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晴らす

「……西洋美術展覧会?」


 首を傾げる百合は、差し出された券をまじまじと見る。その無言の瞬間は、返事を待つものにとっては無限にも等しい。

 若先生はとてつもない緊張の中で、必死に言葉を重ねた。


「ほ、ほら、たしかその、言ってましたよね。犯人は芸術家かも、と。もしかしたらこういうところで何か見たのかもしれません。……最近は幸いにも被害も出てないし、その」


 尻すぼみになってしまい、情けない気持ちでそっと百合の顔を盗み見る。

 しばし目を細めて券を見ていた百合は、もごもごと口を動かした。


「……」

「ど、どう、でしょうか……?」

「いいですね。行きましょう」


 百合はぱっと顔を上げた。

 その笑顔に、若先生は一気に肩の力が抜けるのを感じていた。


「やった! ……と、」


 思わず声が出ていて、やはりどこかから忍び笑う声が聞こえる。

 顔から火が出そうになって、彼は黙り込んだ。

 百合は、ずっと変わらず微笑んでいた。



 それからというものの、若先生は側から見てもわかるくらい舞い上がり、有頂天になっていた。志乃は呆気に取られていたし、何事か苦言を呈されたこともあったようだ。しかし全部若先生の耳を通り抜けるばかりで、やがては呆れられ、何も言われなくなった。

 そして肝心の事件のことすら頭から抜ける始末……この期間に犯行が重ねられることはなかったのは、幸いだったと言えるだろう。


「お、おはようございます!」

「おはようございます。待たせてしまったでしょうか?」

「い、いえ! そんなことは!」


 約束の一時間も前についていた若先生は、勢いよく首を振る。彼はほとんど眠れず、いつもより丹念に服や山高帽のほこりを取ったり、髭を剃ったりと明け方から時間を潰していたのだった。

 百合の方はと言えば、少し妖艶でこざっぱりとした無地の黒い着物を纏っているにも関わらず、目を離した瞬間に溶けてしまいそうな雪を思わせる……若先生にとっては特別に美しいが、本人は至っていつも通りであった。


「私、こういう美術展初めてなんです」


 うっとりと夢見る黒い瞳は、展覧会の行われる迎賓館の白く滑らかな壁に吸い込まれる。

 若先生はその壁や、壁の周りを囲む警備員、これからその視線を一心に受けるだろう絵画の一つ一つにすら嫉妬しそうになっていた。

 百合は、そんな若先生の心情などつゆ知らず、無邪気に彼を見た。その瞳にうつる彼の顔は、一目ででれでれと崩れそうになった。


「行きましょう」

「……はい」



 さて、この若先生の瞳が果たしてまともに絵画を写すか、といえば、もちろん無理だ。

 隣でじっと一つ一つの絵を食い入るように近付いて見たり、逆に離れて見たりと動く娘に夢中だからである。人の入りが多くないため、思うままに見学に集中できるのだ。


「……すごい」


 感嘆する吐息は、目に見えないのに何より若先生の心を掴んで離さない。

 そんな横顔の絵画が、ふいにこちらを向く。


「あなたは、何の絵がお好きなんですか?」

「ふぁい?」


 くすりと笑って、彼女は若先生をまっすぐ見つめた。


「先ほどから、私を見てばかりいるではないですか。そんなに私は危なっかしいですか?」


 そう言って頬を膨らませつつも、悪戯っぽく瞳は瞬く。息をするのも忘れていた若先生は、喘ぐように「あー」と裏返った声を出した。

 急ぎ、ある絵画に視線を移す。その絵は、真っ直ぐ彼の目に飛び込んできた。


「あれです。あれ」

「どれ……ああ」


 それは、川に浮かぶ女性の絵だった。

 色彩豊かな春の生命に囲まれた小川は、女をどこかへと連れてゆく。女の茫洋とした視線は空を舞い、恍惚と吐息を漏らす――先ほどまでの百合のようだ、と若先生は思ったのだった。


