『風読みなど下女の技だ』と聖女様に婚約者を奪われましたが、王都の風は三日後に止まりますので、どうぞそのまま挙式をお続けくださいませ ~元気象予報士の転生令嬢、三千六百五十日分の帳面で静かに断罪いたしま
「セレスティア。粉まみれの女が王家に入るなど笑い種だ。風読みなど下女の技だろう。婚約は破棄する」
大聖堂の前庭、白い石畳の上でした。
第二王子アルヴィン殿下は、聖女ミレーヌ様の肩を抱いたまま、そう仰いました。
周囲には貴族の方々が三十人ほど。扇の陰でささやきが広がります。わたくしは抱えていた小麦粉の袋を抱え直し、前掛けの埃を払って、一礼いたしました。
「承知いたしました」
「……なんだと?」
殿下が眉を寄せます。おそらく、泣き縋られる予定だったのでしょう。台本と違う役者ほど困るものはありませんものね。
(前世でも同じでした。台風の進路を一時間早く報告したら、上司が「話が違う」と怒鳴った。風は、上司の予定に合わせて曲がってはくれないのですけれど)
わたくしは懐から二通の書状を取り出しました。
一通目、婚約解消同意書。署名済み。
二通目、〈王都風読み官〉辞任届。こちらも署名済み。日付は本日。
「では、風読み官の職も本日限りで返上いたします。引継ぎ書は神殿の書記局へ提出済みですわ」
「……準備、していたのか」
「いいえ。十年分の記録を取る人間は、常に最悪の予報も併記しておくものですので」
聖女ミレーヌ様が、銀糸の髪を揺らして微笑まれました。真珠色の瞳は本当にお綺麗で、悪意の欠片もないのが、いっそ恐ろしいほどでした。
「風は神がわたくしに囁いてくださいますもの。小屋にこもって雲を数えるなんて、時代遅れですわ」
「まあ。神様は、あなた様にどの高度の風の話をなさったのでしょう」
「……え?」
「地上と、上空五百歩では、風は別の生き物ですのよ。竜が飛ぶのは、上の風です」
ミレーヌ様の睫毛が、一度だけ震えました。
わたくしはそれ以上申しませんでした。悪意ではなく無知の目をしている方に、石を投げても仕方がありません。
代わりに、殿下へ向き直ります。
「――なお、三日後の『建国祭・空竜奉納飛行』ですが」
「まだ何かあるのか」
「風は、やみます」
前庭が、静かになりました。噴水の水音だけが響きます。
「明後日の未明から王都一帯の気圧の谷が抜け、上空の流れが死にます。地上も上空も、凪。三日間は続くとみております。空竜は揚力を得られません。奉納飛行は中止を進言いたします」
「馬鹿を言え。聖女様が『大空晴れ、風良し』と告げられたのだ」
「存じております。ですからこそ、進言しております」
「下女の勘など要らぬ」
勘。
十年です。毎朝四時。頬の湿り、羊毛の揺れ、雲の底の高さ、井戸水の匂い。三千六百五十日、一日も欠かさず記した帳面が、壁一面に積んであります。
それを、勘。
(――残業代も、出ない職場でしたし)
わたくしは微笑みました。怒鳴りません。怒鳴ったら、記録が汚れますので。
「では、記録を取らせていただきます」
「何を、だ」
「本日、この場で、わたくしが凪を予報し、殿下がそれを却下なさったこと。日時、場所、立会人の数。すべて」
わたくしは帳面を開き、羽根ペンを走らせました。
第三千六百四十七日。晴。南南西の微風、じきに死ぬ。
大聖堂前庭にて婚約破棄。王子殿下、凪予報を却下。
「……何を書いている」
「事実ですわ」
ペンを閉じ、わたくしはもう一度だけ頭を下げました。
「三日後の挙式のご予定も伺っております。どうぞ、そのままお続けくださいませ。――風は、嘘をつきませんので」
そして、粉袋を抱え直して踵を返しました。
背中で、扇のささやきが渦を巻いています。
南南西の風が、わたくしの襟足をかすめて、ふつりと途切れました。
――ああ。
思ったより、早いかもしれませんわね。
◆◆◆
辺境ミラウィンド領まで、馬車で六日かかりました。
王都の馬車は使わせていただけませんでしたので、隊商の荷台の隅に乗せていただいたのです。麦袋の上で揺られながら、わたくしはずっと空を見ておりました。
巻雲。高いところの筋雲が、南へ流れていきます。
(やはり、上の流れが弱っている)
手帳に書きつけます。指先が粉で白いのは、もう十年、当たり前のことでした。
前世のわたくしは、灰色のオフィスで同じことをしておりました。民間気象会社の予報士。年間三百十二日出勤。深夜の豪雨特別警報の夜、三十八時間ぶりに社を出て、駅の階段で膝から崩れて、そのまま。
