①
――三度の飯より、文字が好きだった。
レイメント伯爵家の三女として生まれたロクサンナは、幼少のころから文字が好きだった。
それはこのラバリッジ王国の文字だけではなく、世界共通で使われている文字。ほかの国の文字――などなど。
小さなころからたくさんの文字をインプットしてきたロクサンナの知識量は、『文字だけ』という前提がつくものの、かなりのものだった。
しかし、不幸なことにこの知識を活かせる環境は、ロクサンナの周りにはなかった。
貴族令嬢として生まれ育ったロクサンナには、知識を生かして働くという選択肢がはじめからなかったのだ。
だからこそ、宝の持ち腐れになる――と、だれもが思っていたのだが。
ロクサンナは行動した。そして、その能力をいかんなく発揮する場に恵まれたのだ――。
ラバリッジ王国外務省。
それは日々他国の動向に目を光らせ、良好な関係を築こうと奮闘している人々が属する省である。
現在外務省を束ねているのは、今年二十九歳になる若き外務大臣ウェード・ロートンという男。たくさんの言語を使いこなす彼は、若くして出世したのも当然と言える有能な人物だ。
そして、彼こそがロクサンナの直属の上司だった。
「ジェス、まったくお前はいつになったら成長するんだ」
ラバリッジ城にある外務大臣執務室の空気は、今日も冷え切っていた。
執務椅子に腰を下ろすのは青い瞳に冷たい色を宿した美しい男。彼はひじ掛けを指でたたきつつ、目の前で身体を小さくする青年をにらんでいた。
「いやぁ、ほら、だって……ですねぇ?」
「言い訳など必要ない。必要なのは『これからしない』という誓いだけだ」
「こ、これからミスなしでやるのは無理ですって!」
ジェスと呼ばれた青年の返事に、男の表情がみるみるうちに消えていく。
美しい人間の無表情は、見る者に圧を与える。同時に――耐えがたい恐怖心も。
「大体、僕は大臣とは違います。完璧無欠の人間にはなれません!」
ジェスは言い訳に言い訳を重ねている。これは悪手だと、彼だって本当はわかっているはずだ。
それでも、あの迫力の前では頭が真っ白になるのだ。
(このままうるさくされると面倒だから、助け船でも出しましょうか)
スカートをひるがえした女性――ロクサンナは、男とジェスの元に歩み寄った。
「ロートン卿。こちらの翻訳が終わりました。確認のほうお願いいたします」
大きな執務机の上に紙の束を置くと、二人の視線がロクサンナに集まる。
明らかにほっとした表情のジェスに対し、男の表情は動かない。
「そうか。では、私はそちらのチェックをしよう。ロクサンナ嬢、こいつの後始末をしてくれ」
「かしこまりました」
一礼をして、ロクサンナは一歩引く。ちらりとジェスに視線を向けると、彼の目に涙がにじんでいた。
「ジェス、行きますよ。いつまでもぼうっと立っていないでください」
「は、はい!」
ふかふかの絨毯の上を歩いて、ロクサンナは自身の執務机に向かう。
パーテーションを挟んだだけの場所だが、彼の視線がないだけで幾分気が楽になる。
自身の執務椅子に腰を下ろし、ロクサンナはジェスに向かって手を差し出す。
「ロートン卿がああいうということは、間違えたのは翻訳の部分でしょう? 早くかしてちょうだい」
「は、はい!」
ジェスが慌てて取り出した書類に目を通す。
原本と翻訳を見比べる。指で追っていると、一点で視線が止まった。
(微妙にニュアンスが違う。このニュアンスでも通じるといえば通じるけど……)
ペンを手に取って、さらさらと訂正していく。
ロクサンナの様子を見て、ジェスが感嘆の声をあげる。
「すごい……見るだけでわかるなんて」
「……これくらい当たり前です」
世間一般的にロクサンナの能力が一般的ではないということくらい、自覚している。
しかし、ロクサンナにとってはこれが当然なのだ。
「もう一度チェックしますので、少々お待ちくださいませ」
「は、はい」
ようやく落ち着いたジェスがロクサンナの言葉にうなずいた。