第五話 さようなら
午後の授業は身にならない。
退屈だからという理由じゃなくて、ご飯を食べたあとは、頭がぼーっと、するせいだ。春のうららかな昼下りになると、なお眠い。睡魔という悪魔が、わたしの意識を安らぎに誘って、必死に抵抗することに心血を注いでいる。
うと、うと、うと、うと、眠っていないけど、脳みそが動いてくれない。落ちているのに、浮いている、まどろみの中。一瞬意識を失うと、かくっとなって、すぐ目が覚める。
午後はこれの繰り返し。窓際だからダメなんだ。やわらかな太陽のベールが、わたしを包んでしまうから、眠いんだ。なんとか、午後の授業が終わると、不思議と目が冴える。ここからが、本番だって気持ちになる。
わたしは部活に入っていないから、午後からは比較的自由なのだけど、あいにく、A子は家庭の事情で帰って家事をしないといけないから、遊べなくて、B子もまた、家庭の事情から塾に通っているので、同様に。
こういうとき、彼氏がいれば、楽しいのだろうなって思うことがある。
なにが楽しいのか、実際のところわからないのだけど。
周りが楽しそうだから、楽しいのだろうって、安直な理由で思う。
もう一年くらい前になるけど、わたしにも彼氏がいた時期が三ヵ月ほどだけどあったのだ。何で付き合うことになったのか、長くはならないけど、説明しない。とにかく付き合うことになった。
付き合いはじめて、一週間くらいは、心が浮足立って、こういう感覚が、薬をやっている感覚なのかなって感じだった。別に付き合う前と、ほとんど変わることはなかったけど、気持ちの持ちようはやっぱり違う。
デートもしたことがある。
女子友達と遊ぶ感じとは、似ているようで非なるものだった。女子は共感の生き物で、男子は解決の生き物だって、なにかで聞いたことがあるけど、本当にそうだって思った。
男子とは、とにかく話しが続かない。人にもよるだろうけどさ。
どうにかこうにか、何度かデートを重ねると、やっぱり、そうなったら、思春期なのだから、いや、思春期じゃなくとも、彼だってあれに興味がないわけがなくて、そういう雰囲気とか、考えていることとかひしひしと感じられたのだ。
デートの回数を重ねるごとに、強く、濃く、ねっとりと。
「今日、家族いないんだけど、おれんち来ない」っていわれた。
その言葉の裏に込められた、真意はわかっていた。
わからないほど純心じゃないし、天然じゃないし、鈍感じゃないし、乙女でもないし、そういうものへの興味もあったから。
それが健全なのだ。
けど、なんだか、気持ち悪いと思ってしまう自分もいて、自意識過剰だといわれるかもしれないけど、街を歩いていたり、電車とか、バスとか、いたるところで、ねっとりとした男性の視線を感じて、気持ち悪いと思うのだ。
そういう目でしか、見られていない、って思って、どっちが気持ち悪いんだって感じもする。わたしじゃないか。穢れているものの方が、綺麗だ。
気持ち悪いと思うのに、同時に、矛盾しているけど、悪い気がしないでもない、かもしれない、感じがあって、自分に軽蔑することもある。
見られていること、求められていることに、優越感のようなものを感じる。つまりは、必要とされているということで、どんな理由にしろ、自分の存在を根本から肯定されているみたいな、心持なのだ。
生きている限り、性的なものと、わたしたちは離れられないのでしょう。性なるものに、一生涯振り回されるのだ。
だから、わたしたちは命を繋げて、生きていける、ということだって、当時のわたしもわかってはいたけれど、潔癖で、彼の誘いをはぐらかして、はぐらかして、はぐらかして、逃げてる感じになって、なんだかうまくいかなくなって、自然消滅的に別れてしまった。
やってしまえば、なにかが変わってしまう気がした。
もう、戻ってこられないという、恐怖。取り返しのつかない、ぼんやりした不安があった。わたしは間違っていたのかもしれない。
生活に困ったり、いろいろな理由で、嫌でも仕方なく体を売る人が大勢いて、わたしは恵まれているから、甘えているのだ。綺麗なままでいたいなんて、少女漫画の乙女のようで、バカみたい。
そんな綺麗な人間なんて、いるわけないのに。やってる子は、とっかえひっかえやっているのに、べつに減るもんじゃないのに、わたしはお高く留まっているのだ。
綺麗なものを、ぐちゃぐちゃに穢してしまえばいい。
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
そうだ。みんな、堕落しちゃえばいい。
みんな、穢れればいい。取り返しのつかない、体になっちゃえばいい。穢れた先にはきっと、とっても綺麗なものがある。穢れるには、勇気がいるんだ。
