15-1:とある少年の生涯 上
とある時代、とある場所に一人の少年がいた。彼にはいくつかの非凡な才能があったものの、生まれはいたって平凡であった。
交友関係においても、少なくとも学生の内は人並みであった。思春期において特別な友人関係を結べた訳でもないが、同時に誰かから後ろ指を刺されるようなことも無かった。もちろん子供特有の残虐さの的になることが無かったとは言えないが、それを体験しない者の方が稀であるレベルの巻き込まれ方である。そう言った意味でも、少年は特別に幸運であったと言えないまでも、同時に不幸な存在ではなかった。
そういった意味において、少年は恵まれていたと言っていいだろう。特別に幸福だったとは言い難いとは言えども、不幸などと言っては贅沢が過ぎる程度ではあったからだ。しかし、主観的にはそのようには認識していなかった。確かに他者と比べて自身がまだ恵まれた存在であることは自覚こそしていたものの、少年はそれでも自らの生を幸福なものとはどうしても考えられなかったからである。
自身が他者と比較した場合においてそう不幸でないと判定されるのは、そうなるように努力と苦心をし続けていたからだ。常識というコントロール不可能な前提には従い、世間体や社会通念とかいうものに則って勉学を行い、他人に馬鹿にされない程度に良い成績を修め、コミュニティから外されないようにおべっかを並べて、付き合いたくもない我儘な他人に振り回される――確かに時に楽しい時や嬉しい時がなかったとも言えなくもないが、所謂いっぱしとして生きるために腐心を続ける努力量を考えれば、その幸福量は総じてマイナスになる。これを贅沢ととらえる人もいるかもしれないが、少なくとも少年は自身が幸福とは思えなかった。
もちろん、こんなことを考えたのは彼が初めてではなかっただろう。彼だけが苦しみの原罪を背負っているわけでもあるまいし、そのことを彼自身も認識していた。しかし同時に、特別に不幸でないという点から言っても、少年はある意味では自らに失望していた。もし生来の何某かが原因で不幸であったのならば、それはそれで世を恨む権利がある。特別に不幸でないということは、世を恨むという権利を剥奪されているような無力感を味わうことになったのだから。
とくに少年が心を痛めたのは他者の存在だった。そもそも、不幸には概ね他者が介在する。もちろん、孤独であればこそ満たされないものもあるだろうし、そもそも関係性以外に発生する自然災害や病理などの困難だってある。だが、一人で生きていくことに関しては痛みや苦しみが隣り合わせにあるだけであり、快か不快かが存在するだけである。
それに対し、他者というものは自分に対して様々なものを突きつけてくる。単純にこちらに対する欲求――何かをして欲しいだとかいう厄介ごとを持ち込んでくることもあれば、心をキチンと読まなければ不機嫌を返されたりする。そうでなくとも、他者とはそこに存在するだけで自分との差異をまざまざと突きつけてくる。自分よりも賢い者、身体的に優れる者、徳の優れる者、美しい者など――そんなものは長所の一側面にしかすぎないし、「人それぞれ」で済む問題と分かっていても、自身より優れている者を見てそのすべてを単純に受け入れられるほど、少年の器は大きくなかった。
結局、多様性を認めようなどという動きは、優れた者に対するルサンチマンに過ぎない。最上でない者が自らを慰めるために独自性という名の冠を被り、最上でなくても良いのだと自らを慰めるための方便だ。ローザを見ろ、差別なき世界を目指した彼女は、結局は劣等感にまみれた存在であり、アンドロイドたちを従えるようになってその残虐さを剥き出しにしていったじゃないか。人の本性とは、つまりはアレなのだ。
アナタが居てくれてよかったとか、アナタが好きだとか、そんなおべっかを聞かされたことだってある。ただそれは、それを言う者の周囲において、少年という存在が幾分かマシであるというだけ。もしその場にいるのが自分より優れたものが居たとすれば、その者は今よりも大きな満足を得るに違いない。
たとえば、組織においてある仕事を任されたとする。その業務において自身が現状の組織内で最も優れた能力を持っており、一定の成果を上げて評価されたとしても、組織外には自分よりも優れた能力を持った者が居り、その者が合流するとなれば、自分という存在はお払い箱になる。
要するに、誰かの隣にいるのは自分である必然性など全くない訳だ。自分という存在は同じくらいの能力を持つ者がいれば簡単に代替される程度の存在であり、自分以上の存在が出現すれば必ず不要になる。自分は永久に誰かの最高になることなどできない。絶対に超えることのできない壁がある――それが少年にとっては確かな絶望だった。
