12-86:The Blooming and the Tiger 上
その気になればこちらの頭など簡単に握りつぶせるのだろうが、趣味の悪いルーナのことだ、少しいたぶってやろうとか思っているに違いない。だが、動けるうちは抗える――前も見えないまま相手の巨大な図体に向かって蹴りを放つ。
しかし、その抵抗も無駄に終わった。足は何も蹴り抜くことも無く、強い力に握られ、そのまま痛烈な痛みが走り、足に全く力が入らなくなってしまった。強靭な握力に右足が握られ、骨が砕けてしまったのだろう。
「ティア!? 貴様、ティアを離しなさい!」
「くくく……無駄よ無駄無駄。たかだか第六世代型の筋力を補助魔法で強化した程度の威力では、この身体を傷一つつけられんわ!」
恐らく、アガタがルーナに対して抵抗してくれているのだろうが、全く届いていないようである――友の悲痛な叫びに対し、ルーナは余裕綽々という調子で声を上げてくる。
「さて、クラウディア・アリギエーリ……さんざ妾に向けて倒してやるとか、仇だとかのたまっていたな? どうじゃ、こうやって掌の上で踊らされる気分は」
ルーナは気色の悪い声をあげているが、足の痛みで頭がいっぱいになり、ほとんど聞き取ることは出来ない。それどころか頭部を握る力も徐々に強まり、それに合わせて今度は左腕が強い力で握られ、右足と同じ末路を辿った。
「うぁぁぁ……!」
「はは! いい叫び声じゃ! もっともっと悲痛の叫びを聞かせてくれ!」
あまりのダメージのせいか自分の呻き声もどこか遠く感じられ始めた時、今度は腹部に重い物が走った。すぐに内から何かがせり上がり、行き場のなくなった何かが口や鼻からあふれ出て――もはや痛みすらも感じなくなってきた。
微かにルーナの笑い声だけが聞こえてくる――それに対する怒りは確かにある。だが、身体に蓄積されたダメージのせいで、その怒りすらも段々と薄まってきてしまった。悲しい訳でもない、諦めたい訳でもない――だが、肉の器が終わりへと近づき、全ての感情が消失しようとしている。強力な引力が働いて器から魂が剥がされ、あるべき所へと近づいているのだ。
(クラウ……ごめんよ……)
君が帰るべき場所を自分は守れなかった。仲間たちと再会を果たし、もう少しでアランを取り戻すことだってできたかもしれないのに。クラウディア・アリギエーリという器は限界を迎え、半人前で繋ぎとめていた魂すら原初へ戻ろうとしている――。
「なんじゃ、もう叫べんか? それなら、次は……ぬぅ!? イスラー……」
身体の拘束が解かれ、自分の体が地面へと投げ出された。同時に、アガタの声が近くから聞こえ、身体が楽になる感じはあるのだが――既に処置は遅かったのかもしれない、視界は依然真っ暗で、身体の感覚はほどんどなく、ただ意識が底へ底へと沈んでいく。
そして落ちる所まで落ちた時、先ほどまで鳴り響いた全ての音が消えた。同時に浮遊感、水面に浮きながら川へと流されるような感覚で、魂が引力に任されるがままどこかへと引きずり込まれ――。
「……ティア」
遠い日に大切な半身が名づけてくれたその名を呼ぶ声がした。
◆
この場所を彷徨い始めてからどれくらいの時間が経っただろうか? 一年か、五年か、百年か、はたまたつい先ほどの出来事だったのかもしれない。ともかく既に時間の感覚などなく、ただひたすらに暗闇の中を歩き続けていた。
本当は歩く必要などないのかもしれない。この暗闇を抜けるための努力などしなくても良いのかもしれない。きっとその場に留まっていれば迎えが来て、然るべき処置が行われる。それは恐ろしいことではなく、きっと当たり前のことでもある。
それでも自分がこの暗闇の中を歩き続けていたのは、このまま終わってしまってはならないという不思議な使命感からだった。ずっと誰かが自分のことを呼んでいる気がして――ここに来るのにやるべきことはやったという確信もあるのだが、それは消極的な解決方法であり、自分が真に望んだ結末でもなかったように思う。ともかくここから抜け出して、自分を呼ぶ声に応えたいと思い、なんとか出口を探しているのが現状だった。
