7-55:赫焉の熾天使 下
『恐れていた事態が現実のものになってしまった……というところだな』
『止めてくれ……まだ、まだなんとかなるかもしれない……』
恐らくはべスターの言う通り、彼女の記憶が、感情が――七柱によって書き換えられてしまったのだろう。だが、だからと言って戻らないという確証がある訳ではない。自分の身体が前世の技を覚えているように、記憶を書き換えられたとしても、共に過ごした時間が無くなる訳ではないはずなのだ。
思い切って奥歯を噛み――音速でぶつかれば、彼女がただではすまない――クラウの背後へと回ってすぐに加速を切って、肩に腕を回して羽交い絞めにする。
「話を聞いてくれ、クラウ! 正気に戻るんだ……!?」
クラウは羽交い絞めにしているこちらの身体を使って足を上げ、振り子の原理でその両足をこちらの腹部へと突き出してきた。そこに結界も乗せられていたせいで強力な一撃になり、再び距離を離されてしまう。
なんとか体勢を崩さず着地するが、腹の痛みが強い――腹部の強化されている皮膚が崩れ落ちるのを感じたが、身体の再生能力のおかげかすぐにまた硬化した皮膚に覆われた。
顔をあげると、クラウは迎撃の手を止めて、肩で息をして俯いているのが見えた。
「……アナタは、ずっと私をだましてたんですね」
「違うんだクラウ、俺は……!!」
「言い訳なんか聞きたくありません!!」
呼吸を整え、声が聞こえたのも束の間、少女の足元で陣が弾け、再びこちらへと飛び掛かってくる。
「もう勇者のお供になんかなる必要だって無かったのに……私はアナタの役に立ちたくて! 自分の居場所を護りたくて……だから着いてきたのに……それなのに!!」
突き出した拳が、振り下ろされる足が、彼女の怒声と共に襲い掛かってくる――しかし、激しい乱戦の中で、彼女の表情が見えにくい。だが、どうやら記憶は残っているようだ。それならば、まだ引き戻すことも出来るかも――何より、今しがた吐露された彼女の健気さを、絶対に無為にしたくない。
「クラウ……君の言う通りだ。俺は自分が邪神ティグリスの生まれ変わりだということは気付いていたし、それを黙っていたのは認める……だが、この世界を……君を護りたいという気持ちは本物なんだ」
「……そんな風に、誰にだって気やすく優しくて!」
攻撃を硬化した手足でいなしていると、ふと少女の頬に光るものが見えた。
「クラウ……? 泣いているのか……?」
「……うるさい!」
叫びと共に陣が弾け、再び距離を離される。今度は上手く着地でき、こちらは余力もあるが――対するクラウはがむしゃらな攻撃の後で呼吸を乱し、目尻に一杯の涙を溜めて天を見上げていた。
「どうして……どうしてこんな風になっちゃったんですか? どうして……うぅ……!」
「クラウ!?」
絞り出すような小さな声が聞こえて後、クラウは頭を抑えてその場に跪いてしまう。クラウを支えるためにすぐさま駆け寄り、こちらも膝をついて少女の振るえる肩を握りしめる。
「クラウ、大丈夫だ、俺が側にいる」
「アラン、君……わた、私、は……! あぁぁあああああ!!」
目の前一杯に結界が広がり――肩を抑えていたせいで腕を動かせなかったのだろうが、密着状態で強力な一撃をもらってしまった。再び吹き飛ばされてしまい、背中に鈍い衝撃が走る――背後にあった崖に自分の体が叩きつけられてしまったのだろう。
そして、クラウはまたこちらへ向かって走ってくる。トドメを刺そうとしているのだ――やむを得ない、加速をして一度体制を立て直すか――そう思っている間に、また何かが飛来してくる気配を察知した。その何かが自分とクラウの間に落ちると、地響きが鳴るほどの衝撃が辺りに走り――。
「……クラウ!!」
巨大な戦槌の飛来に緑髪の少女が一旦背後へと跳ぶのと同時に、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。すぐに声の主が鉄棒の元へ駆けつけ、紫髪の少女がその柄に手を伸ばしていた。
「アランさん! クラウのことは私に任せて先に行ってください!」
「だが、しかし……」
「アナタの気持ちはお察しします……ですが、アナタが語り掛ければクラウは混乱する一方です! それに、エルさんやソフィアさんも、今窮地に立っています! 何より……!」
アガタはそこで言葉を切ってこちらへと振り返る。眉を顰め、唇を振るわせている――そこにあったのは、アガタ・ペトラルカが今までにしたことのない様な悲し気な表情だった。
「あの子を救いたい気持ちは、私だって同じです。そして、クラウを欺いていたのは、私だって一緒なんです……その罪、私にも償わせてください」
「……何か、策はあるんだよな?」
アガタにはレムの声が聞こえるのだから、記憶や意識が書き換えられたときの対応策もあるはず――それを信じて問いかけてみたが、アガタは一瞬目を臥せて再び前へと向き直った。
「成果は確約できませんが……無いことはありません」
彼女は安易に嘘を吐くタイプではない。だから、全く望みがないというわけではないはず――そして、恐らくかなり分の悪い賭けではあるのだろう。だから、いつもの様に不敵に笑っていられないのだ。
「そうか……それじゃあ、ここは任せた、アガタ」
アガタ・ペトラルカは覚悟をしてきたのだ。友を失うかもしれないという危険な賭け――仲間を失うかもしれない自分と同じだ。それなら、アガタのことは信じられる。心残りがないと言えば嘘になるが、彼女の言う通りでピンチなのはここだけではないのだ。
そう思いながら加速装置を起動させ、自分は黒い歪みが生じている崖上を目指し始めた。
次回投稿は3/21(火)を予定しています!




