渡してきたのよ」
「トマトのお礼だって言ったさ」
「それで?」
「"親戚から送ってきたから"て言ったけど?」
しれっとした顔で言うと、母は目を丸くした。
「よくもまぁ、そんな嘘を。うちにそんな親戚はいないわよ」
そんな事は百も承知だ。
あのスイカは会社帰りに修司が買ってきたものだ。
フルーツ専門店で購入した一玉五千円のスイカ。
桐の箱に入ったそれを二玉買って帰宅した修司を、母は幽霊に遭遇したような顔で見た。
ひとつは理子に、もうひとつは保険として。
味見をしてこれならと思うものでなければ、理子には渡せない。いい加減な物は贈りたくなかった。
山下に堂々と宣言をしてから、気持ちは晴れ晴れとしていた。
午後の仕事に向かいつつ考えていたことは、どうやって理子と知り合いになるかの一点のみ。
真剣な表情でパソコンの画面を睨む修司に「なんかあったんっスか?」と、部下が心配するほど難しい顔をしていた。
仕事以外で、これほど真剣になったことがあっただろうか。
黙っていても向こうからやってきた歴代の彼女達とは、わけが違う。初めて自分から動くことの難しさを痛感する。
あの手この手で接点を持とうとした彼女達の努力に感嘆する。
(大変だったんだな)
そちら側に立ってみないと分からないこともある。
あれこれ考えを巡らしていたが、やはり会社では接点が少ないと踏んだ修司が、次に狙いをつけたのが『お隣さん』という立場。
家庭菜園の野菜をくれるのなら、こちらから何かを返しても不自然ではないだろう。
それには『トマトのお礼』という口実はうってつけだった。
修司が探していたのは、きっかけ。
贈る物は何でもいい。ただしあまり大げさでないものだ。
理子が気兼ねせず受け取ってくれそうなもの。
考えあぐねた結果、スイカにした。
これならスーパーに行けば普通に売っているし、相手に気を遣わせないだろう。
夏はスイカという安直なイメージも、選んだ理由だ。
もちろん、普通のスイカを贈るつもりはない。
それで購入したのが、あれだ。見た目は分からないが、食べればその違いは一目瞭然。
きっと理子も満足してくれるだろう。
修司が贈ったスイカをうまそうに頬張る姿を想像するだけで楽しくなる。
ただし、この口実も弊害があった。母だ。
トマトのお礼だと言っても、通用しないのも知っていた。
それまで近所付き合いには無縁の息子が、ある日突然高級スイカを買って帰り、いそいそと隣に持っていく様子は、普通に考えて怪しい。
だが、ようやく理子へと歩き出せた喜びの前に、そんな事はどうでもよかった。
好きなだけ妄想すれば良い。
意味有り気な視線をものともせず、修司は今夜の出来栄えに満足していた。
しかも、修司を悩ませていたもうひとりの『シュウちゃん』の正体もわかった。
(まさか犬だったとはな)
探すと言ったは良いが、実際は八方ふさがりだった。どこを探せばいいか見当もつかない。
どうしたものかと思案してきた時に聞こえてきたのが、うちの犬の鳴き声。
まさかの予感は見事命中し、シュウはいた。小さい体に尻尾を入れて、完全に脅えていた。それでも視線だけはしっかり相手を睨んでいたのだから、大したものだ。
どうやら入ったは良いが、入口はうちのが塞いでしまったせいで、出るに出られなくなったらしい。
名前を呼ぶと、シュウはすぐに駆け寄ってきた。よほど怖かったのだろう。
必死で膝に上ってくる姿に、つい笑ってしまった。
抱き上げた時、確認した性別はメス。
("じゃれつかないで"だよな)
あれは足元でじゃれついてきたシュウに向けていった言葉だろう。どうりで人影が理子ひとりしかないはずだ。
今夜は顔を覚えてもらうことが目的だったのに、予期せぬ出来事のおかげでもう一歩進むことができた。
『浅野君』
恥ずかしそうに修司を呼ぶ理子を思い出すと、思わず口端が緩む。
素直に嬉しかった。
贅沢を言えば、下の名前で呼んで欲しかったが、いきなりそれは難しいだろう。
知り合ったばかりで、そこまで踏み込んでいけるようなタイプには見えなかった。
(あんな顔してたんだな)
初めて見た理子は、イメージしていた姿とは全然違っていた。
修司が勝手に思い描いていた理子は、小さく可愛らしい女性だ。それこそ沙絵のような柔らかくふんわりしたイメージを抱いていた。
しかし実際の理子は、すらりと背筋がのびて、背中を覆うほど長い髪をしていた。
近づいた時に香っていた、フローラルな香り。化粧品の香りとは違う馴染み深い香りに、親近感を覚えた。
太くもないが細くもない、標準と呼ばれる体型。部屋着のワンピースからすらりと伸びる足の長さに驚いた。
小ぶりな顔立ちに、小さめの目が小動物みたいな理子。素顔の女を見たのは久々で、逆に新鮮だった。
初めて聞いた声は、鼻歌よりわずかに低いトーン。きっと電話口で聞けばとても同じ年とは思わないだろう。
柔らかい印象の話し方は好感を誘う。
何もかもがイメージとは違っていたが、落胆した気持ちはない。
むしろ、現実の理子と会えたことが嬉しかった。
「なによ、ニヤニヤして。いやらしいわ」
にやさがった顔に、あきれ果てた声が飛ぶ。
「母さん、隣が犬飼ってたの知ってた?」
「そりゃあ知ってるわよ。夕方になると散歩してるじゃない」
「そうなんだ。俺は一度も見たことなかったけどな」
「それはあなたの帰りが遅いからよ。時々吠える声も聞こえるわよ」
「へぇ、それも知らなかった」
「でもうちみたいにうるさく吠えないわね。あの犬種はそういうものなのかしら」
「しつけが良いんじゃないの?」
浅野家で飼われているのはコーギー。
狩猟犬ならば吠えるのも仕方がないだろうと思う一方で、好き放題させすぎたんじゃないかとも思っている。
「それがどうかしたの?」
「さっきスイカ持って行った時に、脱走した」
「えっ??それで?シュウちゃん、見つかったの?」
どうやら犬の名前まで知っているようだ。
だったら前もって教えてくれればいいのに、と少し母を恨む。
「いたよ。小太郎とにらみ合ってた」
「あら、そうなの」
ほっとする母を修司はじっと見つめる。
神妙な顔の修司に、母の顔が怪訝な表情になった。
「なによ、じっと見て。気持ち悪い」
「理子ちゃん。良い子だったよ」
修司が理子をちゃん付けで呼んだことがそれほど意外だったのか。それとも真顔で褒めたことに驚いたのか。どちらにしろ目が点になっていた。
「実はアパートの管理会社から修繕完了の連絡があったんだけど、もう少しここにいることにしたから」
「―――あなた、まさかと思うけど」
「家に帰ってきて良かったよ」
「ちょっと、修司?」
「そういうこと。そのスイカは好きにしてくれていいから。じゃあ、お休み」
「修司?」
まだ始まったばかり。
こんなにもわくわくするなんて、いつ以来だろう。
理子との出会いが、確実に修司の人生に色を添え始めている。
この気持ちの正体は、まだ誰にも言われたくない。