8-35:解脱症についての一考察 上
ティアに連れられて通された部屋は、二つのベッドが並んでいる部屋だった。ティアに施されるままに自分は壁際の椅子に腰かけると、ティアとアガタはベッドの上に腰かける――恐らく、ここは二人が利用している部屋で、座ったのが各々の寝床ということなのだろう。
「……それじゃあ、クラウを起こそうか」
ティアはベッドに腰かけて目を閉じた。
「起こして大丈夫なのか?」
「あぁ、百聞は一見に如かず……少しなら大丈夫だろうからね」
ティアは言葉を切って、片目だけ開けて対面に座るアガタの方をちらりと見る。
「……何かあったら、アガタ、頼むよ」
「えぇ、お任せを……」
「それじゃあ……クラウ、起きて……」
真紅の瞳が瞼で覆われ、ティアが一呼吸する――すると彼女の頭ががくんと落ち、一瞬身体から力が抜けたようだった。いつもなら、もっと流れるように人格を入れ替えていたように思う――そうなると、やはりクラウに何か重大な事が起こったのは間違いなさそうだ。
少しして緑髪の少女の瞼がゆっくりと開かれ――そこには見慣れた青い瞳がある。しかし、その瞳は不安そうに揺れ、どこか焦点が合わない調子で周囲を見回し、そして自分の姿を捉えた後に、どことなく恐怖の色を帯びた。
「……アランくん」
「クラウ……その、大丈夫か?」
大丈夫でないことは分かり切っているのだが、他に良い言葉も思い浮かばず、つい安直な言葉を口にしてしまう。いつものクラウなら「もっと良い言い回しは無いんですか?」なんて皮肉を言ってくるような気がするが――クラウはしばらくこちらを見て、次第に瞳に涙をにじませ始めてしまった。
「ご、ごめんな……さ……ふぇぇん……!」
謝罪を言葉にすると、クラウは目元に手を当てて大声を上げながら泣き始めてしまった。
「お、おい……アレだろ、この前のことを気にしてるんだろう? 俺はまったく気にしてないから、そんなに泣かないでくれよ……」
クラウに近づいて宥めようとすると、彼女はびくっとして縮こまり、余計に大きな声で泣き出してしまった。
しかし、彼女の泣き方はまるで幼子のそれだ。感情をコントロールできず、ストレスに対してただ叫びを上げながら泣くことしかできない――そんな小さな子供の泣き方にそっくりだった。
自分がどうしようか困っていると、背後でアガタが立ち上がり、ゆっくりとクラウの横に座った。そして、彼女を安心させるためだろう、優しい微笑みを浮かべながらクラウの頭を撫で始めた。
「よしよし……大丈夫ですよクラウ。アランさんの顔が怖いのはいつものことじゃないですか」
「おい」
アガタとしても場を和ませるジョークのつもりだったのかもしれないが、思わず反射で低い声が出てしまった。その声が怖かったのか、クラウがまた怯え始めてしまい、アガタには「アランさん、少し黙っていてください」と言われてしまう始末だった。
ともかく、しばらくの間はアガタがクラウを宥め――体格的には色々な意味でクラウの方が大きいので、なんだかアンバランスであり、どこか珍妙な光景になってはいるが――しばらくするとクラウの声はすすり泣くようなものへと落ち着き始めた。
「ふぅ……とまぁ、見ての通りですわ。クラウは先日のショックのせいで心を閉ざしてしまったというか……幼児退行を起こしてしまったようなのです」
なんとなく察しはついていたことだが、改めて事実を口にされると自分としてもショックを受ける。一瞬、幼児退行なんて記憶喪失よりも珍しいんじゃないかなどと呑気なことを――身近に自分を含めて二つのケースがあるから記憶喪失など割と普通なことではないかなど――考えてしまうが、今はくだらないことを思考している場合でもないだろう。
しかし、どうやって接したものか。ソフィアやナナコも幼さは残ると言えども、分別はしっかりしているし、ソフィアなど大人顔負けの思考力がある。対して、今のクラウは本当に幼児と言った調子で、ここまで幼い子供の、しかも泣く子のあやし方など自分には分からない。
ともかく出来る限り優しい調子で、一旦彼女を落ち着かせてあげるべきだろう。自分はアガタとクラウの座るベッドに近づき、膝をついてクラウと目線を合わせ、なるべく笑顔に努めて話しかけることにする。




