②
五分後。ほかにも気になる点を修正し、ロクサンナは立ち上がった。すたすたと歩いて、大臣用の重厚な執務机の前に立つ。
「終わりました。ほかにも気になる点を修正しておきましたので、こちらで大丈夫かと」
「そうか」
眼鏡の奥の双眸を細め、外務大臣であるウェードは書類を受け取る。
「やはり最初からお前に任せたほうがよかったか」
「いえ、後継者を育てるという意味では、あれで正解かと」
自身の執務スペースでうなるジェスにちらりと視線を送る。
「彼はまだ入省して三カ月しか経っていません。せめて一年は見てやってください」
「……善処しよう」
などと言っているが、この男が納得したなんてロクサンナは思っていない。
自分にも他人にも過度に厳しいこの男は、一つのミスも許さない。
それが省内に変な緊張感を生み、ミスを誘発していることにこの男は気づいているのか。
(気づいていないに賭けましょうか。この人、仕事はできるけど、ほかはどこか抜けているもの)
書類に目を通すウェードを見ていると、彼が顔をあげた。
宝石のようなきれいな瞳に満足そうな色を宿し、深くうなずく。
「完璧だ。お前を紹介してくれたミスター・シドニーには足を向けて寝られない」
「……期待に応えることができたなら、ようございました」
一礼をして、ロクサンナは自身の執務スペースに戻る。
椅子に腰を下ろすと、ジェスが忍び足で寄ってくる。彼は恐縮しきった様子で、カップを差し出してきた。
「すみません、いつもご迷惑を……」
「迷惑だなんて思っていないわ」
カップを受け取って、口に運ぶ。口の中いっぱいに広がる爽やかな味は、午後特有の眠気を払っていく。
「私は文字が好きなの。魚とって生きることに水が必要なように、私が生きるためには文字が必要なの」
「……は、はぁ?」
動揺しているジェスを気に留めることなく、ロクサンナは先ほどから自身が翻訳している書類に視線を落とす。
外務省にはいろいろな言語で書面が届く。ロクサンナの役割は、書面をわかりやすく翻訳すること。そして、国の上層部が出した書類を、相手国の言語に翻訳することである。
ロクサンナの職務はこれだけ。つまり――翻訳のためだけに雇われた人材だった。
(ロートン卿は仕事のできる人。けど、彼は一人しかいない)
ペンを走らせつつ、思考を整理していく。
ウェード・ロートンはとても有能な人物だ。だれよりも外国語に通じており、翻訳だけでなく会話をすることもできる。
だが、外務省の仕事は彼一人では回らない。
(だから、その場面でのプロフェッショナルを集めることにした。私は『翻訳』のプロ)
本来、ここにいるのはロクサンナではなくその師匠であるシドニーという男だった。
しかし、彼は老いを理由に断った。その代わりとして、ロクサンナを推薦したのだ。
当時、家の財政状況の悪化により、就職か結婚の選択を迫られていたロクサンナにとって、それはとてもありがたいこと。
すぐにうなずいて、ロクサンナは外務省に就職した。
ここに来たばかりのときは、だれもがロクサンナの能力を疑った。年若い娘になにができるのだ――という雰囲気を肌で感じていた。けど、数週間が経つころには、ひとつ残らず陰口は消えていた。
この場にいる人間のだれもが、ロクサンナが『翻訳のプロフェッショナル』だと認めたのだ。