14-8:あの景色を再び 上
「ねぇ、どうしてこの場所に来ようと思ったの?」
自分に対してそう声を掛けてきたのはエルだった。確かに、彼女としては気になるだろう――自分が行きたいと提案した場所は、ハインライン辺境伯領の一角、かつて老シルバーバーグが管理しているテオドール・ハインラインの別荘だったのだから。
「一週間くらいあれば、簡単なやつなら一枚描けるかと思ってね」
さわやかな秋風の抜ける高原で、自分はキャンバスの準備をしながら問いかける彼女に対してそう答えた。この場所は、自分にとって特別な場所――絵を描くことを思い出した場所であるとともに、この世界で初めて絵を描いた場所でもある。旅の中で描きたいと思う景色はたくさんあったが、どこか一つだけ選ぶとなれば、やはり想い出のこの場所こそが相応しいと思ったのだ。
以前この景色を描いた時には水彩だったが、今回は油絵にしようと思っている。一週間で仕上げるのは難しいかもしれないが、時間をかけてじっくりと取り組むなら油絵の方が向いているから。
時刻としては正午過ぎ、秋も深まっているがまだ日も高く、絵を描くには絶好の日和と言える。レムから休暇を取るよう進言された後、そのまますぐに高速艇で――ノーチラスにあったものは破壊されてしまったので、海と月の塔の地下に隠されていたもの――移動を開始し、約二時間ほどでここまで辿り着いたのだった。
さて、ここに来るまでの状況と、到着してからの状況は次のようになる。まずはハインライン辺境伯領に来ると手を挙げたのは、主に戦闘メンバーのうちでブラッドベリを除く六名、自分を含めて七人だった。
ブラッドベリに関しては、以下の二点から同行を拒否された。第一に人里に魔王が行くのはいかがなものかという点――彼から提案が出たので、まったく謙虚で笑いそうになってしまったのだが――と、第二にノーチラスの整備に回りたいという彼立っての願いがあった。ノーチラスの整備には他の魔族たちも当たっている他、彼自身も機械いじりに興味を持っているらしく、それはそれで休養になるということでブラッドベリはノーチラスの整備に周った。
また、途中でクラウディアを孤児院の付近で降ろし、明日チェンが彼女を高速艇で迎えに向かってくれる予定になっている。辺境伯領と聖レオーネ修道院は徒歩では十日の距離だったが、高速艇を使えば往復二時間ほどで迎えに行けるということで、クラウディアは今日は一日孤児院でゆっくりしてくる予定だ。
そのほか、この世界に帰る場所があるとすればソフィアだが、彼女は母と通信で連絡を取れれば十分だということで、先ほど高速艇の中の通信機でレヴァルにいるマリオン・オーウェルと連絡を取っていたようだ。二人の仲が少し進展したようで良かったと思いつつ、なんやかんやで自分の知らない所で物事というものは解決されて行くものだと――もちろん、あの二人の溝を埋めるだけの重大な何かがあったのだろうが――改めて思わされた。
ナナコ、T3、チェンに関しては、特別に帰る場所がある訳ではない。正確にはT3は世界樹という故郷がある訳だが、如何せん南大陸は少々距離もあるし、奴曰く帰る場所などないと無駄に格好つけていたのはここに追記しておく。ナナコとチェンに関しては、皆が行くならとなし崩し的に参加を表明した形だ。
最後にエルに関して。ここは彼女の故郷でこそあるものの、街へと降りることはソフィアとチェンによって反対された。その理由として、この一年の間はボーゲンホルンの当主が街を護ってくれていたので、今出て行ってもその労に泥を塗る可能性があると。確かに、一番重要な時に居なかった割に、今顔を出すのは都合が良いと思われても仕方がないかもしれない。
懸念点は他にもある。彼女は肩書的にはレムリアの民を絶望に落としたハインラインの血を引いている――もちろん、シルバーバーグなどは彼女の帰還をいたく喜んでくれたし、辺境伯領の臣民の多くは七柱としてではなく、この地を守ってくれていた今のハインラインに対する恩義を感じてくれている。とはいえ、領民の全員が納得しているわけでもない。それ故、然るべき手順を踏んでから、街には顔を出すのが良いということになったのだ。
当のエル自身はそれで納得もしていたし、今は仲間たちとの時間を大切にしたいということで、結局は真っすぐにこの別荘地に足を運び、先ほど父の墓前へと向かって行き、そして戻ってきたタイミングで声を掛けられたのだった。
「……父の墓前に行く前に、T3に声をかけられたわ」
自分が風光明媚な景色をどうキャンバスに落としていくか辺りを観察している横で、エルは腰を降ろしてこちらに声を掛けてきた。
「へぇ……何て声をかけられたんだ?」
「エリザベート・フォン・ハインラインって、いつものように名前を呼ばれただけで、押し黙っていて……ただ、彼が何を思って声を掛けてきたのかは分かっていた」
「それで、どうしたんだ?」
「一発、頬に平手をくれてやった」
今の言葉だけ聞くと随分と物騒だが、要するにT3は彼女の父を手にかけたことと向き合い、同時にエルはそれに対する報復をしたということなのだろう。そこに関しては両者の問題であり――テオドールの影響力を考えればこの二者だけで済む話でもないはずだが、ひとまずこの両者の間では解決したのだ――自分がとやかく口を挟むことではないだろう。
「別に、それであの男を許したわけじゃないけれど……全てを知った今としては、あの男の気持ちも分からないでもないから。
それで……逆の立場だったら私も同じことをしていたかもしれないと言ったの。そうしたら、それは無かっただろうと言われた。お前は甘いから、人を殺すことなどできないだろうと……同時に、そのように侮ったことを謝罪をされたの」
「なるほど……」
生返事になってしまったのは、決して絵を描く準備を進めているせいではない。何となく、T3の気持ちが分かるような、分からないような――そんな不思議な感覚に合ったからだ。
そんな折、脳裏に『それはですね……』とレムの声が響き始める。彼女はT3がファラ・アシモフにトドメを刺したこと――それも止むにやまれぬ状況において――また彼がそのことに関して深く悩んでいたことが共有された。そして疑問も氷解した。アイツは仇を前にして悩まないと豪語したのに、実際には迷いを覚えたため、エルに対して謝罪したのだろう。
そう思えば、T3という男は中々不器用で律儀な男だ。言わなければバレはしないのに、わざわざ素直に謝りに来たのだから。同時に、幾分か幸せだろうとも思った――T3はターゲットにした者の縁者である、エルやグロリアに向き合うことができたのだから。
自分にも幾許かのチャンスはあった。シモンやグロリアとは向き合うチャンスはあると言えるものの、その他の殺めた者の縁者全てに向き合う時間があった訳ではない。それに、T3と比較して、自分が殺めてきた者の数は圧倒的に多い――数で測るべきことでもないのだろうが。