最後に思ったのは「明日の朝の便、誰が出すんだろう」でした。
我ながら、救いのない人生でしたわ。
――けれど。
目を覚ましたら、風車小屋の天井が見えたのです。
粉挽きの伯爵家。地味な家。地味なスキル。ステータス画面には《風読み Lv.1》とだけ。冒険者ギルドの鑑定では「生活スキル」に分類され、戦闘職の方々からは鼻で笑われる技能。
でもわたくしには、前世の十年がありました。
気圧。前線。雲形。湿度。
この世界の誰も知らない言葉を、わたくしはスキルに接ぎ木しました。
《風読み》は、祈りの技ではありません。観測の技です。
九年で、Lv.9になりました。
丘を登りきると、風車小屋が見えました。
白い羽根が四枚、夕日の中でゆっくり回っています。ヒュウ、ヒュウ、と規則正しい音。順風です。
「……ただいま帰りました」
誰もいない小屋に、そう言いました。
扉を開けると、粉の匂い。木と石臼と、乾いた麦の匂い。壁一面の棚には、革表紙の帳面が並んでいます。角が丸く擦り切れた、十年分。
途端に、膝が笑いました。
わたくしは前掛けを解いて、椅子に座り込みました。声は出しません。出したら、たぶん止まらなくなりますので。
その時、扉が叩かれました。
「嬢ちゃん、開けるよ!」
返事を待たずに入ってきたのは、ハンナさんでした。村で三十年パンを焼いている女性です。丸太のような腕に、湯気の立つ布包みを抱えて。
「……ハンナさん。わたくし、まだ帰ってきたと誰にも」
「風車の音が変わりゃ分かるさ。羽根の重さが違うんだよ、あんたが調整すると」
どん、と卓にパンが三つ置かれました。焼きたて。表面が割れて、湯気が上がっています。
「事情は訊かないよ」
「……ありがとうございます」
「熱いから、落とすんじゃないよ」
ハンナさんはそれだけ言って、ずんずんと出ていきました。
扉の前で、一度だけ立ち止まって、背中越しに。
「嬢ちゃん。粉が足りなくなったら言いな」
「……はい?」
「あたしは二十年、あんたの挽いた粉でしか、パンを焼いてないんだよ」
扉が閉まりました。
風車が、ヒュウ、と鳴りました。
わたくしはパンを割りました。熱くて、指先が少し焼けました。
白い湯気が立ちのぼって、目の前が滲みました。
――粉まみれの女が王家に入るなど笑い種だ。
笑い種で、結構ですわ。
わたくしの粉で、この村は二十年、パンを食べてきたのです。
それ以上に、何が要るというのでしょう。
口の中いっぱいに、麦の味が広がりました。
(――明日も、四時ですわね)
わたくしは帳面を開いて、三千六百五十三日目の欄に、今日の空を書きつけました。
◆◆◆
「嬢ちゃん。おまえは何ができる?」
翌週、風車小屋の戸口を塞いでいたのは、二メートル近い巨躯の男でした。
岩を削ったような顔。左肩が不自然に落ちています。背には飛行外套の留め具が、片方だけ。
冒険者ギルド辺境支部長、ガルド・レイン。元・王国空竜騎士団長。
十年前の空戦で飛竜と左肩の可動を失い、空から降りた男――村の子どもたちには「喋らない熊」と呼ばれています。
「王都から令嬢が戻ったと聞いてな。噂じゃ、風を読むそうだが」
わたくしは石臼の手を止め、前掛けで指を拭きました。
「読めます」
「証明しろとは言わん。言ってみろ。何が読める」
即答を求められたのは、久しぶりでした。王都では、まず「聖女様のお告げと矛盾しませんか」と訊かれましたので。
わたくしは窓の外を一瞥しました。北の空、雲の底が低い。羊毛を吊るした糸が、わずかに西へ傾いています。
「明日の正午。北北東から突風が三度。間隔はおよそ半刻。最大で、荷馬車の幌が持っていかれる程度です」
「……根拠は」
「昨夜から気温が落ちすぎています。北の山越えの流れが落ちてくる型です。この型のときは、過去十年で四十一回中、三十八回突風が出ました」
「四十一回、数えたのか」
「数えました」
ガルド様は、しばらく黙っておられました。
それから、低く。
「第七街道の隊商が、明日の朝に出る」
「止めてください。半日でよろしいです」
「外れたら、隊商の損失は金貨二十枚だ。誰が被る」
「わたくしが被ります。この小屋と、帳面以外に持ち物がございませんので、小屋を差し押さえてくださいませ」
巨躯が、わずかに揺れました。
「……ならやってみろ」
それだけ言って、彼は出ていきました。
翌日、正午。
第七街道の谷筋を、北北東からの突風が三度、通り抜けました。
二度目の突風で、道端の枯木が一本倒れ、街道を塞ぎました。荷馬車が通っていれば、先頭の二台は谷へ落ちていたでしょう。
