白き翼の迷子、あるいは無垢なる捕食者と依存
第16階層『巨樹の迷宮』での遭遇から、丸一日が経過していた。 俺たちの拠点であるギルドハウスの2階、一番日当たりの良い客間。 そこで俺、レンは、椅子に座ってベッドの上の少女を見守っていた。
空から落ちてきた天使。 泥と血を洗い流され、ユナさんが用意した清潔なネグリジェに着替えさせられた彼女は、深い眠りについていた。 窓から差し込む朝の光が、彼女の長い銀髪と、背中から伸びる純白の翼を照らし、神々しいほどの美しさを放っている。
「……本当に、絵本から出てきたみたいだな」
俺が呟き、彼女の頬にかかった髪をそっと払おうとした、その時だった。
パチリ。
何の前触れもなく、彼女の瞳が開かれた。 そこにあったのは、透き通るようなサファイアブルーの瞳。 だが、寝起きのぼんやりした様子はない。まるで機械のスイッチが入ったかのような、無機質で冷徹な光を宿していた。
「――ッ!?」
彼女は瞬時に上半身を起こすと、俺の手首を掴み、逆の手で俺の喉元に何かを突きつけた。 それは枕元に置いてあった、果物ナイフだった。
「……動くな」
鈴を転がすような美声。だが、温度はない。 俺は両手を挙げて降参のポーズを取った。
「落ち着け。俺は敵じゃない」 「敵……?」
彼女は首を少し傾げ(コクリ、という擬音が似合いそうな動きだった)、俺の顔を至近距離で凝視した。 青い瞳が、俺の瞳孔の動き、脈拍、体温をスキャンするかのように動き回る。
「……魔力波形、照合。……個体名、不明。脅威度、Fマイナス。……敵性反応、なし」
ボソボソと謎の独り言を呟いた後、彼女は急に力を抜いた。 カラン、とナイフが床に落ちる。
「……貴方が、私を?」 「ああ。空から落ちてきたところをキャッチしたんだ。ここは俺たちの家だよ」 「……そう」
彼女は短く答えると、自分の手を見つめ、それから背中の翼をパタパタと動かした。 そして、なぜか俺の服の裾をギュッと掴んだ。
「……?」 「どうした? どこか痛むか?」 「……不明。ただ、ここから離れると『エラー』が出そう」 「エラー?」 「不安、恐怖、焦燥……この座標にいると、それらが軽減される」
彼女は無表情のまま、俺の腕にすり寄ってきた。 まるで、親鳥の羽毛に潜り込む雛鳥のように。 さっきナイフを突きつけてきたとは思えない変わりようだ。
◇
リビングに降りると、朝食の準備をしていた3人が目を丸くした。
「あ、起きたんだ! おはよう、天使さん!」 「体調はどうですかぁ? まだ痛みますか?」 「お腹空いた? 魚あるよ?」
シルフィ、ユナ、ミミが声をかけると、少女の目が鋭くなった。 彼女はサッと俺の背中に隠れ、隙間から3人を警戒するように睨みつけた。
「……敵性生物、3体」 「誰が敵性生物よ! 助けてあげたのに!」 「警戒レベル、イエロー。……マスター(レン)から離れろ」
彼女は俺の腰にしがみつき、威嚇のポーズ(翼を大きく広げて俺を覆い隠す)を取った。 どうやら、最初に視界に入り、かつ自分を助けた俺のことは「親」または「安全地帯」として認識したが、それ以外はすべて「外敵」だと思っているらしい。完全に刷り込み(インプリンティング)だ。
「こら、威嚇しない。彼女たちは仲間だ。俺の『群れ』だ」 「……群れ?」 「そう。敵じゃない。ご飯をくれる人たちだ」 「……ご飯」
その単語に反応し、彼女のお腹がキュルルル……と可愛らしい音を立てた。 彼女は無表情のまま、顔を赤らめて俺の背中に額を押し付けた。
「……エネルギー残量、低下。補給を要求する」
◇
食卓に着かせたものの、ここで問題が発生した。 彼女は目の前に置かれたスプーンとフォークを、不思議そうに眺めたまま動かないのだ。
「……どうした? 食べないのか?」 「使用法が不明。……これは武器?」 「違う。食器だ。……まさか、記憶だけじゃなくて常識も飛んでるのか?」
彼女はスープ皿の中身をじっと見つめ、それからおもむろに顔を突っ込もうとした。 犬食いだ。
「ストップ! 熱いぞ!」
俺は慌てて彼女の肩を掴んで止めた。 彼女はキョトンとして俺を見る。
「……摂取プロセス、エラー。推奨される行動を提示せよ」 「はぁ……。見ててくれ。こうやるんだ」
俺はスプーンでスープをすくい、彼女の口元に運んだ。 彼女は警戒しつつも、パクっと口に含んだ。
「……!」
瞬間、彼女の瞳がキラキラと輝いた。 無表情だった顔に、パァッと花が咲くような変化が訪れる。
「……美味しい」 「そうか、よかった」 「美味しい。もっと。要求する」
彼女はあーん、と口を開けて待機した。 俺がスプーンを運ぶと食べる。運ぶと食べる。まるで餌付けだ。 その様子を見ていたシルフィが、フォークをガジガジと噛みながら不機嫌そうに言った。
「……なにこれ。新しいプレイ?」 「介護だよ、介護。記憶喪失で幼児退行してるんだ」 「あらあら、レン君も満更でもなさそうですけどねぇ」