「僕はこれが好きなんですよ」

「へえ……この方は、どなたですか?」

「確か、誰ぞの本の登場人物だったような……」


 彼はそこまで海外文学に明るいわけではない。さらりと聞いたことがあるだけであった。


「Ophelia〈オフィーリア〉ですよ」


 横からひょいと顔を出したのは、珍しい金の髪を固めた洒落者の男だった。異国特有の、彫の深い顔に薄色の瞳が面白そうに二人を見ている。

 同時に、それまで絵画に向けられていた黒々とした瞳がその男――アダムに移った。

 彼は、朗々と歌うように日本語と英語を交えて話す。


「William Shakespeareの書いた『The Tragicall Historie of Hamlet, Prince of Denmarke〈ハムレット〉』という物語の登場人物です。復讐に燃える恋人、ハムレットの行いを知って狂ってしまった彼女は、この小川に身を任せて不幸な最期を遂げました」


 彼もまた、うっとりと絵の中の彼女を見つめる。


「彼女を含め、ここにある絵は全て複製画ではありますが、どれも良い出来でしょう? 父が抱える絵師に依頼して、作ってもらいました。私もこの絵が好きなのですが、故郷ではあまり人気がなくて……」

「どういうところがお好きなんですか? 色使い? それとも、この――」

「表情です」


 彼は、百合の言葉に迷わず答えた。


「これは、川に落ちたオフィーリアが死に向かう一幕を描いたものです。……実は隣の絵も似たようなものですが、全然違うでしょう?」


 隣に目を移す百合……若先生は、すっかり役目を奪われてしまった形になる。

 その隣の絵画には、白い布で頭を包んだ少女が描かれていた。こちらに振り向くその顔は穏やかで、瞳には確かな輝きがある。


「……とてもおふぃーりあと同じとは思えませんが」


 むっとしていた若先生が訝しく思って聞いてみると、洒落者は少しだけ笑い、次いで真剣な顔になった。


「無理はありません。彼女はBeatrice Cenci〈ベアトリーチェ・チェンチ〉。……この絵は、罪を犯して処刑されに行く彼女を描いたものです」

「……これから処刑されるとはとても思えないお顔ですね」


 百合は静かに言った。

 

「ええ。彼女は、母兄ともども父親に虐げられ、ついに罪を犯しました。ですが、本当はそうなる前にその家族を救うべきだった……彼女が処刑されたことには、我々もまだ納得していません。

 唯一の救いは、大切な弟が彼女が切り開いた未来を生き延びることが許されていたことです。

 だから画家は、彼女の瞳に未来への希望を見出したのでしょう」

 

 絶望の中で死を受け入れた(オフィーリア)

 希望の中で死を受け入れた(ベアトリーチェ)

 

 あまりにも対照的な姿だった。

 若先生は想像を巡らせる。

 ――果たしてベアトリーチェが本当に処刑された時、彼女はどんな目をしていたのだろうか。

 ぼんやりとする頭の中、百合の声が響いた。


「あなたは、どちらの絵が好きですか?」



 

「選ぶのは難しいですね。

 少なくとも、このような死を迎えたくないのは確かです」


 アダムは真剣な顔を崩して苦笑していた。

 

「迎えたくないけど、これらの絵はお好きなんですか」

「少なくとも、この美しさは死を受け入れたものにのみ与えられるものでしょう。私は少しだけ、この絵の彼女たちに憧れている、のかもしれません」


 アダムは少し困ったように笑う。

 百合もまた、困った顔をした。


「そう、ですか」

「ええ。はっきり言うのは恥ずかしいのですが、私は死ぬのが怖い。だから、どんな形であれ死を受け入れた姿が眩しく見えるのです。

 いや、この国で行われるという『せっぷく』を知った時は本当に震え上がりました」

「そういうことでしたか」


 恥ずかしそうに頬を掻く姿も様になっている。

 百合も、思わずといったように笑みをこぼしていて、若先生はやきもきしながら二人の会話を聞くにとどめた。


「解説、ありがとうございました」

「おかまいなく。他に何か気になる絵はありますか?」

「いえ、私は……」


 聞かれた百合は、若先生を見た。その目が「他は?」と聞いている。

 百合の意識が向けられたことに跳び上がらんばかりの若先生は、これ以上邪魔されてなるものかと口を開いた。


「いえ、お気遣いありがとうございます。またしばらく色々な絵を楽しませてもらいます」

「良い一日を」


 食い下がるわけでもなく、軽やかに一礼した彼に、後ろの人が次々に声をかけ始める。如才なく笑みを浮かべるその姿は『すまあと』の一言に過ぎる。

 若先生は複雑な思いで、その後ろ姿を見送る百合の横顔を見た。その表情は少し「残念そう」に見えなくもない。


「では、次見ましょうか」


 こちらをけろりとした様子で見た百合はまた進んでいく。どうにか話を続けようと、若先生は絵を指した。

 