隊商は、無傷でした。
翌朝、ギルドの掲示板に一枚の紙が貼られました。
〈風読み依頼、受付開始。指名:セレスティア・ミラウィンド〉
貼ったご本人は、何も仰いません。
ただ、わたくしが徹夜で観測した朝、小屋の前にスープの鍋が置かれておりました。まだ温かいまま、布をかぶせて。
「……あの方、意外と、」
わたくしが呟くと、後ろから小さな声がしました。
「支部長、泣き虫だよ」
振り向くと、痩せた栗毛の少年が立っていました。膝に擦り傷。裸足。
納屋に住み着いている孤児の子です。名をノアといいました。
「この前、村の子がパン分けてるの見て、鼻すすってた。『埃が入った』って言ってたけど、埃、なかった」
「……まあ」
わたくしは笑ってしまいました。久しぶりに、声を出して。
ノアは、居心地悪そうに足の指を動かしています。
「あのさ、姉ちゃん。……先生」
「どちらでも構いませんわ」
「今日さ、羽根の音、変」
わたくしの手が、止まりました。
「――変、とは」
「いつもは『ヒュウ』なんだ。逆風だと『ビィン』。でも今日は……なんか、間があく。ヒュウ、って鳴って、そのあと、しばらく何もない」
「……」
「変なこと言った? ごめん」
「いいえ」
わたくしは膝を折って、彼と目の高さを合わせました。
「ノア。それは、凪の前触れですわ」
「なぎ?」
「風が、死ぬことです。――あなたは既に、読んでいます」
ノアの目が、ゆっくり丸くなりました。
「おれ、鑑定で『無』って出たんだよ。スキルなし。才能ない子だって、みんな言う」
「では、その鑑定書を持ってらっしゃい」
「……燃やしていい?」
「燃やさなくて結構です。壁に貼っておきましょう」
「なんで?」
「一年後に、笑うためですわ」
わたくしは帳面を一冊、彼の手に押しつけました。表紙の角が擦り切れた、使い古しの一冊です。
「明日から、あなたは弟子です。三つ、課題を出します」
「三つ!?」
「第一、羽根の音を聴きなさい。第二、雲の底を数えなさい。――そして第三」
わたくしは、羽根ペンを差し出しました。折れて短くなった、わたくしのお下がりです。
「毎日書きなさい。神は囁きません。風は、記録にだけ答えます」
ノアは羽根ペンを両手で受け取って、それから小さな声で言いました。
「……おれ、字、書けない」
「では、字から始めましょう」
「明日の四時ですか」
「ええ。寝坊は許しませんわ」
◆◆◆
毎朝四時。
丘の上は、まだ紺色です。
わたくしは羊毛の房を指に挟んで持ち上げ、頬の湿りを測ります。ノアは隣で、必死に空を睨んでいます。
「先生、今日の雲、昨日より低いです! ……たぶん!」
「たぶんは、記録になりませんわ」
「うっ」
「では訊き方を変えましょう。何を見て、低いと思ったのです」
ノアはしばらく唸ってから、向かいの丘を指さしました。
「あそこの、いちばん高い木。昨日は雲が木のずっと上にあった。今日は、木のすぐ上。……えっと、六百歩ぶんくらい、低いです」
「よろしい」
わたくしは帳面を開きました。
「六百歩。それが数字です。『たぶん』は明日には忘れますが、六百歩は一年後も残ります」
「残ると、どうなるの」
「同じ六百歩の朝が、来年もきます。そのとき、去年の帳面を開けば、何が起きたか分かるのです」
ノアは、口を半分開けたまま、帳面を見つめました。
「……それ、未来が分かるってこと?」
「いいえ。過去が分かるということです。未来は、過去の量でしか測れませんの」
彼は歪んだ字で「六百ほ」と書きました。字は震えていて、粉の指紋が三つついていました。
それでよいのです。
最初の三十ページは、誰でも汚いのですから。
日中は、粉を挽きます。
石臼は重く、腕が悲鳴を上げます。ですが、この音が好きでした。ゴロ、ゴロ、と低く回る音。粉が落ちていく、さらさらという音。
昼、ハンナさんのところへ粉を運ぶと、焼きたてのパンをいただけます。
「嬢ちゃん、この粉、前より細かいね」
「臼の隙間を、爪の半分だけ詰めました」
「道理で生地がよく伸びる。……で、いつ寝てるんだい」
「よく寝ておりますわ」
「嘘つきな。目の下が竜の翼みたいになってるよ」
ハンナさんは手の甲で粉を払って、わたくしの頭に無理やりパンを押しつけました。
「前世」の言葉は誰にも言っておりません。
ですが、この村の人たちは、誰も「聖女様のお告げと矛盾しませんか」とは訊きません。
