AIは作者を消すのか?
ここ、なろうでもAI利用状況の設定が求められるようになった。
AI不使用。
補助的利用。
間接利用。
直接使用。
こういう区分が作られたこと自体は、理解できる。
AIで大量に文章を生成して、そのまま投稿する人が出てくる可能性はある。
コンテストや商業化のときに、AI利用の有無が問題になることもあるだろう。
読者や出版社、関係者に対して、作品がどのように作られたのかをある程度示す意味もある。
だから、AI利用の申告そのものを否定したいわけではない。
ただ、ひとつ大きな違和感がある。
それは、AI利用区分がどうしても「本文を誰が生成したか」に寄りすぎているように見えることだ。
作品というものは、本文を誰が打ったかだけで決まるのだろうか。
世界観を考えたのは誰か。
キャラクターを作ったのは誰か。
物語の方向性を決めたのは誰か。
どの出力を採用するかを決めたのは誰か。
最後に公開責任を負うのは誰か。
このあたりを見ないまま、本文にAI生成テキストが含まれているかどうかだけで判断すると、かなり雑な分類になってしまうのではないかと思う。
たとえば、ウェブ小説がコミカライズされる場合を考えてみる。
原作者は漫画の全ページを描かない。
コマ割りもしない。
絵も描かない。
表情やアクションの演出も、漫画家や編集部が作る。
場合によっては、原作にないオリジナル展開が入ることもある。
それでも、その漫画は普通、原作と無関係な別作品とは扱われない。
なぜなら、原作者が世界観、キャラクター、関係性、物語の土台を作っているからだ。
漫画家には漫画家の創作がある。
けれど、原作への依拠も残る。
つまり、コミカライズでは「最終的な表現を誰が作ったか」だけでは見ていない。
誰が原案を持っているのか。
誰が物語の手綱を握っているのか。
そこも見ている。
ところが、AI利用になると話が急に単純になる。
作者が世界観を作った。
キャラクターを決めた。
話の方向性を指定した。
AI出力を選んだ。
内容を確認した。
公開責任も作者が負う。
それでも、本文にAI生成テキストを使っていれば「AI直接使用」となる。
もちろん、本文にAI生成テキストを使っていることを示す意味はある。
しかし、それだけでは、作者がどこまで創作工程を管理していたのかが見えにくい。
ここにミスマッチがあると思う。
本来は、「原案」と「出力」は分けて考えるべきではないだろうか。
原案とは、作品の方向性、世界観、キャラクター、展開、主題を決める部分である。
出力とは、それを文章、絵、音声、映像などの形にする部分である。
コミカライズでは、原案を原作者が持ち、漫画としての出力を漫画家が担う。
それなら、AIを使った創作でも、原案を作者が持ち、文章出力の一部をAIが担うという構造はあり得る。
その場合、それは「AIが勝手に作った作品」なのだろうか。
私は違うと思う。
それは、作者がAIという表現手法を使って制作した作品である。
もちろん、AIにはAI特有の注意点がある。
生成された文章の権利関係。
品質管理。
既存作品との類似。
無確認の大量投稿。
商業化時の説明責任。
こうした問題は確かにある。
けれど、それは「AIを使ったから悪い」という話ではない。
問題なのは、AI出力を確認せず、管理せず、大量に流し込む行為である。
内容を確認していない。
品質を見ていない。
権利関係を考えていない。
公開責任を負う意識がない。
これは創作というより、出力の横流しである。
そこは制限されても仕方がない。
しかし、作者が原案を持ち、方向性を決め、AI出力を確認し、採用し、公開責任を負っている場合まで、単純に「AIが書いた作品」と見るのは粗すぎる。
ここで、もうひとつ考えたいことがある。
AIは作者を消す存在なのか。
それとも、表現手法のひとつなのか。
私は、AIは表現手法のひとつだと思う。
手書きで書く。
キーボードで打つ。
音声入力を使う。
編集者と相談する。
漫画家が原作を絵にする。
AIに文章候補を出させる。
これらは、創作工程における手段の違いである。
もちろん、それぞれの手段には違いがある。
漫画家が描けば、漫画家自身の創作性が生じる。
編集者と作れば、構成や企画に他者の判断が入る。
AIを使えば、出力の確認や管理が必要になる。
けれど、手段が変わったからといって、作者の構想や責任が消えるわけではない。
作者が構想し、方向性を決め、出力を選び、必要に応じて修正し、公開責任を負うなら、それは作者がAIを使って作った作品である。
ここでさらにややこしいのが、Adobe製品などに入っているAI機能である。
たとえば、画像編集ソフトにはすでに多くのAI機能が入っている。
背景削除。
被写体選択。
生成塗りつぶし。
ノイズ除去。
自動補正。
音声補正。
自動文字起こし。
こうした機能を使ったら、その作品はすべて「AI作品」になるのだろうか。
もしそうなら、現代の制作物のかなり多くがAI作品になってしまう。
文章でも同じである。
予測変換。
誤字脱字チェック。
文法チェック。
表記ゆれチェック。
音声入力。
翻訳支援。
これらにも、広い意味ではAI技術が含まれることがある。
では、それを使った作品はすべてAI使用作品なのか。
そう考えると、かなり無理がある。
つまり、本当に見るべきなのは「AI機能を使ったかどうか」だけではない。
作品の創作的中核を誰が決めたのか。
出力を誰が採用したのか。
内容を誰が確認したのか。
公開責任を誰が負うのか。
そこを見るべきではないかと思う。
AI利用申告は必要だと思う。
ただし、それは「AIを使ったから悪い」と示すためのラベルではなく、創作工程と責任分界を示すためのラベルであってほしい。
AIを使ったかどうかだけではなく、原案、出力、採用判断、公開責任を分けて考える。
その方が、これからの創作環境には合っていると思う。
たとえば、AI利用区分を考えるなら、次のような視点があってもよいのではないか。
AIを使わず作者が書いた作品。
資料調査や誤字修正にAIを使った作品。
AI出力を素材として使い、作者が改稿した作品。
AI生成テキストを本文に使うが、作者が方向性と公開責任を持つ作品。
AI出力を確認せず大量に投稿した作品。
この中で、本当に問題にすべきなのは最後のものだ。
AIを使ったことではなく、出力を管理していないことが問題なのである。
今は、AIが創作環境に急速に入り込んでいる過渡期である。
だから混乱が起きるのはわかる。
しかし、過渡期だからこそ、ルールは慎重に作ってほしい。
AIを使ったかどうかだけで線を引くと、Adobe製品のAI機能も、予測変換も、文法チェックも、音声入力も、すべてAI利用として巻き込まれてしまう。
それでは、現代の制作環境そのものが成立しなくなる。
AIは作者を消すものではない。
AIは、作者の創作主導権の内側に組み込まれうる表現手法である。
だから問うべきなのは、「AIを使ったか」だけではない。
誰が創作の中核を握っているのか。
誰が出力を採用したのか。
誰が責任を持って公開しているのか。
本当に見るべきなのは、そこだと思う。