こんな抽象的な考えしか出てこない理由は明確で、自分が誰で、何故ここに居るのかもわからないせいだ。自分が漠然と抱いている使命感も焦燥感も、記憶がない故にその原因を断定することは出来ない――強いて分かることを一つだけ挙げるとするのなら、延々と同じような所を繰り返し巡っている自分は方向音痴と言うことくらいだった。
空腹にならないのは不幸中の幸いだし、同時に足も疲れることは知らない。しかし洞窟の中のような暗闇のせいで昼なのか夜なのかかもわからないし、暑さも寒さもないので、時間的な感覚はまったくない。そうなると今が何時なのかも分からないし、どれだけ自分がここを彷徨っているのかも不明だ。
もしここに来る前の記憶があったとするのなら、もう少し幸福だっただろうか? 原因の分からない焦燥感にだけ駆られ、ただ歩き続けているということは、あまり良い状態とは思えない。いや、逆に記憶があったとしたら、この場にいる原因が浮き彫りになり――それはあまり良い理由ではないはずだ――余計に心を砕くだけの結果を招いていたかもしれない。
何度も何度も諦めようと思った。この場は行き場のない袋小路なのであり――同じところを周ってしまっているのかもしれないが――どれだけ歩いても徒労にしかならない、そんな風に思ったこともある。もしかすると自分ではどうする事もできない大きな奔流があって、抗うことなど無駄なのかもしれない。
それでも自分が歩みを止めなかったのは、やはり自分を呼び続ける微かな絆を感じ続けていたから。暗闇の向こうから聞こえてくるその声はあまりにも小さく、その言葉を聞き取ることは出来ない。それでも懸命に、諦めることなく、自分を探し続けてくれている誰かがいる気がする――その人に報いたくて、その小さな希望を頼りに、折れそうになる心を何度も奮い立たせて歩き続けた。
だが、それももう限界に来ていた。身体に疲労は無くても、心には蓄積する。長い孤独が心を蝕み、明けない暗闇が魂に闇を落とす――もう限界だった。この不思議な世界には自分以外も存在する気配は確かに無数にあるのだが、同時に誰とも話すこともできないし、見ることもできない。
もしかしたら本当は暗いのではなく自分が盲目となっており、本当は無音なのではなく自分が聾者となっているのかもしれない。ただ、そんなこともどうでもいい――自分は無の中でただ孤独であり、求めてくれている声に応える事もできないのだから。
その場にへたり込んで膝を抱き、瞼を閉じて深い影の中に沈殿していく――そうしていると不思議なほどに心は穏やかになってきて、今まで歩き回っていたのが馬鹿らしくなってくる。そうだ、別にあるべき場所へ還るだけ。別に恐ろしいことは何もないのだ。
『……ウ……ごめ………』
ふと、自分を呼び続けていた微かな声が聞こえてきた。とはいえ、結局何を言っているのか聞き取ることは出来ない。いつもと違って、その声には力が無い。声の主は疲弊しているようであり、出来ればその側へと寄って励ましてあげるべきなのだとも思うのだが――。
(……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……もう、疲れてしまったんです……)
アナタが呼ぶから抗ってきたけれど、もう足を動かすことはできない。私のような人を求めてくれるから戦ってきたけれど、もう心を奮い立たせることは出来ないから。アナタも随分と疲れ果ててしまっている――それなら、お互いに全てを終わらせてしまうのが良いのではないか。
そんな風に全てを諦め、抗うことを止めようとしたまさにその時のことだった。
「……こんなところに居たんだな。随分と探したぞ、クラウディア」