「セレスティア嬢ちゃんが、今日は生地を早く寝かせろって言った日は、必ずそうなる」
それだけで、二十年、回ってきたのです。
理屈は要らない。ただ、当たる。
――王都には、その二十年が一日もありませんでした。
依頼は、増えていきました。
隊商の出発日。港の小舟の出漁。屋根の葺き替え。魔物の大移動の風向き――魔物は風上から獲物の匂いを取りますので、風が変われば移動経路も変わるのです。
ガルド様は、依頼書をまとめて持ってきて、それから黙って椅子に座られます。
巨体を折り曲げて、子ども用の小さな椅子に。
「……あの、そちらの大きな椅子をお使いになっては」
「これでいい」
「膝が顎についておりますが」
「……」
ガルド様は、ノアが淹れた薄いお茶を、小皿ほどのカップで飲まれます。指二本でつまむように。
「飯は食ったか」
「いただきました」
「帳面は増えたか」
「三千六百七十二冊目……いえ、三千六百七十二日目に入りました」
「……そうか」
それだけ。
それだけの会話が、なぜか、王都の夜会の三時間より長く感じられるのです。
建国祭の、四日前でした。
わたくしは丘に立ち、頬を上げて、動きませんでした。
ノアが横から覗き込みます。
「先生?」
「……羽根の音を」
「え」
「聴きなさい」
ノアが耳を澄まします。
風車が、一度、ヒュウと鳴りました。
それきり――何も、鳴りませんでした。
「先生。音が……ない」
「ええ」
わたくしは羊毛を掲げました。垂れたまま、動きません。
雲の底が、異様に高い。空が薄い膜を張ったように白い。地面の熱が逃げない。
十年で、三回だけ見た型でした。三回とも、三日間、風が死にました。
「……ガルド様を」
「え」
「ガルド様をお呼びして。急ぎで」
半刻後、巨躯が丘を駆け上がってきました。
「何が起きる」
「凪です。明後日の未明から、三日間。王都上空も同じ型です」
ガルド様の顔から、表情が消えました。元・空竜騎士団長の顔でした。
「建国祭の奉納飛行は、明後日の正午だ」
「存じております」
「竜が凪で落ちるとどうなるか、知っているか」
「揚力を失って、旋回もできずに落ちます。観客席は、大聖堂前庭の南側でしたわね」
「……落下予測地点だ」
二人とも、しばらく黙りました。
わたくしは帳面を閉じて、言いました。
「ギルドから、王都宛に正式な予報書を発信していただけますか」
「お前は、王都に恨みがあるはずだろう」
「ございます」
「なら――」
「ですが」
わたくしは彼を見上げました。
「予報が外れれば、人が死にます。出せる予報を出さないのは、外すのと同じです」
前世の、最後の夜に思ったことでした。
明日の朝の便、誰が出すんだろう。
ガルド様は、しばらくわたくしを見下ろして、それから深く息を吐きました。
「……お前は、空にいた奴らに似てるな」
「そうでしょうか」
「落ちるのが分かってても、無線だけは繋いだまま落ちる奴らだ」
彼は踵を返しました。
「ギルド正式文書で出す。受理印を取れ、と念を押しておく。――受け取った人間の名前が残るようにな」
その意味に、わたくしはその時、気づきませんでした。
後から思えば、あの方は、最初から全部分かっておられたのでしょう。
二日後の未明。
風車は、一度も鳴りませんでした。
ノアが、帳面を抱えて震えていました。
「先生。おれ、これ書いたよ。……『無音』って」
「よく書けました」
その朝、彼のステータス欄に、小さな光が灯りました。
《風読み Lv.1》
「……え」
ノアが自分の手を見ます。震えています。
「おれ、『無』って……」
「ええ。『無』でしたわ」
わたくしは膝を折りました。
「ですが、四十七日、一日も欠かさず書きましたわね」
「……うん」
「スキルは、才能ではありません。積み重ねで、生えるのです」
壁には、丸めて貼っておいた鑑定書がありました。
〈スキル:無〉
わたくしは羽根ペンを取り、その下に一行書き足しました。
〈四十七日目、更新。Lv.1〉
「先生、おれ、笑っていい?」
「どうぞ、笑ってくださいませ」
ノアは泣きながら笑いました。
その頃、王都では、六十頭の空竜が翼を広げていました。
風は、一度も吹きませんでした。
◆◆◆
建国祭、正午。
大聖堂前庭。数千の観衆。金糸の垂れ幕。祝福の鐘。
聖女ミレーヌ・アスタリアが、白衣の袖を広げて高らかに告げました。
「――大空晴れ、風良し。神は、この日を祝福されます」
歓声。
六十頭の空竜が、一斉に翼を打ちました。
上がりました。三十歩、五十歩、百歩。
