1) 鼻歌
再投稿しました。
「母さん。隣りの住人、変わった?」
久しぶりに実家に帰っていた浅野 修司は、ふろ上がりで濡れた髪を拭きながら台所に立つ母に尋ねた。
「あら、言わなかった?お隣の幸子さんが海外勤務になるから、その間だけ姪子さんがお隣に住むことになったって。4月くらいに挨拶に見えたのよ」
「ふぅん」
冷蔵庫から350mLの缶ビールを取り出し、一気に飲みくだす。冷えたビールの炭酸が喉を潤すと、ようやくほっと一息ついた。
大学時代から住んでいたアパートが浸水したのは今日の昼ごろの話。上の階の部屋の水漏れが修司の部屋まで洩れたという、ありがちな話だ。
だが、実際身の上に降りかかると笑ってもいられない。アパートの管理会社から謝罪の電話があったが、完全に修理が終わるまでは一週間ほどかかるらしい。
仕方なくびしょぬれになったアパートから必要と思われるものをスーツケースに詰め込んで、実家に戻ってきた。
アパートが水浸しになったのも痛いが、それより貴重な睡眠時間が1時間も削られることの方が痛い。
会社まで自転車で10分という、低血圧の修司にとって最高の物件だったのに。
「それにしてもアパートが水浸しになるなんて災難だったわね。保障とかは大丈夫なの?」
洗い物をすませた母がテーブルの向いに座りながら言った。
「まぁね、その辺は管理会社がちゃんとしてるから平気だよ。ただ、ここからだと通勤が不便なんだよな。やっぱり会社近くのマンスリーにすれば良かったかな」
「何言ってるのよ。どうせ車通勤にするんでしょ?たいして変わらないじゃない。それより、どうしてお隣さんが変わったって知ってるのよ」
愚痴る修司をたしなめて、母が尋ねた。
「あぁ、それね」
☆★☆
修司が風呂に入っていると、どこからか歌声が聞こえてきた。
やたら上手いそれは、鼻歌にしてははっきりと歌ってるし、同じ曲ばかり繰り返し歌っている。
気になって少し浴室の窓を開けて外を見渡すと、ちょうど真正面にあたる隣の窓に明かりがともっていて、人影が写っていた。
が、直後、修司はその鼻歌に眉を潜める。
―――『じょ』?
それは誰もが知っている名曲で、当然修司も知っている。三歩進んでも結局一歩しか進まないのだが、とにかく背中を押される名曲。一曲をそらで歌いきるほどではないが、ワンフレーズなら完璧に口ずさめるその歌詞を、窓際の人物はおかしな単語をつけて歌っている。
聞き間違いかと思い、耳を潜めてみるが……。
やっぱり『じょ』だ。
今度こそ絶対に『じょ』って歌ったよな。
少し鼻にかかったメゾソプラノの歌声に、修司は自分が風呂に入っている最中なのも忘れて、しばし唖然とした。
あの名曲をこれほどはっきりと間違って歌う人間がいるのか。
まじまじと見つめる視線の先で、女は相変わらずご機嫌ではじめから歌い直している。もちろん、歌詞は間違ったままだ。
歌声に交じって聞こえる水音とカチャカチャとぶつかる物音に、窓の向こうが台所だと推測する。
窓は磨りガラスになっているので、相手の顔まではわからない。
(いや、目が合ったらまずいか)
ようやく自分が風呂の途中であることを思い出し、修司は開けた窓を閉めた。
途端に歌声は小さくなる。
(変な女)
それが隣の住人に抱いた印象だった。
☆★☆
「なんかさ、ご機嫌で歌ってたのが聞こえたから、ちょっと気になった」
「そうだったの。彼女、とっても良い子よ。平日は勤めに出ているみたいだけど、土曜日は大抵庭奥にある畑の草むしりをしてるし、愛想も良いし。ゴミ出しもきちんとしてるわ」
「へぇ、そうなんだ」
めずらしく母が絶賛したので、修司は少しだけ隣の住人に興味が湧いた。
学生時代から時々連れてくる彼女を見ては、ああだこうだと難癖ばかり言っていたのに、年をとるとその辺りも丸くなったりするのだろうか。
「修司もしばらく居るんだし、顔を合わせたら挨拶くらいしなさいね」
「わかったよ」
(多分、ないと思うけど)
それこそ朝から晩まで仕事に明け暮れているのだ。平日に会うことはまずないし、休日は彼女との約束がある。
もちろんそんな事を言えば、母の小言を聞くのはわかっていたので、修司は素直に頷いてビールを飲み干した。
「もう寝るよ。明日は7時には出るから」
「はいはい。お休みなさい」
空になった缶ビールを空き缶入れに捨てて、修司の初日は終わった。