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第2章「影を吸う小さな手」

この章では、2歳を迎えた桜が初めて“もや”を吸収する瞬間を描きます。

母の体を蝕んでいた影は、桜の小さな指を通して移り始めます。

幼い子どもの決意が、物語を大きく動かし始める章です。

 桜が二歳になった頃、家の中は少しずつ笑いが増えていた。

 母・美咲は相変わらず体が弱く、日によっては布団から起き上がるのも大変そうだったが、それでも以前より顔色は良くなっていた。父・大樹は仕事から帰ると、桜を高い高いして笑わせ、時には母の代わりに食事を作ろうと四苦八苦していた。


 桜は言葉を少しずつ覚え、絵本のページをめくりながら「これは?」と母に尋ねるのが日課になっていた。

「これはね……うさぎ」

「うさぎ!」

 母の声を真似して桜が答えると、美咲は小さく咳き込み、それから微笑んで頭を撫でてくれる。その笑顔は春の日差しのように柔らかい。


 けれど、桜にはその後ろに見えるものがあった。

 ――黒いもや。


 それは雲のようだった。空に浮かぶ灰色の塊が縮んで、人の体にまとわりついているように見える。美咲の肩や背中に、薄く濃く、日によって形を変えながら漂っていた。

 晴れた日の雲のように薄いときは、美咲の顔色も明るい。けれど、濃く重くなる日は、美咲は寝込んでしまう。

(……これがお母さんを苦しめてるんだ)

 桜は言葉にはできなくても、幼い心でそう理解していた。



 ある夜のこと。

 父が残業で遅く、家の中は母と桜だけ。

 夕食を終え、母が片付けようとしたそのとき、激しい咳が込み上げ、美咲は胸を押さえて膝をついた。


「はぁ、はぁ……っ」


 肩が大きく上下し、呼吸が苦しそうに乱れる。

 桜は驚き、泣きそうになりながらも母に駆け寄った。


「おかあさん……!」


 その瞬間、桜は本能のように母の手を握った。小さな掌で、母の指をぎゅっと包み込む。


 すると――見えた。

 母を覆っていたもやが、まるで風に吹かれた雲のように揺れ、桜の手へと流れ込んでいく。

 黒い靄が糸を引きながら、桜の細い腕を通って胸の奥に吸い込まれていく。


「……っ!」


 胸が熱い。焼けるように苦しい。

 体の奥がどくどくと脈打ち、息が詰まり、涙が勝手にあふれてくる。


「うああ……っ!」


 泣き出しながらも、桜は手を離さなかった。母の指を握る力は、小さな手に似合わず強かった。


 やがて、母の呼吸が少しずつ落ち着いていった。

 咳が収まり、顔色に血の気が戻り、荒い息が静かになっていく。


「……桜?」

 美咲が驚いたように娘を見下ろす。

 桜は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、必死に母の手を握っていた。


 何が起きたのか、美咲には分からない。

 けれど確かに、胸を締めつけていた苦しさは和らいでいた。



 その夜、父が帰宅したとき、美咲は不思議そうに呟いた。

「さっきまで、本当に息が苦しかったのに……桜が手を握ってくれたら、楽になったの」

「そんなことが……」

 大樹は半信半疑ながらも、眠る娘の額に手を置いた。桜の体は少し熱を帯びていた。

「……大丈夫か? 熱があるみたいだ」

「でも、ぐっすり眠ってる」

 二人は顔を見合わせ、不安と安心の入り混じった笑みを浮かべた。



 桜は夢を見ていた。

 夢の中で、神社の大きな桜の木が夜空にそびえていた。

 その下に、神様が立っている。


「……やったな」

 神様は静かに微笑む。

「おまえはもう役目を果たし始めた。母のもやを背負ったのだ」


 桜はまだ幼い。言葉もうまく使えない。

 けれど、胸に宿った熱と重さで理解していた。


「……わたしが、やる」


 小さな声で呟く。

 神様は頷き、夜風のように消えていった。


 目を覚ました桜は、熱で頬を赤くしながらも、母の顔を見て微笑んだ。

「……おかあさん、だいじょうぶ」


 美咲は驚き、そして涙をこぼした。

 娘の小さな手が、確かに自分を救っている。

 そのことを、このとき初めて感じ取った。

初めて“もや”を吸収した桜。

幼い体に流れ込む重さと痛みは大きな代償ですが、母の体が少しでも楽になるなら、彼女は迷いませんでした。

小さな手に託された使命が、これからの七年を静かに刻み始めます。

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