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彼女の名前は源の姓を関する源の命、仮の名である。本名は知らない。
いつからここに居るのかいつまで居るのかそれすらも分からないのだ。彼女が住んでいるのは雑居のビルが立ち並ぶ奥まった一軒家。一人暮らしである。
一人で暮らすには十分すぎるほどの家だが気がついた時にはこの家で暮らしていた。
ご近所というご近所はほとんどいないが、誰も彼女を怪しむものなどいない。それは彼女自身の力と彼女が住む一軒家に特殊な結界が張られているからだった。
普通の人には分からない結界が。そして彼女が人間であることが最も疑わしい。
なぜならこの家に住んでからすでに時は何十年と過ぎている。それでも時が止まっているかのような若い姿のまま生きているのだ、周りは誰も気づかない。彼女が年を重ねることが出来る日ははたして来るのだろうか。
彼女の所にたまに来る男は名を玄桐と言った。本人から言い出したことなので彼女はそれを信じている。
男はふらりとやって来ては彼女に問題ありの魂を預けに来る。これもいつから始まったのかわからない。だが男は彼女に魂を預ける事だけをしているわけではなかった。彼女には言えないような事を裏では平気で行っているのだ。
もちろんその事を彼女が全て知っているのかと思えばそうではない、だが彼女にはそんなこと関係が無かったのだ。この地に留まるしかなくなった魂を回収し、身の内で浄化まで導くそれを男に託し在るべきところへ還してもらうのだ、そのための男。
彼女と男は言わば運命共同体のような存在であった。
「少しお話をしましょうか」
身体の内の魂に呼びかける。
モゴモゴとうごめく魂に今は言葉はない、ただその感情が伝わるだけだ。
「貴方の名前を教えて頂けますか?」
ゆらりと魂が揺れる。
「覚えている事でいいのです、話していただけますか?」
その答えを待っていると魂は突然歪み始めた、苦しそうに声にならない声を上げて歪んでゆく。
彼女は胸に手を当て温かな光を送った。暫くすると落ち着きを取り戻したのか魂は静かにその歪みを元の形へと戻していった。
魂と話をする、これは簡単なことではない。あまり強く追求すると魂が壊れてしまうのだ、それは魂の消滅をも意味する。過度の負担をかけずゆっくりと時間をかけて心の歪みを治していく。そうする事で魂は綺麗な元の状態へと近づいていくのだ。
「今日はいいお天気なんですよ、空には薄い雲が流れ時折風が吹きます、太陽はいつも輝いています凄いですね」
彼女の中の魂が少し揺れた。
「ふふ、そうですね。でもなぜ太陽はお日様なんでしょうか?」
彼女は他愛もない話をし始めた。魂は戸惑いながらも彼女の質問に答えていく、それがさも当然のようにゆっくりと、だが魂の会話は彼女にとっても唯一心を許せる話し相手なのだ。
この家に人は来ない、だから会話する相手もいない。
外に出ても挨拶程度で会話という会話はない、ご近所の中には井戸端会議なんてものもあるらしいがそもそもここは雑多のビル街、街ゆく人は目にするが主婦(主夫)が立ち止まって井戸端会議なんてそんなのんびりした雰囲気を醸し出してる場所でもないのだ。
「花が咲いてますね、見に行きましょう」
彼女は庭に咲く数本の花の側に行き静かに膝を折る。
「緑色の茎はツルツルしていて、ピンク色の花びらは少しザラザラしますね。黄色いこれは花粉でしょうか?ふふ」
彼女の笑い声に魂が反応する。
「いえ、命を繋ごうとして生きているのだと思いまして」
こうして彼女の中に居る魂達と会話しながら彼女の日常は過ぎていく。
「あっ、でも茎に産毛のようなものが生えてます、花は綺麗ですね」
疑問めいた感情が心の中を揺らした。
「摘みませんよ、これも命ですから」
その言葉に魂が反応する。
「命はこれだけではありません。私が今歩いてきた庭の地面にも小さな命があります、私が歩いたことで狩られた命もあったでしょう。命は軽いものではありません、大小で決めるものでもありません、しかし私達人間は簡単に命を奪える種族です、他人も己自身の命さえも」
彼女の中の魂が困惑したように迷いを感じさせた。
そして彼女は考える。彼はどうして死んでしまったのか、どう生きてきたのか、彼女は知りたいと思っていた。
だが今は聞けない、彼はまだ心を開いていないのだから。
だからこうして他愛もない話をするのだ。
彼女は自分の目に付いたものや感じたものなどを全て口にしていく、陽の光の温かさや身体を撫でる風の感じ方果てには大地の土の感触までも伝えるのだ。
魂は想像する、生前の事を。生きるのに必死だった、生きているだけで精一杯だった。彼女のようにほんの些細なことなど気にした事もなかった。
命がどうのと感じる余裕もないくらい辛く厳しい日々を生きるので精一杯だった。
だからこそ余計に腹が立った。
日々の生活に余裕があり、こんなにも穏やかに過ごす彼女が憎らしくも思えた。
魂は叫んだ!怒りに狂った!
