わずらう
それからと言うものの、若先生は日がな一日ぼんやりとしていた。寝ても覚めても、頭の中はあの美しい女で埋め尽くされ、何にも付け入る隙を与えない。
――ああ、彼女は一体何者なのか……。
昨日、激しくどもりながら名を聞いた若先生に対し、女は悪戯っぽく微笑むと、白くほっそりした指を、桃色の唇の前に立てた。
「秘密」
ぱくぱくと口を開け閉めすることしかできなくなってしまった若先生を置いて、彼女は歩いて行ってしまった。
ちなみに巡査はにやにや笑って「本人に聞いてみろ」と茶化してきただけだった。公僕というものはまったくもって役に立たないものだ。
「……あれまあ! いたのかい若先生!」
突然、素っ頓狂な甲高い声が思考を遮る。
「この夜分に留守なんて珍しいと思ったら、こんな時間に電気も付けないで、何やってるんだい? ご飯せっかく作ったのに、もう冷めちまってるよ!」
ご飯の一言に、若先生は腹をさするも空いていない。
「んー……今日はご飯はいらないよ」
「そうかい? まあそんな時もあるさね」
体調でも悪いのか、とか心配されると思ったのだが、意外にもあっさりと志乃は引き下がる。
「それで……警察は何か言ってたかい?」
――ああ、こっちの方が聞きたくて二階まで様子を見にきたのか。
「まだ犯人は見つけられてないね」
隠すこともあるまい。「無能」の噂が悔しければ早く真犯人を挙げれば良いのだ。
「ってことは、あの女はやっぱり……」
「違うね。犯人ならいつまでも死体のそばにいるもんか。僕なら人に見られる前にさっさと逃げるよ。次の殺人なんて、彼女が捕まってた時に起こったんだ」
少々食い気味に若先生は断言する。
志乃は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「ああ、良かった! 今日まさに不気味な黒い着物の女がいて、もしかしたら……と思っちゃって」
がばり、と若先生は起き上がる。もうその脳裏には一人の女しか浮かばない。
「どこで見たの?」
「多聞橋の近くだよ……だから怖くって怖くって……」
多聞橋なら、最初に死体が見つかった場所だ。
正直なところ、まともな女ならば酷い死体を見つけた場所には近寄らないだろうが、若先生はそんなこと考えもしなかった。
――明日も来るだろうか。
彼女に会いたくて仕方がなかった。
翌日、早速若先生は朝から多聞橋あたりをふらふらしていた。どこへも行く当てはないため、とりあえず河原に座り込んで本を読む……ふりをして橋を行き交う人をちらちら盗み見、時折橋を渡って反対側で同じように座り込む。巡回中の警察に目をつけられると厄介だが、そこまで気が回っていなかった。
探しているのはもちろん黒い着物の浮世離れした佳人である。事件の時も、その後も、彼女はあそこを通っているのだ。どこから来るのかはわからないが、今日も来るはず……。
ほぼ直感に近いものだが、不思議と確信していた。
そして――
「……来た!」
その人の周りだけ、往来の騒がしさが静まっているようだった。黒一色の着物は肌の白さを際立たせ、一層儚げな雰囲気を醸し出している。
若先生は芝で滑りそうになりながら河原を駆け上り、橋に出た。
黒い着物の女性は、しずしずと往来を渡ってくる。あんなに目立っているのに、道ゆく人はほとんど気にしていないようだ。いや、もしかしたら気付いていないのかもしれない。それほどまでに、彼女は周りの空気に溶け込んでいた。
彼女は、ただまっすぐ歩いており、若先生のことを一瞥もしない。……と思いきや、若先生の目の前で止まった。
馬鹿みたいに突っ立っていた若先生は、はっとして横に飛び退く。
「も、申し訳ない……通行の邪魔をするつもりでは……」
慌てて謝罪すると、女は若先生を見てくすりと笑う。口をぱくぱくさせて赤くなった若先生は、彼女の口が開くのを夢見心地で見ていた。
「また、お会いしましたね」
「は、はひ!」
声が裏返った若先生に、女はさらに笑う。
「そんなに身構えないでください。別に、とって食おうとしているわけではないんですから」
貴方になら食べられてもいい。むしろ……瞬間的におかしなことを口走りそうになり、若先生は口を押さえた。
