3 再び現在
「・・・少し騒がしくなってきたね」
僕は話を切って辺りを見回した。
さっきまで人がいなかった店内が少しだけ騒がしくなってきた。時刻は17時過ぎくらいだろうか。客のほとんどは高校生だ。皆、適当に飲み物や料理を注文しておしゃべりを楽しんでいる。
てっきり、流行ってない店だと思っていたのに誤算だった。
「場所を変えましょうか」
シズクが言った。僕も同意して席を立った。
外は日も落ち始め、少し肌寒かった。六月というのはとても中世半端な季節だ。春でもないし、夏でもない。昨日まで暑かったと思えば、翌日はいきなり寒くなったりもする。1日の間でも気温はころころ変わるし、服装の調節が大変だ。
キャミソールにタンクトップ、その上に薄手のカーディガンを羽織っただけのシズクは少し寒そうにしていた。僕は自分の着ていた長袖のシャツを脱いで彼女に着せようかと考えたが止めた。今の僕にそんな資格があると思えなかったからだ。
しばらく、二人は無言で歩いた。
どこへ向かってるのか、どちらもわかっていなかった。ただ、立ち止まるわけには行かないから街の雑踏を、微妙な距離を保ったまま歩いていった。
5分ほど歩くと運良く、誰もいなくて静かな場所を見つけることができた。
そこは小さな公園だった。あるものは、木と錆びたブランコと古びたベンチだけ。隣にはテニスコートがある。そこのベンチのに並んで座る。相変わらず微妙な距離を保ったまま。
最初に口を開いたのは僕だった。
「さてと、じゃあ続きを話そうか」
「待って」と、シズクが僕の言葉をさえぎった。そして続ける。
「その前に一つだけ教えて。ここまでの話でわかったことは、あなたにはユウキっていう友達がいること」
「うん」
「そして、あなたは私にその名を語っていた。私がこの二年間ユウキって呼んでいたあなたの、本当の名前は何なの?それだけ教えて」
真摯な表情。それだけ不安なのだろうと僕は思った。それはそうだろう。恋人の名前が偽名だったのだから。
「僕の名前か。もう今さらだから言ってもいいけど、もう知ってるんじゃないのか?僕の免許書見たんだろ?」
そう、それが僕の犯した失敗だった。たまたまシズクに免許書を見られてしまったのだ。
さすがに免許書まで偽名にすることはできない。そして全てはそこから崩れ始めた。全く、僕も詰めが甘い。つくづくそう思う。
「確かに免許書を見たけどすぐあなたに取られたからよく見えなかったし、何より難しい漢字で名前が読めなかったわ」
「ああ、確かに僕の名前の読みは難しいね。なんせ父親が一目で見ても読めない名前ってことをコンセプトに名付けたものだからね。父が言うには難しい漢字の名前は一度覚えさせればなかなか忘れないものらしい。確かにそうかもしれないけど、名前を間違えられる度に訂正しなきゃいけない息子の苦労も少しは考えて欲しかったよ」
「・・・なんか、話をはぐらかそうとしてない?」
不信感もあらわに僕を睨んだ。
どうやらシズクの中で僕の誠実さの株は大暴落しているようだ。まぁ、無理もないか。
僕はあわてて言い繕う。
「爽熙。僕の名前はサキって言うんだ。爽やかに喜び楽しむって意味らしい。まぁ理由なんて後付で、ただ読めなさそうなのを考えただけだろうけどね。爽熙って書いてサキと読める人なんて稀だよ」
空中に指で文字を書きながら必死に説明する。
なんとか納得してくれたのか表情の険は少し薄れた。
「サキかぁ・・・」
何か噛み締めるようにつぶやくシズク。
「いい名前じゃない。確かにあなたって『ユウキ』より『サキ』って感じがするわ。・・・サキ。サキくん。サキさん。サキちゃん。サキっち。サキリン。うーん、やっぱ、サキが一番しっくり来るわね」
しみじみとつぶやく。
その表情はカフェにいた時のそれとは違い、落ち着いたものだった。それを見て、僕は理解した。
もう、シズクは覚悟を決めている。諦めている、と言った方が正しいかもしれない。おそらく僕と別れるつもりだろう。
彼女は芯の強い女性だ。思ったことを変えることはきっとしないだろう。
僕らは今日終わる。そう思うと悲しみが心の奥底から湧き出てきて胸が痛くなった。心臓は早鐘のように波打つし、のどはカラカラだ。
でも、それも仕方がない。僕はそれだけの仕打ちを彼女にしてしまったんのだから。もし、僕と彼女の立場が逆だったとしたら僕もやっぱり深く傷付いたかもしれない。
「話を続けるよ」
これは儀式なのかもしれない。僕たちが別れるための。