彼女の中で暴れまくる魂は胸の中で憤りに似た感情をぶつけ始め狂い続ける。
「苦しいのですね」
彼女は優しく自身の胸に手を当て魂の怒りが静まるまでその場に立ち尽くした。
空は青から赤に変わる。夕刻の時刻を知らせる音が鳴りやがてその音は夕日の中に溶けていく。
魂には時間なんて関係ない。一日という日にちさえも魂には感じられない。ただ自分の意識がハッキリする感覚が分かるだけだ。それがいつなのか定かではない。
感情の高ぶりはさらに増していく。彼女の中の魂が何かに反応しているようだった。
辺りは薄暗くなっていき空には星が瞬き始め夕闇が幕を開けやがて夜がやってこようとしていた。それでも彼女の中の魂は怒りを鎮めない。さらに力が増すような感覚さえ覚え身体の中から出ようともがき暴れまくる。
「出られませんよ」
その言葉が気に障ったのか魂はさらに勢いを増す。
しかし何度もがこうとも彼女の身体から出る事は叶わなかった。
彼女の時間にしてあれから何時間経ったのだろう、雑多のビルの奥まった一軒家が夜の闇の中でポツンと佇んでいる。明かりも点いておらず家の周囲には人影さえも無くなっていた。
ただ家の庭先で少女が一人立っているのだ、胸に手を当てながら・・・
『今日はこれまでですね』
伏せていた目を開け彼女は静かに家の中に入って行く。
彼女の中の魂は反応を見せない事に飽きたのか、彼女から出られない事を諦めたのか一応静かになっていた。
シャワーを浴び濡れた髪の毛をタオルで拭う、そして台所で夕食の準備をし出来た食事をテーブルに持って行った。
「いただきます」
一人の夕食、いつもの事だ。だが彼女にとっては一人ではない。
「いつもありがとうございます、夕食のメニュー今日も素晴らしい出来ですね」
幾つかの魂が嬉しそうな感情を伝える。
「ふふ、貴方たちのお陰ですよ。でもこれは誰のアイデアですか?」
一つの魂が輝きを増す。
「そう、貴方なのですね、うんとても美味しいです。特に想像だけのアレンジでこんなにも旨味が増すなんて考えもつきませんでした、本当に凄いですね」
喜びに打ち震える魂は彼女の中で輝きをさらに増していった。
幾つかの魂も同じような喜びを感じているのか、彼女の心の中は賑やかな笑いに包まれていた。
本当は彼女には食事や睡眠などは必要としなかったが、魂達の生前を再現するためにあえて行っていた。それはこれまでここで生きてきた彼女なりの生き方だったのだ。
『そろそろこの子達ともお別れなんですね』
就寝するまでの間彼女は読書に明け暮れている。この読書は彼女の趣味ではない、彼女の中にある魂達が望んでいる事だ。だから彼女は毎日違う本を読み続けている。その為の本棚がズラリと並んでいる。
彼女の家には彼女にとって必要のない色々なモノが置かれていた、全ては魂を浄化するために必要なものばかりだ。
「今日はここまでにしましょう」
魂が少しざわついたが
「明日は少しお出掛けをするので、それにあの子の好きなテレビを夜は見ないといけないですからね」
時刻は0時を回っている。魂には時間は関係ないと言ったが彼女には睡眠も必要だ、そして時間にも左右される。人ではないかもしれない彼女だが人並みの生活は送っているのだ。
明かりを消し、布団にもぐる。
彼女は魂を身体に取り込み浄化をする者だが、彼女が全ての魂を管轄下に置いているのではなくある程度の会話が出来るようになれば他の魂と一緒にする事も出来る、そしてその他の自由も許している。だが彼女から出ようとする事は出来ず、乗っ取ることも出来ないそれだけは何をしてもダメなのだ。
彼女の寝息が聞こえきた。
魂達は各々話をしている。眠る彼女の中である者は彼女ともっと話がしたいと言ったり、ある者は彼女の力になれる事が嬉しいとか、ある者は彼女に反発しいつかここから出てやるなどと言う、だがほとんどの魂達は彼女の意に沿い安らかな眠りについている。そうしてそれぞれの考えや思惑をこれからも彼女と魂は一緒に過ごしてゆくのだ。こうしていつもの夜は更けていくのだった。