いかにも挙動不審であろうその姿に、女は何を言うでもなくある方向を指差した。
「少し、お話ししませんか?」
カフェの女給たちは、今日も忙しなく動いている。男たちはちらちらとそれを見てはこっそり鼻を伸ばしていた。
そう。ここは本来洒落た珈琲と可憐な彼女たちを楽しむ場であった。
「私の推理では、犯人は芸術的な才を持っている方だと思うのです」
しかし今、そこには似つかわしくない話が進んでいる。
「え、は……な、何故です?」
「殺し方に、そして現場の状況に対して並々ならぬこだわりを感じたからです。だから私、最初に見た時は何かの作品だと思ってしまったんです」
普段ならば、若先生は顔を顰めるだろう。小洒落た空気に浸るところではないからだ。しかし今日は誰も彼も眼中に入ってこない。
なんせ、目の前の御仁はうっかりすると空気に溶けて消えてしまいそうなのだ。話を遮ることも目を離すこともできない。
「全く、あれは本当に困りました。実を言うと、私の雇い主は老齢で、朝がとても早いんです。だからいつもあの時間にお勤めに出ているんです」
そう彼女は物憂げにため息をつく。
警察にいえば、その老齢の雇い主に負担をかけてしまうと考え何も言わなかったらしい。
「そうしたら、何やら法被を着た男がぶつかってきて……何事かと思って行ってみるとその、あの方がいましてね」
「それは……災難でしたね」
若先生はそれしか言えなかった。
彼女は我が意を得たりとばかりに話す。
「ええ、全く、わかるでしょう? 眠くて眠くてぼんやりとしていたんですよ? それで本当に芸術作品だと思ったんです。だってあり得ませんもの。まさか本物だなんて……あなたも見ればわかります。まるで夢でも見ているかのようで、ぼうっとしているうちに何やら物々しい雰囲気の方々に囲まれていて……」
ガス灯に照らされ、無残な死体に魅せられ佇む佳人……なんとおぞましくも美しい光景なのだろうか。
不謹慎だが、その光景を脳裏に描いてしまった若先生はぶるりと震えた。
「側にはもう一人法被を着た方がいて、私としてはその方と走り去って行った方が犯人かと思ってそう証言したのですが……」
「法被を……それは恐らく、点消方でしょう。一人が警察の詰所に駆け込んだらしいです。なんでも、点消方は二人一組で行動するとか」
ああ、と女は納得したように頷く。
「じゃあ、あの二人はガス灯を消しに来てたんですね。あんな時間にあそこにいても不思議ではないと……」
そう言って、顎に手を当てて何やら考え始めた。俯きがちのその顔を、若先生はつい凝視する。
やがて目が合って、若先生は少し慌てた。
「あの……記者、なんですよね?」
「え、ええ」
一瞬、本当のことを話そうかと思ったが、野次馬めいた自分の行動が後ろめたくてつい首肯してしまう。
「お願いです。何か情報があったら教えてくれませんか?」
そのお願いに、若先生は呆然とする。
「いや……まさか、犯人を探そうって言うんですか?」
とんでもない、そんなこと危険すぎる。
「亡くなった方が同じ歳だと聞いて、とても不憫で。それにもしかしたら、次は……」
震え声が途切れる。若先生は考えを巡らせた。
「……わ、私が……」
――守ります。
下心も込められたその一言がつい口をつく前に、彼女はテーブルの上に身を乗り出した。
「お願いです! どうしても、何か情報が欲しいんです」
「ええ、と……」
喉まででかかった言葉はあっさりと引っ込んでいき、若先生はたじたじになる。
それを見た彼女の勢いは増し、思わずと言ったように若先生の手を掴んだ。
若先生はその手を凝視する。
――や、やわらかい……。
その滑らかな感触に、そして一心に見つめる黒々とした目に、どぎまぎする若先生の心臓はそろそろ限界であった。
「……わ、わかりました、協力しますから……」
途端にぱっと笑みを浮かべた彼女に、かぁっと顔が熱くなる。喜んでもらえた嬉しさと、離れていく手の温もりを惜しく思うとともに、これからを思った若先生はため息をついた。
「ありがとうございます! 私のことは、どうか気軽に百合と呼んでくださいな」
「……ゆ、ゆゆゆゆ、ゆり、さん」
どこからか忍び笑いが聞こえた気がして、誤魔化すように咳をする。
気軽に呼べる日は果たしてくるのだろうか。