――そこで、止まりました。
風が、ありませんでした。
竜の翼は帆と同じです。自ら風を生むのではなく、流れる風を掴んで揚がる。掴む風がなければ、あとはただの重い肉の塊でした。
先頭の一頭が、傾きました。
悲鳴が上がったのは、それが観客席の真上だったからです。
南側、貴賓席。第二王子アルヴィンの座る席の、ちょうど上。
「落ち――」
誰かが叫びました。
次の瞬間、垂れ幕の支柱を蹴って跳んだ影がありました。
巨躯。左肩の落ちた男。
辺境から二日、馬を三頭潰して駆けつけたガルド・レインが、片腕で竜の首帯を掴み、全体重で引き倒したのです。
竜は観客席を二歩ぶんだけ逸れて、噴水に突っ込みました。
水柱。悲鳴。そして、静寂。
ガルドは水浸しのまま立ち上がり、貴賓席を見上げました。
第二王子は、腰を抜かして座ったままでした。
「……お前、は」
「辺境支部長、ガルド・レインだ」
ガルドは、水を滴らせながら、低く言いました。
「三日前、王都宛にギルド正式文書を出した。〈凪予報〉だ。受理印を押したのは、あんただったな」
王子の喉が鳴りました。
「……知らぬ」
「署名が残ってる」
それ以上、ガルドは何も言いませんでした。
無言のまま、竜を噴水から引き上げに戻っただけです。
凪は、三日続きました。
一日目。
王都の風車が、全て止まりました。
王都近郊の製粉風車は百四十基。すべてが、羽根を垂らしたまま動きません。製粉が止まりました。
王都の小麦粉の一日消費は、四千二百袋。
備蓄は、二日分でした。
二日目。
パン屋の前に列ができました。昼には、粉が尽きました。
三日目。
王都から、パンが消えました。
宮廷の朝食に、パンが出ませんでした。王妃が「どういうことです」と訊き、給仕が青ざめて答えました。「……ございません」と。
代わりに、粥が出ました。
その粥も、翌日には薄まりました。
そして四日目。凪が明けました。
――逆風で。
南から吹いていた風が、北へ反転したのです。
海路で王都に穀物を運ぶ船団、六十隻。
帆船は逆風では港に入れません。沖で錨を下ろし、ただ待つほかありませんでした。
王都の備蓄は、ゼロでした。
貴族街の門前で、平民の列が石を投げ始めた日。
王宮の大広間に、聖女ミレーヌが呼び出されました。
「ミレーヌ殿。神託はどうなっている」
国王の声は、静かでした。静かな分だけ、恐ろしかったでしょう。
「風は、いつ戻る」
「……」
「答えよ」
白衣の少女は、震える手で革装の書物を抱えていました。
「……あの」
「なんだ」
「……だって」
彼女は、ぽろりと言いました。
「だって……去年の暦に、そう書いてあったんですもの……」
大広間が、凍りました。
「……今、なんと申した」
「神託書です。十四で聖女に選ばれた日に、前の聖女様から頂いて……この日にはこう、この日にはこう、と書いてあって……読み上げれば、当たったんです。ずっと、当たったんです」
「それは、神の声ではないのか」
「そう、教わりました」
少女は、真珠色の瞳から涙をこぼしました。
「誰も、開けて確かめたことがなかったんです。……わたくしも」
第二王子アルヴィンが、壁際で立ち尽くしていました。
唇が、何かを言おうとして、言えませんでした。
同じ頃。
辺境ミラウィンド領の村では、パンが焼けていました。
いつも通りに。
三日前に「備蓄を回せ」という指示が出ていたからです。
ハンナさんが、釜から次々にパンを出しています。子どもたちが並んで、熱いのを両手で受け取ります。
「熱いから、落とすんじゃないよ!」
丘の上で、わたくしは帳面を開いていました。
三千六百五十九日目。凪、三日。明けは逆風。
羊毛が、北へ傾いています。
「先生、王都、大変らしいよ」
ノアが息を切らせて駆け上がってきました。
「パンがないんだって。王様も食べてないって」
「そうですか」
「……怒らないの?」
わたくしはペンを止めました。
少し考えて、正直に申しました。
「怒っておりますわ。とても」
「えっ」
「ですが、怒りは記録になりませんの」
わたくしは帳面を閉じました。表紙の角が、また少し丸くなっていました。
「記録は、なります」
◆◆◆
王家からの召喚状が届いたのは、逆風の二日目でした。
〈セレスティア・ミラウィンド伯爵令嬢を、王宮へ召喚する〉
わたくしは封を開け、読み、そして石臼の横に置きました。
「……行かないのか」
ガルド様が戸口で腕を組んでいます。
「参りませんわ」
「理由を訊いていいか」
