第4章「父の背に宿る影」
この章では、母の“雲”が薄れていく中で、父の背中に新たな影が現れる瞬間を描きます。
砂場でのおままごとという微笑ましいひとときと、その後に訪れる衝撃の対比が物語を大きく揺らします。
母の体調は、少しずつ安定してきていた。
朝、台所から包丁の音が聞こえる。以前はほとんど布団に伏せていた母が、最近では時折こうして料理を作る姿を見せる。
「……おはよう」
桜がリビングに顔を出すと、母・美咲が振り返って笑った。
「おはよう、桜。今日はいい天気ね」
その笑顔は、ほんの少し血色を帯びている。肩に漂っていた“雲”も、春の空に溶ける霞のように薄くなっていた。
父・大樹は、そんな美咲の横顔を見て安心したように頷いた。
「調子が良さそうで、よかった」
「ええ。桜のおかげかな」
美咲は、傍らで椅子によじ登ろうとする桜を見て笑った。
桜は小さな胸を張る。
(……すこしずつ、できてるんだ)
まだ幼い彼女の中に、使命感は確かに芽生えていた。
⸻
休日。
父に手を引かれて、公園の砂場に来た。
母は体調を整えるために家で休んでいる。父と桜だけの小さな冒険だ。
「さあ、今日は桜シェフに料理を作ってもらおうかな」
「うん!」
桜は両手で砂をすくい、小さなおにぎりを形作った。指先からさらさらと零れる砂を集めては、ぎゅっと握る。
「はい、どうぞ」
父の大きな掌に置かれた砂のおにぎりは、すぐに崩れてしまう。
だが父は、目を見開いて声を弾ませた。
「おおっ、これはうまそうだ!」
「ほんとに?」
「もちろん。……ぱくっ! んんっ、最高!」
大げさに頬を膨らませて食べる真似をする父に、桜は思わず笑った。
次はケーキ。小さなバケツに砂を詰めてひっくり返す。崩れそうな丸い山を指で撫でながら、桜は小さく呟いた。
「パパ、たべて」
「いただきます」
父は両手でその砂の山を掲げるふりをし、「うん、甘いなあ」と言った。
桜は声をあげて笑い、砂まみれの手をぱたぱたと振った。
周囲の親子も、その様子を見て微笑んでいる。
春の陽射しの中で、父と娘の笑い声は砂場の真ん中に温かい円を描いていた。
⸻
父はスコップで砂を山に盛り上げ、トンネルを掘った。
「ほら、向こうまで繋がったぞ」
「ほんとだ!」
小さな指がトンネルの中を通り抜ける。
砂の冷たさと、指先のくすぐったさに桜は笑った。
(パパは、つよいなぁ)
桜の心に素直な憧れが生まれる。
父は大きくて、優しくて、何でもできる。母を支え、桜を笑わせてくれる。
――だからこそ、その背に“雲”が見えてしまったとき、桜は息を飲んだ。
⸻
ふと、夕方の光が傾いた瞬間だった。
父がスコップを振るう背中。その肩から腰にかけて、黒い雲がまとわりついていた。
母に見えた薄い霞とは違う。もっと濃く、もっと重い。
夏の空に現れる積乱雲のように、ぐっと沈んだ影を落としている。
「……っ」
胸の奥が縮む。
(パパにも……ある)
恐怖と混乱で、喉がひゅっと詰まる。
それでも、桜の中に生まれた言葉はひとつだった。
(パパも……助けなきゃ)
⸻
砂を固める手が震えた。
胸の奥がずきりと痛む。
母の“雲”を吸い続けてきた体は、すでに小さな限界に近づいていた。
頭がふらりと揺れ、視界がにじむ。
「桜?」
父が気づいてしゃがみ込む。
「どうした、疲れたか?」
「……だいじょうぶ」
必死に笑顔を作る。
父の心配そうな目に気づきながら、桜は「平気」と繰り返した。
だが、背中の“雲”は確かにそこにあった。
消える気配はなく、むしろ夕闇とともに濃くなっていくように見えた。
⸻
その夜。
布団の中で、桜は天井を見つめていた。
母の寝息が隣で穏やかに響いている。
その音に安心しながらも、心は揺れていた。
(おかあさんだけじゃない……パパも……)
(わたしが、やらなきゃ)
小さな手を胸の上で握りしめる。
幼い体には重すぎる決意。
けれど、逃げることはできなかった。
目頭が熱くなり、涙が枕を濡らす。
桜は強く目を閉じた。
――私は、やる。
それは幼い心に刻まれた、揺るぎない誓いだった。
母の影が薄れ、安堵の時間が訪れた直後に、桜は父の背中に濃い“雲”を見てしまいました。
笑い合うひとときのすぐ裏で、使命はさらに重くのしかかります。
次章では、小学校入学という新たな始まりと、家族それぞれの小さな夢が描かれます。