「そうそう、死といえば、あの絵もありますよ。あの御使たちは少し恐ろしいんですけど、それがまた良い」


 その絵は、鮮やかなオフィーリアやベアトリーチェとはまるきり違った、退廃的な「死の世界」を描いていた。

 空は白く、その中に二人の御使が肩を並べて浮かんでいる。

 一方、絵の下の方には、黒い翳の目立つ焦茶の街が広がっていた。

 

「彼らはきっと天から降りてきた御使様ですね」

「そうです。いわゆる『きりしたん』たちの持っている本に、この絵の一幕があるそうで」

「この、御使様はどんな顔をしているのでしょう」


 確かに、二人の顔ははっきりしない。しかし、一人は剣を掲げている。きっと冷徹な顔をしているのだろう。

 そういうと、百合は首を傾げた。


「御使様は、この下の、黒い街みたいなものを滅ぼしに来たのですか?」

「おそらく。きっと、妖魔の国に違いありません」


 でなければ、こんな黒々とした異様な雰囲気を醸し出すはずもない。


「この対比が凄まじいと思います」

「そうですね」


 オフィーリアの時も、この御使も、百合は目を細めて見ていた。まるで微笑んでいるようにも見え、若先生は少し嬉しくなった。

 自分が美しいと思ったものを、楽しげに見てもらえるのは、とても喜ばしいことだ。


「ゆ、ゆりさん、あれはどうですか?」

「……なんでしょう、これは」


 複雑過ぎる抽象画を見る困った顔、鮮やかな色合いに白黒する瞳、鬱屈とした絵に翳る表情――まるで、動く絵画だ。見るもの全てが心を弾ませる。

 若先生には初めての感覚だった。興奮冷めやらぬまま、展示会を後にする。


「百合さんは、どれが一番良かったですか?」

「そうですね……」


 百合は名残惜しげに洋館を振り返る。

 白かった外装は、夕陽を浴びて橙に輝いて見えた。


「……案外、あの建物自体が良い芸術品ではないかと思います。最近は西洋風のお宿や学舎が増えていますが、やはりどこか、この建物とは違うんですよね」

「ああ! それなら僕も気になって職人に聞いてみたことがあるんですが、あれらは『今風の建物』として西洋建築の真似をしたそうで」

「真似、ですか」

「もでる、と言った方が相応しいですね。要は、あれらの建物は、この西洋館を参考にして作り上げられた、全く別物の新しい作品なんですよ」

「……皆さん、本当にすごいですね」


 百合は目を細めた。夕陽に照らされ薄く笑む表情は、本当に消えてしまいそうだ。

 若先生は思わず手を伸ばし、その肩に触れてみる。本当は顔に指が伸びていたものの、肝心なところで怖気付いたのである。


「ゆ、百合さん」

「なんでしょう」

「ぼ、ぼぼぼ、ぼくの……」


 一世一代。

 必死に空気を吸い、彼は言葉を搾り出そうとした。

 百合はそんな彼を急かすこともなくじっと見ている。それが待っているように見えてしまい、若先生は嫌でも期待してしまう。


「ぼ、ぼくの!」

「はい」


 心を決めた彼の背を押すように、一際大きな爽やかな風が吹いた。

 

 ――べっしゃあ!


 


