14-11:旧世界のローザ・オールディスについて 中
レムから明かされたことは、ひとまずローザの略歴ではなく、彼女との出会いに関する事であった。ローザはアルファ社で右も左もわからなかった晴子のことを気にかけて積極的なサポートをしてくれていたらしい。
当時のアルファ社は、デイビット・クラークの哲学が――ある種洗脳と言い換えても良いかもしれない――もっとも浸透していた部門でもある。知的で論理的で、自らの道を自分で切り開けるだけの努力と才能を持つ者が歓迎される、働いた経験のない晴子がそんな土壌の中に入れられても、上手くいかないのは火を見るよりも明らかだ。
右京としては、前提とする知識がより少ない部門を選んだということらしいが――確かに機械工学に関して高い専門性が無ければダイナミクス・モーターズやアシモフ・ロボテクスカンパニーに入社することは難しいし、医学知識が無ければならないパラソル社も同様――風土としては最も晴子の性に合わない企業に入らざるを得なかったということになる。
そんな中、晴子の背景を理解し、粘り強く仕事を教えてくれたのがローザだったという。今のルーナという人格を知っていると意外だが、彼女はクラークの提唱する歪んだ優性思想に染まることもなかったということらしい。
『彼女は自分の理想を実現するために、学術機関でなく実践の場を選んだんです。その理想とは、人類の真の平等の追求でした』
旧世界における人権意識は、とくに世界が終わる二世紀前からかなりの前進を見せ、法の下の平等というものが各国の憲法に記載された。とはいえ、古くからの因習は依然残ったままであり――性差、出自、経歴、能力、性向などによる差別は続いていた。
そして旧世界の崩壊から一世紀前にもなると、インターネットの発達に伴い、個人が平等を声高に発信できる世の中になってくるのだが――その先に待ち受けていたのは、「行き過ぎた平等」を求める声だった。
もちろん、因習レベルでの差別を乗り越えるためには、強い発言も必要だった部分があるのは間違いないだろう。権利を勝ち取る歴史というのは、正義や公共のために行われるのではなく、自己保身のために行われる。そういう意味ではあるポジションの者が自分が生きやすくするために社会に対して権利を叫ぶこと自体は問題ないとも言える。
とはいえ、ネット時代に行われる過激な人権活動は、数多くの感情論や詭弁の中に、本質的な活動が埋もれてしまった部分もあるだろう。どちらかと言えば、社会や他者に対して何か不満がある者が、平等という名のもとに他者の足を引っ張る発言が多くあった部分も否定はできない――それはデイビット・クラークが「強者の足を引っ張るだけの弱者」と切り捨て、忌み嫌った者たちのことを指す。
『……アランさんは、人が真に平等になることはあり得ると思いますか?』
唐突にレムが自分にそう質問してきた。こちらはレムの声をラジオ代わりにして筆が乗り始めていたので、出し抜けな質問に少し意表を突かれて思わず手が止まり――しかし人が持つ究極の命題の一つに少し考えを巡らせてみることにする。
「難しいな……ルール上では平等であるべきだと思うんだが、結局行き過ぎた平等に関する論点や争点って個人レベルの身体的、または精神的な違いに対してのものになることが多いだろう?
そうなったら、そうだな……万人が全く同じ生まれ、性別も画一で、同じ外見をして、同じ教育レベルで、同じものを食べて同じものを見てたら起こらないんじゃないか?」
『なかなか皮肉の効いたものいいですが、私も概ね同意見です。逆説的に言えば、個人差がある以上は差異は生まれる……そう言った意味では、平等の実現のために真に必要なのは、惑わぬ自己を持つことか、他者に関する寛容なのかもしれません。
もちろん、人は自分の価値を他者と比較してしまう傾向にありますから……実際、右京はその点でいつも悩んでいた訳ですし……他者を認めるということも、人類の平等と同じくらい不可能なことかもしれませんけれどね。
ともかく、ローザはそんな世情の中でも理想郷を求めて活動していたんです。行き過ぎた感情論ではなく、人が真に平等になるためにはどうすればいいか……それを求めて心理学を学び、人の行動や心の在りようがどのようにするか、その変数の解を求めて実験するために彼女が選んだのがアルファ社だったんです』
「難しい物言いだが、人がある情報に触れた結果として起こる人の感情や行動を分析し、コントロールすることで、論争に寄らない社会的な平等を追求しようとしたって所か?」
『はい、そんな感じです』
それ故に、彼女はひとまずインフルエンサーとしての立ち位置を選んだということらしい。自らの言葉や言説が人々にどのような影響を及ぼすか実験しようとしていたと――だが、ローザの努力もレムのそれと同じく、旧世界において芽が出ることは無かった。心理学はある行動に対する人の心の変化を統計学的に分類することは可能とするが、それは結局観測者が事象に対してラベリングをしているに過ぎない。つまるところ、起こった出来事に対して数字の多寡から人間の行動と心のあり方の傾向を後付け的に分類することは可能ではあるが、それは結局人の心を丸裸にする魔術でもなければ、因果関係を事前にすべて明確にしておく奇跡にもならなかったのだ。
要するに、彼女の学術的に裏打ちされているはずであった机上の社会心理学は、フィールドワークにおいて役に立たなかった。そもそも、彼女は人々から見向きもされなかった。アルファ社によるネット上のアルゴリズム調整によって、彼女の生み出すコンテンツを優先的に見せようとしていたとしても、多くの場合は無視されてしまった。そして数少ない閲覧者達に関しても、彼女の活動を継続的に追ってくれることも無かった。それらは周到に計算された科学的な統計によって緻密に作られていたというのにも関わらず――ジム・リーのような魔性には敵わなかったのである。
結局、人の心の動きの変数を科学することはできないのかもしれない。それこそ、人の心を無理やりにでも書き換えることができれば――それはこの星においてDAPAが第六世代型アンドロイドに実際に行ってきたことではあるが――別であるが、自然状態の人間の心の機微をコントロールすることはできはしないということなのだろう。