確かに少年には一部において優れた才覚があった。とくにハッキングの腕に関しては右に出る者がなく、そう言った意味では突き詰めた才能が一つは存在したのであり、そこにおいては誰よりも求められるという可能性は秘めていた。だが同時に――海と月の塔でアラン・スミスに指摘されたことが少年にとっては非情にクリティカルであったのだ。
少年は実際に、旧世界において当時の世界最高の権力者にその能力を認められた。しかし同時に、少年は自身の人間性の低俗さを見透かされて、失望されることを恐れた。人というのは総合で決まる。たった一つの突き抜けた才覚があってすら、他の要素が未熟であるのならば、人は簡単に他人から失望されうる。とくにデイビット・クラークが求めたのは、揺るぐことない自己をもつ強い意志であり、ちょっとした風にすらに自己を簡単に揺るがしうる弱き葦など、必ず彼を失望させてしまうだろうと少年は考えていた。
こんなことを言い始めたら、他者から求められる人間というのは、全ての能力において最高に優れていなければならないことになる。そんな人間など存在しえないことは、少年は十二分に承知していた。そもそも、人の能力というのは相対的な面も持ちうる――性格がその最たる例かもしれない。物静かな人間が好まれるケースもあれば、雄弁なものが好まれるケースもある。相対的な要素を持ちうる人間が全てにおいて最高ということはあり得ないのであるし、それを鑑みれば別段すべてが優れている必要がある訳ではないというのが道理だろう。
反対に、仮にすべての要素が抜群に優れていることが求められなかったとしても、それは弱さの肯定にはならない。もちろん弱さも相対的なものであり、ちょっとした欠点は親しみやすさに繋がるとか、可愛らしさにつながるとか、場合によってはプラスにも働きうるのだが――それでも少年は次のように考えていた。常に世間を冷笑的に見ている自分の性根の低俗さは、絶対に人から愛されるものでないと。魂のレベルで優れた徳を持っていない自分は、いつか必ず他者に失望される。それがどうしても恐ろしく耐えがたいものであり、それ故に少年は誰かと深い関係になることを避けていた。深い関係性にさえならなければ、失望されて見放されてしまった時の心理的なダメージを最小限に抑えることができるためだ。
さんざん御託をならべた上で――時には責任の所在を他者に押し付けてしまったが――言えることは、要するに少年は他者から失望されることを何よりも恐れていた。隣にいるのがアナタでなければ良かったのにと言われるのが何よりも恐ろしく、それ故に周囲の人間のご機嫌を伺い、可能な限りの善意を振りまいた裏で疲弊を繰り返す。だが、それだけ他者に奉公したとしても、自分という人間は何者かに代替されうる。その理不尽さ、不条理さ、筆舌し難い無力感に、少年は常に腐心と苦心を繰り返し続けた。
もちろん、このような悩みも彼特有のものとも言えないだろう。クラークのような超人を除けば、心に占める割合が変わるだけで、彼の悩みは万人が持っている悩みとも言える。ただ、少年がそこに対して過剰に敏感であったというだけに過ぎない。だが同時に、これは人という種が何万年かけても克服しえなかった不幸の源泉とも言えるのではないか。
言語、宗教、科学と革命を起こしてきた人類は、確かに原初と比較して比べ物にならないほど進歩してきた。旧世界においては、人は古代の小さな群れであった時と比較して、飢えや病で死んでしまう確率はかなり下がった。武器も発達し、簡単に人を殺めてしまうことができるようになったとしても、その他の技術のおかげで世界的な死亡率は下がっていたのも確かだ。しかしそれでもなお、他者を介在させる不幸というものを、人は終ぞ克服することはできなかった。
そんな世の在り方に絶望した時――それはモノリスの真理に触れる前のことであったが――少年は洋の東西を問わずに思想を漁ることもあった。片や世の無常観を説き、片や論理的に真理へと近づこうという差異はあれど、最後に哲学者が語るのは社会の在り方であるとか、人としての幸福についてであった。
そして不思議なことに、それらの思想の多くは、世の在り方を否定的に論じている時は理路整然としていて雄弁であるのに対し、いざ幸福について語る時には結局は生まれ持った道徳だとか人の善性であるとか、抽象的な概念に帰結する。それは結局、不幸とは人の本質であり論理的に語り得るのに対し、幸せなどというものは存在しないという裏返しのようでもあった。