「あっおーい! そこの!」


 若先生は、完全に固まっていた。

 百合もまた、目をまん丸にして固まっている。

 若先生の後頭部を『何か』が覆っていた。呆然と振り向いてみれば、その何かは彼の頭を撫でるようにするりと離れていった。

 振り返った視線の先にいたのは、必死な顔で叫ぶ男――いや、見覚えがある。


「あー! 行っちまった……」


 何事かわからない若先生を案じるように、百合が言った。


「あなたの後ろから紙が飛んできて……また、何処かへ吹き飛ばされていきましたね」

「そ、そう……ですか」


 一世一代の勇気はあっさりと萎んでいった。

 生気すら風にさらわれてしまったような気さえする。


「す、すまねえ! 手が滑ったところに風が……て、あっ! 聞屋じゃねえか!」

「……」


 若先生には返事できなかった。その目はよほどじっとりとしていたのだろう。

 点消方の五兵衛は「ひえっ」と悲鳴を上げ、無精髭すら萎びらせる勢いでひたすらに頭を下げた。


「大事な紙だったのですか?」

「ああ、いやまあ……あれ? あんた」


 ようやっと顔を上げた五兵衛は、不思議そうに百合の顔を見た。その不躾な視線に、やっとのことで若先生が咎めようとした瞬間、今度は釈然としない顔で首を捻った。

 百合は心底不思議そうにそれを見ていた。


「私の顔に、何か付いてますか?」

「あっあああいや、なんでもねえよ。ちょっと似てる人をこの間見たことあってね。全然似ても似つかねえ、随分と可愛らしいお嬢さんじゃねえか。聞屋のこれかい」


 自分が萎れてたのも忘れて小指を立てる五兵衛に、若先生は怒ったように顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせた。


「き、きみという、やつは……! 失礼だろう!」

「す、すまねえすまねえ。野暮だったな。女房にもこないだおんなじように怒られちまったところだった」


 慌てる五兵衛は、手にあった記帳を懐に仕舞い込んだ。随分と大切そうに、懐の上から手で抑える。


「その帳面、そんなに大切なものなんですか?」

「それなら家に仕舞い込んで居れば良いものを……」


 悪態の止まらぬ若先生に、五兵衛は弁解するようにごにょごにょと喋り出す。


「違えんで。こいつは……あっしの趣味、というか……まあ」


 首を傾げる百合を見て、彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。


「まあ、その、確かに趣味の一環で、あちこち散策して目についたもんをかいてて……」

「もしかして、あなたも何か作品を?」

「う……い、一応」


 図星だったのか、彼はずんぐりとした体を落ち着きなく揺らした。


「それで、西洋画展で何かもでるがないか見にきた、と」


 しかし、若先生は不思議に思う。あの画展はそこそこ拝見料がかかるのだ。目の前の、この見窄らしい男にそんな余裕があるとはとても思えない。

 その見窄らしい男は、「は?」と言わんばかりの顔をした。


「も、もでる? てのは、一体……?」


 説明してやると、彼はなるほどと頷く。


「それなら、たしかにそうだな。……いやしかし、良い言葉だな。もでる。あっしはどうも異国の言葉はさっぱりで……」

「何か良いもでるは見つかりましたか?」


 百合の言葉に、五兵衛はどこか眩しそうな顔をした。


「いやそれなら、あんたこそ良いもでるになりそうだ」

「過分なお言葉です」


 ひゅっと若先生の喉の奥から声がした。血の気が下がり、きんという音が響いて頭も耳も痛い。

 もでると芸術家……古くから、これらは()()()()()()()に陥りやすい。


「だ、だめです。だめですよ……! ほら、百合さん!」

「どうされました?」


 不思議そうな顔がもどかしい。良い加減、わかってくれても良いのではないかと、彼は思い切ってその手を掴む。


「行きましょう!」


 唖然とする五兵衛を尻目に、若先生は百合を引っ張って歩いて行った。

 ……幸か不幸か、その五兵衛が後に大きな声で笑い出したのには気付かなかった。




「記者さん」

「……」

「記者さん、痛いです」

「あ……」


 高く細い声に、やっと我に帰った若先生は百合の手を離す。その細い手首には、赤い跡が付いていた。


「す、すみません。こんなはずでは……」

「いえ……お気になさらず」


 誰しも虫の居どころが悪い時もある、と百合は健気にも微笑んでみせた。そのいじらしさが、若先生の心を抉る。

 もう、彼には自分の思いを告げることはできなかった。


「今日は、ありがとうございました」

「い、いえ。このようなことになり、誠に申し訳ございません」


 百合は気にしていないと笑う。


「本当に楽しかった……実は、またお勤めに出ることになったのです」

「まさか、あの橋を……」

「はい。でもきっと、今日のことを思えば怖くありません」

「……よかった」


 少しでも彼女の不安が除けたのなら……心の底から、彼は安堵していた。


 ――明るい太陽の下、朗らかに笑う彼女を見たのはそれが最後だった。

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