「明日の正午に、北西から突風が来ます。港の小舟が十二隻出る予定ですので、止めなければなりません」
「それだけか」
「それが仕事ですので」
わたくしは臼を回しました。ゴロ、ゴロ、と低い音。
「それに――わたくしが王宮へ行って何を申しましても、『粉まみれの女の言い分』にしかなりません。感情で語れば、感情の話にされます」
「じゃあどうする」
「書類を、送ります」
わたくしは棚を指さしました。
壁一面の、革表紙の帳面。三千六百五十日分。
「ギルド正式文書として、〈辺境風読み台帳〉の写しを提出してくださいませ。わたくしの私文書ではなく、ギルドの公文書として。――そうすれば、それは『言い分』ではなく『記録』になります」
ガルド様は、しばらく棚を見上げていました。
それから、鼻をすすりました。
「……埃が入った」
「はい」
「入ったんだ」
「はい」
王宮、大広間。
国王、王妃、王太子、宰相、神殿長、諸侯。
中央に、第二王子アルヴィンと、白衣を脱いだミレーヌ・アスタリア。
そして、書見台の前に立つ、銀縁の片眼鏡の男。
王宮書記官第三席、エルドレッド・ファーン。三十四歳。王宮内で「歩く規定集」と呼ばれ、嫌われている男です。
彼は十年間、たった一人だけ、違和感を抱えていました。
聖女の神託の日付と数値が、あまりにも綺麗に揃いすぎている、と。
三度、上奏しました。三度、握り潰されました。「聖女様を疑うのか」と。
彼は諦め、代わりに黙々と記録を取り続けました。
今朝、辺境ギルドからの正式文書を受け取ったとき、彼は震える手で封を切り、そして――十年ぶりに、笑いました。
「恐れながら。規定によりますと、事実の照合は書記官職の責務にございます」
抑揚のない声が、大広間に響きます。
「三点、読み上げます」
紙が、めくられました。
「証拠一。聖女ミレーヌ・アスタリア殿が過去四年間に発された神託、三十七件。これと、神殿書庫に所蔵される〈風暦第六版〉――六十年前に編纂された、過去二十年の風向平均値を記した実務台帳。両者を照合いたしました」
間。
「――三十七件すべて、一字一句、同一でございます」
大広間が、ざわめきました。
ミレーヌが、俯いたまま肩を震わせました。
「なお、〈風暦第六版〉の序文にはこうございます。『これは記録であり、予言にあらず。用いる者は必ず当年の観測と照合せよ』」
片眼鏡が、光りました。
「照合の記録は、六十年間、一件も存在いたしません」
「……エルドレッド」
国王が、低く呼びました。
「続けよ」
「証拠二」
次の紙。
「辺境冒険者ギルドより提出された〈辺境風読み台帳〉。記録者、セレスティア・ミラウィンド。期間、十年。記載日数、三千六百五十日」
彼は数字を読み上げました。
「予報件数、三千六百五十件。的中件数、三千四百三十一件。的中率――九割四分」
諸侯の一人が、思わず声を上げました。
「九割四分だと? 神託より高いではないか!」
「はい。ちなみに聖女殿の神託の的中率は、同期間で六割二分でございます。平年値の写しでございますので、平年並みの年にのみ当たります」
ミレーヌの膝が、崩れました。
「……六割……」
「証拠三」
三枚目の紙が、めくられました。
エルドレッドは、そこで初めて、顔を上げました。
「四日前。建国祭の三日前でございます。辺境冒険者ギルドより、王都宛に〈凪予報〉がギルド正式文書として発信されております。内容は――『建国祭当日より三日間、王都上空および地上ともに風速ゼロ。空竜奉納飛行の中止を進言する』」
「そんな文書は届いておらん!」
宰相が叫びました。
「届いております」
エルドレッドは、淡々と紙を掲げました。
「受理印がございます。王宮受付第二門、日付は建国祭三日前、朝の刻。――受領者、第二王子アルヴィン・ヴァルドネア殿下。ご本人の署名入りでございます」
全員の視線が、一人の青年に集まりました。
アルヴィンは、白い顔で、口を開きました。
「……あれは」
「はい」
「……あれは、下女の……」
言葉が、そこで止まりました。
止まったまま、続きが出てきませんでした。
誰も、助け舟を出しませんでした。
エルドレッドは、片眼鏡を押し上げました。
「――以上、すべて既存の文書でございます」
彼は、書見台に手を置いて、最後に言いました。
「新たに調べたものは、一件もございません」
大広間が、静まりました。
誰も、一度も、検算しなかったのです。
十年間、一度も。
書庫にあった。受付に届いていた。帳面は壁一面にあった。