結局、彼女は俺の手からしか食事を受け付けず、俺が自分の分を食べる暇もなく給仕することになった。
◇
食事の後、名前についての話し合いになった。
「自分の名前、覚えてないか?」 「……記録、破損。アクセス不可」 「そっか。じゃあ呼び名がないと不便だな。……天使だし、『アンジェ』とかどうだ?」
安直だが、響きはいい。 彼女はその言葉を口の中で転がした。
「……アンジェ。アンジェ……。受諾。その識別コードで登録する」 「よし、決まりだ。よろしくな、アンジェ」
俺が頭を撫でると、アンジェは目を細めて気持ちよさそうに受け入れた。 やはり、俺に対するガードだけ異常に緩い。
◇
昼下がり。 一番の難関がやってきた。お風呂だ。 墜落の汚れはユナさんの魔法である程度落ちているが、やはりお湯できちんと洗ってやりたい。
「じゃあ、あたしたちが入れてくるわね。レンは覗かないでよ!」 「覗くか。頼んだぞ」
シルフィとユナさん、ミミがアンジェを連れて浴室へ向かった。 アンジェは俺から引き剥がされることに抵抗したが、「綺麗になったらレンが撫でてくれるよ」というミミの謎の説得により、渋々従った。
静かになったリビングで、俺が地図の整理を始めて数分後。
「ギャァァァァァッ!!」 「ブクブクブク!!」 「きゃぁぁぁっ! 暴れないで!」
浴室から悲鳴と、激しい水音が聞こえてきた。 敵襲か!? 俺は杖を掴んで脱衣所へ走った。
「どうしたッ!」 「レ、レン君! 来ちゃダメですぅ!」
扉を開けると、そこは地獄絵図だった。 湯船の中で、アンジェが溺れていた。 いや、溺れているのではない。お湯という概念を理解できず、「水攻め(拷問)」だと勘違いしてパニックになり、翼をバタつかせて暴れているのだ。 その暴風で洗面器が飛び交い、シルフィとミミが泡まみれで転がっている。
「敵襲! 液体による窒息攻撃! レン、救援を求む!」 「落ち着けアンジェ! それはお風呂だ! 攻撃じゃない!」
俺が叫びながら湯船に近づくと、アンジェはずぶ濡れの裸のまま俺に飛びついてきた。
「確保! 安全地帯へ退避する!」 「うおっ!?」
抱きつかれた勢いで、俺までお湯の中に倒れ込む。 視界いっぱいに広がる白い肌と、濡れて透けた肢体。そして密着する柔らかい感触。 だが、そんなことを楽しむ余裕はない。彼女はコアラのように俺にしがみつき、震えているのだ。
「怖い……息ができない……」 「大丈夫だ。顔を上げろ。……ほら、温かいだろ?」
俺は彼女の背中(翼の付け根あたり)を優しくさすった。 俺の体温を感じて、ようやく彼女の震えが収まっていく。
「……温かい」 「そうだ。これは体を綺麗にする場所だ。怖くない」 「……レンがいるなら、許可する」
結局、俺が湯船の中で彼女の手を握ったまま、ユナさんたちが体を洗うという、非常にカオスで背徳的な入浴タイムとなった。 俺は天井のシミを数えて理性を保つのに必死だった。
◇
風呂上がり。 ふわふわになった銀髪と翼を乾かしてもらい、アンジェは俺の膝の上に座っていた。 どうやらここが定位置になったらしい。重くはないが、シルフィたちの視線が痛い。
「……ねえ、アンジェ。あんた、戦えるの?」
不機嫌そうなシルフィが、ふと核心を突く質問をした。 アンジェは俺の膝から降りると、壁に立て掛けてあったミミのショートボウ(短弓)を手に取った。
「……弓。構造、把握。……低品質」 「あ! あたしの予備の弓、バカにしたな!」
アンジェは何も言わず、窓を開けた。 ここから見えるのは、裏庭の木に吊るした小さな的だ。距離は約30メートル。 彼女は矢をつがえず、ただ弦を引いた。
「――《マナ・アロー(魔力矢)》・生成」
彼女の指先に、青白い光の矢が出現する。 魔力だけで矢を作る技術。相当な高位スキルだ。 彼女は狙いも定めず、無造作に放った。
ヒュンッ。
光の矢は一直線に飛び、的の中心にある釘の頭を正確に撃ち抜いた。 的そのものではなく、それを留めている釘を、だ。
「……着弾確認。誤差、修正不要」
彼女は淡々と言って窓を閉めた。 俺たちは絶句した。 あの距離で、ミリ単位の狙撃。しかも他人の、使い慣れていない安物の弓で。
「……すご。腕は確かね」 「生活能力はゼロなのに、戦闘能力は特S級ですねぇ……」 「かっこいいー! ミミにも教えてー!」
アンジェは褒められても表情を変えず、また俺の膝に戻ってきた。
「……戦闘行動なら可能。レンの敵を排除する」 「頼もしいな。でも、まずは服の着方と、トイレの使い方から覚えような」 「……? トイレとは?」
前途は多難だ。 記憶喪失の堕天使、アンジェ。 彼女は俺たちの最強の戦力になるだろうが、同時に俺の『育児』の負担も激増しそうだ。
その夜。 当然のように俺のベッドに入り込み、「ここ以外では休眠モードに入れない」と言い張るアンジェと、それを阻止しようとするシルフィたちの攻防戦が、夜明けまで繰り広げられたのだった。