彼が喜んでくれるなら、やらせやるべきだったのだと、今は思ったり、悩んだりしている。わたしには、勇気がなかった。もう、済んでしまったことだけど。
彼には、新しい彼女ができているし、もう、わたしは必要じゃない。
月桂樹にでもなればいい。
そういうことがあってからは、午後はすることもなくて、今のわたしはフリーなので、去年から、喫茶店でバイトをはじめた。
学校が終わると、そのまま、電車に乗って、街に出て、全国チェーン店の喫茶店に向かう。お客様から、注文を聴いて、食事を運んで、会計とかをする。
人が入れ代わり立ち代わり、流れて、結構忙しい。
喫茶店ということもあって、おもに、ビジネスマンとか、学生が多いのだけど、性別年代問わず、色々なお客様もきて、その人たちを観察するのが楽しかった。
家族客に、中高生、ビジネスマン、カップル、おじいちゃんにおばあちゃん、ちょっと怪しい人たちも来る。
中には、いわゆるクレーマーと呼ばれる部類の人たちもいるけど、滅多にいない。そんな人たちを観察していると、色々な人たちがいるんだな~、って未知との遭遇をした気持ちになる。
この人たちは、どんな人生を歩んできて、今ここにいて、これからどうなるのか。世界には何十億って人がいて、みんな似ているようで、まったく似ていない。
そんな人たちが、運命とかいうもののめぐり合わせて、今こうしてここにいて、出会っては、別れて、一期一会を繰り返す。もう、出会えない人々。赤の他人。無関係な人々。
鏡の中の自分みたいに、他人。
まるで機械のよう。切なくなる。
決められたルールに従って動いているみたいに見える。
ビルの上層階から、街を見下ろすと、コンピューターのCPUみたいに見える。規則正しい秩序に従って動く人々、廻る都市。すべてが機械的だ。人間は小さな小さな、電子の粒。
あるいは、行列を作るありんこ。
女王アリのために、せっせと砂糖を運ぶ、人間って、虫。
そんな無力で、無抵抗なアリの通路を、巨大な石で塞いだり、アリを踏み潰したりしたくなることがある。規則正しい秩序があると、秩序を乱したい。反抗的、子供の暴力性。
あるアニメ映画の悪役が、いったセリフを思い出す。
なんて酷いセリフだろうって思うけど、「本当にそう」って思う自分がいる。アリを踏み潰すみたいな、無害な凶暴性。
幼い子供は無垢で、わがままで、乱暴で、暴力的で、本能のままに行動する。人間そのもののように見える。
昔、わたしが小学校低学年くらいのとき、近所に住む男子が、蛙を踏み潰す遊びをやっていた。道路の横の溝や、水路にいる小さなアマガエルを、その子は楽しそうに、ぐちゅぐちゅって、踏んで、すり潰していた。
蛙の肉と血が、コンクリートに練り込まれる。
一緒に遊んでいた、友達たちは「気持ちわり~」とか「いやだ~……」とか「かわいそうだろ」とかいっていたけど、みんな楽しそうに笑っている。その中に、わたしも含まれていた。
「やめろよ~」と誰かがいっても、本当に蛙を潰すのを、やめろといっているわけじゃない。その言葉には、「もっとやれ」って意味が少なからず含まれていた。
ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ、路地中に、蛙の潰れた肉片が、練り込まれた。まるで車で蛙をひき殺してしまうみたいに、殺意のない殺戮。
罪悪感もなにもない、無垢な顔で、小さな命を遊び奪う天使。
もし、天使がいるなら、あの子みたいな無垢な子が、そうなのだろうと思った。
いま思い返すと、なんて酷いことだったのだろう。
アリだって、ミジンコだって、どんな動物だって、必死に生きているのに。生きようって、頑張っているのに。食べるためとか、そんな理由じゃなくて、不条理な不可抗力で、命を奪って。
そう思うと、虫を殺せなくなった。ゴキブリだろうと、害虫だろうと、ネズミのような害獣だろうと、殺せなくなった。きっと、わたしが恵まれていて、幸せで、困ることがないから、命の危機とか、人生観が変わることを経験したことがないから、そんな甘いことがいえるんだ。
自分で動物を殺さなくても、肉が食べられるから、みんな生きているとか、命は大切だとか、綺麗ごとがいえるんだ。
自分で殺さなければ、美味しいものが、食べられない世界になったら、そんな綺麗ごとなんて絶対いえないと思う。
やらなければ、やられる、世界のどこかで、今もある、真の現実。その世界には、神様がいて、とっても世界は綺麗なんだ。ここは、外部から守られた箱庭の楽園。フィクション。
わたしは、よだかにはなれない――。