ただ、誰も、開かなかった。
国王が、額に手を当てました。
「……アルヴィン」
「父上」
「なぜ読まなかった」
王子は、震える唇で答えました。
「……兄上に比べて、私は何も成せぬと、父上に言われ続けました。だから……聖女を得れば、神が私に味方すると……粉まみれの女より、神の方が、華やかで……」
「華やか」
国王は、繰り返しました。
「――華やかさでは、パンは焼けぬ」
処分が下されました。
アルヴィン・ヴァルドネアは王籍を離れ、辺境ミラウィンド領の穀倉監査官に降格。
毎日、穀物の袋を数え、帳面に記す仕事です。
ミレーヌ・アスタリアは、聖女位を返上。神殿を退きました。
誰も、セレスティア・ミラウィンドを罵らなくなりました。
――罵る材料が、一つもなくなったからです。
その報告を、わたくしは丘の上で受け取りました。
ガルド様が、王都から戻って、書状を差し出しました。
わたくしは読み、畳み、帳面に挟みました。
「……何も言わないのか」
「申し上げることがございませんので」
「一言くらい、あるだろう」
わたくしは羊毛を掲げました。北西、風速は三。明日は、穏やかです。
「――では、一言だけ」
わたくしは、遠い王都の方角を見ました。
「下女の技で、王都は十年、パンを食べておりました」
それだけ言って、帳面を開きました。
三千六百六十二日目の欄に、今日の空を書きつけます。
風は、いつも通り吹いていました。
嘘を、つかずに。
後日、王都の記者が村を訪ねてきたそうです。
ハンナさんは、粉だらけの手を前掛けで拭いて、こう答えたと聞きました。
「ざまぁみろ、とは言わないよ。あたしらはただ、いつも通り食ってただけさ。それが一番腹の立つことだろうけどね」
◆◆◆
粉塵の舞う戸口に、その人は立っていました。
白衣ではありませんでした。灰色の旅装。銀糸の髪を、不器用に一つに結んで。
靴は泥だらけで、辺境まで歩いてきたのだと分かりました。
「……ミレーヌ様」
「もう、様ではありません」
彼女は深く、深く頭を下げました。額が膝につくほどに。
「セレスティア様。わたくしは、あなたの婚約者を奪い、あなたを嘲り、そして――中身を一度も確かめずに、十年間、神の声を騙っておりました」
石臼の音だけが、ゴロ、ゴロ、と響いています。
「王都から、三日かけて歩いて参りました。馬車代がございませんでしたので」
「聖女位の返上で、財産も」
「はい。すべて神殿に返しました。……持っているのは、これだけです」
彼女が差し出したのは、革装の書物でした。
〈風暦第六版〉。
六十年前の、平年値の台帳。
「燃やそうと思いました。でも、できませんでした」
「なぜです」
「……これを書いた人は、たぶん、嘘をつくつもりがなかったからです」
彼女は顔を上げました。真珠色の瞳が、赤く腫れていました。
「序文に書いてありました。『これは記録であり、予言にあらず。用いる者は必ず当年の観測と照合せよ』と。……わたくしは、序文を読んでいませんでした。十年、一度も」
わたくしは臼の手を止めました。
「――それは、この本の罪ではありませんわね」
「はい」
「そして、この本を書いた方は、六十年前、きっと毎日空を見上げて数字を取ったのでしょう」
「……はい」
ミレーヌは、書物を胸に抱きました。
そして、震える声で言いました。
「……教えて、いただけませんか」
「何を、です」
「風の、読み方を」
沈黙。
粉が、光の筋の中を舞っています。
ノアが柱の陰から顔を出して、こちらを見ていました。
「わたくしには、才能がありません。スキルは《神託》です。もう何も囁いてくれません。……当然ですけれど、最初から誰も囁いていなかったのですから」
「ミレーヌ」
「はい」
「才能とは、なんですの」
彼女が、顔を上げました。
「そこの少年は、鑑定で『無』と出ました」
わたくしは、柱の陰を指さしました。ノアが慌てて引っ込み、また顔を出します。
「四十七日書きました。今はLv.2です」
「……え」
「スキルは、才能ではありません。積み重ねで、生えるのです」
わたくしは棚から、新しい帳面を一冊取りました。まだ角の擦り切れていない、白い一冊。
そこに、羽根ペンを添えて、差し出しました。
「……いいのですか」
「一つだけ、条件がございます」
「なんでも」
「書いたものは、必ず、翌年に検算なさい」
ミレーヌの目から、涙がこぼれました。
彼女は両手で帳面を受け取り、胸に押し当てて、何度も頷きました。
