あの桜以上に
あの桜以上に美しい桜を、俺は見たことがない
妻と子供をつれて近所の公園に来た俺は、白い粉を塗したようなソメイヨシノの花が作る屋根の下で、その隙間から見える青空を眺めている。
県内有数の桜の名所であるこの公園は観桜の季節になると数多の屋台が建ち並び、渓谷を流れる濁流のような観光客が、その隙間を止め処なく流れ続けている。
立ち止まる事は許されず、流れに任せて転がり続ける石のように河口へと押し出される。しかしたどり着いたのは砂浜ではなく、新緑が敷き詰められた公園の端の広場だった。
数十組のグループが広場を囲うように植えられた桜の下にレジャーシートを敷き、屋台で買った食べ物を広げている。
子供を抱いたまま歩き続けた事による発熱と、春の陽気をまどろっこしいと跳ね除ける場違いに強気な太陽からの射光によって、俺のこめかみからは不快な汗の粒が滴り落ちる。
誰かが飲むビールのカップに羨ましさを感じながら、空いている桜の木の下にレジャーシートを広げて腰を下ろした。
あの桜以上に美しい桜を、俺は見たことがない。
ソメイヨシノと青空のコントラストを見上げながらも、別段心が動かされない自分にほんの少し落胆した。
一度あの桜の美しさを見てしまったら、もう二度と桜の美しさに感動する事は出来ないのかもしれない。美しいものを美しいと、美味しいものを美味しいと、幸せを幸せと感じられない事は、恐らく何よりも不幸せな事だと思う。
感動にもドラックのような中毒性があって、際限なく今以上を常に望んでしまうものなのだとしたら、あの最上に美しい桜を見られた事は果たして喜ぶべきことなのだろうか。
俺は目の前の桜から空へと視線を移し、記憶の中のあの桜を咲かせようとする。
花見に行こう、仕事から帰った父がそう言って、小学生だった僕と妹は首を傾げる。
近所の城跡に桜が咲いている事は知っていたが、桜を見に行ってどうするというのだろうか。それに外は既に日が傾きかけている。真っ暗になってしまえば桜の花など見えるはずもないし、僕はそれよりも夜7時からやるアニメの方が気になっていた。
子供の僕にとって一日は日の出と共に始まり日の入りと共に終わるもので、世の中の全てがそうであると信じていた。日が落ちてからの外の世界は闇の一色で、夜に鳴く虫以外は全ての活動が休止しているものだと考えていた。
僕は怪訝な顔で母の表情を伺う。母が微笑みながら頷いたため、父がおかしな事を言っているわけではないと何となく理解できた。
僕たち4人は父の運転で近所の城跡へと向かう。
そこで僕は、この世界の別の一面を見た気がした。
日が落ちても眠らない、空から落ちてくる夜を両手で受け止め押し戻すような、そんな力強い光と、声と、人の息遣いを見た気がした。
普段車を停める駐車場には提灯が吊り下げられ、舗道によって並んだそれはファンタジーの世界に出てくる道しるべの明かりのように坂の上まで続いていた。
道の両側には桜。赤みを帯びたちょうちんの明かりに彩られ、火の粉が空に浮いているように見える。風で花びらが揺れるたびに陰影によって火の粉もまた揺らぎ、一瞬一瞬が別々の絵画のように様相を変えていく。
妖精に道案内されるかのような気分で僕は坂を上った。後を追う両親や妹を待つのももどかしく、僕は坂道を駆け上った。
坂道は広場まで続いている。
そこに辿り着いた時、僕は全力で地面をけっていた足を止めた。足を止めるほかなかった。
吐く息が熱い。
一瞬外界の音が途切れ、自分の呼吸音が大きく聞こえる。それは僕が今、夢の世界の前に立っているからだ。僕はそう確信した。
広場は桜で囲われていた。
桜の花びらがちょうちんの明かりを反射し、美しくも巨大な壁のようにそびえている。
その光景を少ない経験の中なら何かに例えようとして、絵本で読んだお城のダンスホールの様子が思い浮かんだ。豪奢な壁の中を闊歩する人々の姿はまるでダンスを踊っているように見えなくもない。
しかし、それだけではこの場所の全てを自分の中に落としこむ事は出来ないと感じた。
この場所は王様のお城のように豪華さ、明るさ、鮮やかさだけを詰め込んだだけでない。そびえ立つ壁の鮮やかさと対極的に、落ち着いた夜空の黒もまた、この場所を形作るピースの一つとして不可欠だった。
両親と妹が屋台で焼きそばを買い、持参したレジャーシートに座る。
桜の木の下で食べる焼きそばに桜の花びらが1枚添えられた。
僕は妹の手を引き、広場の周りを駆け回った。走るたびに、角度を変えるたびに、その桜たちは様々な絵を見せてくれる。その全てを見てやろうと、僕はただひたすらに走り続けた。
やがて疲れ果てた僕はレジャーシートに倒れこんだ。
桜の天井を見上げる。
黒い背景に光に彩られた桜の枝が走っている。
何故だか分からないけど、僕の目から涙が溢れてきた。
美しいものを見て、感動の涙を流す、そんな事が本当にあるのだと僕はそのとき初めて知った。
涙で視界がぼやける。
ぼやけた桜はまるで天の川だ。
白い綺麗な石が敷き詰められ、波打つ泡が光り輝いている美しい河川が、暗い夜空に流れている。
こんな美しいものがあったんだ。
僕はこの世界の美しいもののうち、最も価値のある一つを見たような気がした。
思い出のあの桜と比べて、今の目の前にあるこの桜の何が劣っているのか、俺には上手く説明できない。
しかしあの時覚えた感動は、残念ながらこの胸に沸き起こらなかった。ましてや涙が流れる事など、あれから今まで一度としてない。
疲労感と、大勢の他人の中にいる不快感と、帰りの渋滞への倦怠感と、翌日の仕事に対する不安感とが蛇のように首をもたげ、俺の感情の蓋にまきついている。
ため息がこぼれそうになり、ふと息子を見る。
まだ幼い息子が一言も声を出さずに、ただじっと風に揺れる桜を見上げていた。
一陣の風が花から花びらを剥ぎ取り俺たちの周りにばら撒く。
ぼたん雪のように降りそそぐそれを、息子は口を半開きにしながら一生懸命目で追っている。
俺があの時見たような桜を、今息子は見ているのかもしれない。
ふと、そんな事に気が付いた。
今の俺は、感動をありのままに享受できるような、汚れない綺麗な両手ではなくなってしまった。触れるたびにどうしても濁った手垢が付着し、本来の輝きを損なってしまう。
しかし無垢な息子の目を通してみたこの桜は、いつまでも記憶の中に咲き続ける。そして俺の見たあの桜もまた、記憶の中で咲き続ける。
それでいいような気がした。
「桜、綺麗だな」俺はそう語りかける。
一瞬きょとんとした様子で俺を見た息子は、再び桜に目を移し
「うん、さくら、きえい」と答えた。