「では」
わたくしは前掛けを結び直しました。
「明日の四時に。寝坊は許しませんわ」
「よ、四時、ですか」
「風は、こちらの都合を待ちません」
「……承知いたしました」
三日後。
穀倉の前で、痩せた青年が袋を数えていました。
粗末な作業着。日に焼けた首。手には帳面。
「……四百十二、四百十三」
通りかかったわたくしに気づいて、彼は動きを止めました。
かつての第二王子、アルヴィン・ヴァルドネア。今は辺境の穀倉監査官。
長い沈黙のあと、彼は言いました。
「……セレスティア。すまなかった、とは言わない」
「はい」
「言葉では、何も戻らないからだ」
彼は帳面を握りしめました。
「私は、数える。毎日、この袋を数えて、記す。……十年だ。十年数えたら、もう一度、お前に会いに行っていいか」
わたくしは、少し考えました。
それから、頷きました。
「――検算をお忘れなく」
「……ああ」
彼は、袋に向き直りました。
「四百十四、四百十五――」
その声は、もう誰の視線も確かめていませんでした。
◆◆◆
一年後。
ヴァルドネア王国に、〈風読み官学舎〉が設立されました。
校舎は、あの古い風車小屋です。
王都に新しい校舎を建てる案もございましたが、わたくしが断りました。理由は単純で、丘の上でないと風が読めないからです。
生徒は、十四人。
最年少は、ノア。十二歳。《風読み Lv.4》。壁には「スキル:無」と書かれた鑑定書が、いまだに貼ってあります。その下には、更新履歴が十四行。
最年長は、ミレーヌ・アスタリア。十九歳。銀髪を無造作に結い、袖を捲り、羊毛を風にかざしながら。
「……今日は、南南西ですわね。風速は二から三。雲の底は、向かいの丘の木より、およそ四百歩上」
「たぶん、じゃなくて言えてる」
「ノア。先輩に向かってその口の利き方は」
「先生が『記録に先輩後輩はない』って」
「……それは、そうですけれど」
王宮では、書記官エルドレッド・ファーンの発案で〈王国気象記録局〉が設立されました。
辺境の学舎と正式な連携協定が結ばれ、毎月、観測記録が往復します。
彼とは一度も会ったことがございません。ですが、送られてくる書状の余白の寸法が毎回ぴったり同じなので、どういう方かは、よく分かります。
その日、王都から記者が訪ねてきました。
丘の下で薪を割っていたガルド様に、記者は尋ねました。
「支部長。一つ、どうしても伺いたいことが」
「言え」
「王家は三度、セレスティア様を王都へ召喚しました。三度とも、辺境ギルドが辞退の書状を出している。なぜです? なぜ、彼女を王都に戻さなかったのですか」
ガルドは、斧を切り株に立てました。
岩のような顔が、少しだけ緩みました。
「風は、囲いの中じゃ読めねえんだよ」
「……は?」
「王宮の壁の中でな、いくら耳を澄ませても、風は鳴らん。鳴るのは、丘の上だけだ」
それきり、彼は何も言いませんでした。
記者が帰ったあと、ガルド様は小屋の前に、鍋を置いていかれました。まだ温かいまま、布をかぶせて。
中身は、いつものスープでした。
「……あの、ガルド様」
「なんだ」
「そろそろ、中でお召し上がりになっては」
「……」
「椅子は、大きいものをご用意しましたので」
巨躯が、わずかに揺れました。
「……飯は食ったか」
「これから、いただきます」
「帳面は増えたか」
「あと一日で、三千六百五十一日目です」
「……そうか」
彼は小屋に入って、新しい大きな椅子に座り、なぜか居心地悪そうに、また膝を縮めました。
丘の上。
夕暮れです。
わたくしの頬を、南南西の風がかすめました。湿りは薄く、温かい。明日は晴れ。明後日、雨。
前世のわたくしは、灰色の部屋で死にました。
年間三百十二日出勤、誰にも読まれない予報を書き続けて、階段で倒れて、それきりでした。
最後に思ったのは、「明日の朝の便、誰が出すんだろう」。
あの夜、わたくしは、自分の十年に何の意味があったのか分かりませんでした。
――今は、分かります。
意味は、後から生えるのです。
積み重ねた日数の、ちょうど上に。
「先生!」
丘の下から、栗毛が跳ねながら駆け上がってきます。折れた羽根ペンを振り回して。
「先生! 羽根が鳴りました!」
「ええ」
風車が、ヒュウ、と鳴りました。
順風です。
「聞こえていますわ」
わたくしは帳面を開きました。
表紙の角は、丸く擦り切れています。
羽根ペンを取り、インクをつけて。
――三千六百五十一日目を、書き始めました。




