7-4:漆黒の闇vs原初の虎 下
戦闘が終わって少し移動し、昼の休憩を取ることになった。恐らくナナコの自発的な行動を肯定してくれたのだろう、クラウはナナコが料理をすることを歓迎してくれた。とは言っても一人でやらせるわけではなく、ひとまずは一緒に料理をしてみて、問題なければ次からも――という形にはなったのだが。
ともかく、自分は少し歩哨として、通過中の渓谷の近隣を調査してまわった。湖を発つときに聞いた話によると、この辺りは山賊こそ出ないものの、魔獣のほかに魔族も出るのだとか――暗黒大陸のように強力な個体は居ないらしいが、それでも警戒するに越したことは無いし、休憩中に襲われたくはないので、先立って偵察する形だ。
周囲に魔族の気配も魔獣の気配も無いのを確認し終えてキャンプ地に戻ってくると、ナナコが鼻歌を歌いながら鍋を回しているのが見えた。恐らくソフィアにやらせたように、包丁などの扱いはクラウの方でやって、あとは煮るだけ、というのを任せたのかもしれない――そんな風に推測していると、ナナコがこちらに気付いて笑顔になり、大きく手を振って迎え入れてくれた。
「アランさん! おかえりなさい!」
「あぁ、ナナコもお疲れ……!?」
ナナコの、もとい鍋のそばに近づいた時に、その異変に気付いた――いや、もっと早く気付くべきだったのかもしれない。何故これほどの脅威に自分のセンサーがもっと早く反応しなかったのか、ある意味では不思議だった。
端的に言えば異臭がする。焦げたような臭いではないが、色々と混ぜあったような臭い、混沌とした、無秩序の香り――こんな臭いがしていれば他の者も気付きそうなものだが、恐らく風向きの影響か、奥にいる少女たちはこの異常事態に気付いていないようだった。
そして、恐る恐る鍋の中を覗き込む。すると――。
『ほぅ……前衛的な色のスープだな』
『……あぁ、違いない』
脳内から響く男の声に、思わず同意してしまった。そこには、混沌の香りに似つかわしい漆黒が広がっている――というか、べスターの声が聞こえるということは、これは生命の危機だ。これを食べるのは危険だと、俺の本能がそう告げているのだ。
「えぇっと、ナナコさん? これはどういうことでしょうか?」
「はい?」
目の前の危機に対して思わず敬語になってしまいつつ、少女が錬成している小宇宙を指さす。しかし、こちらの意図が伝わらなかったらしい、ナナコは可愛らしくきょとんとしながら小首を傾げるだけだった。
「いや、どうすればこう、黒い色のスープが出来上がるのかなぁと?」
「あ、それはですね! クラウさんに調味料の種類や量も指定されてたんですけど、お醤油やお味噌が無いですし、ちょっと味にパンチに欠けそうかな? と思いまして」
「パンチに欠ける」
「はい! それで、とりあえず荷物にあった調味料や美味しそうな具材を色々と足してみまして!」
「色々と足してみまして」
「そうです! 美味しいものをかけ合わせれば、きっとおいしいはずですから!」
「きっと、きっとねぇ……」
繰り出されるナナコワードをイマイチ理解できないので、こちらとしてはオウム返しをするしかなかった。自分と少女の間にさわやかな一陣の風が吹き――異臭がまた鼻をつくだけだが――何故だか急にナナコは少し悪戯な表情を浮かべ、左手の指を顎に添えた。
「ははぁ……さてはアランさん、お腹が空いてますね?」
「いや、さっきまで空いてたんだがな?」
「遠慮しないでください! ささ、ここはこっそりと……」
ナナコはお玉で暗黒をすくい、名状しがたい何かを取り皿に移して、最高の笑顔をこちらに向けてきた。
「はい! つまみ食いしちゃっていいですよ!」
「そういう君は人の話を聞かないね?」
善意百パーセントなのは分かるし――いや、もしかすると記憶喪失は嘘で、こちらを亡き者にしようとしているのかもしれないが――いやいや、それならもう少し寝首を掻くとかやりようはあるはずだ――ともかくこの子は、割と「分かってます!」という顔をするが、全然わかってないことが多い。
まぁ、そもそも分別がきちんとついているのならクラウのいう通りに味付けをしただろうし、暗黒が出来た時点でもう少し危機感を持つと思うので、よく言えばド天然なのだろう――いや、天然という言葉は本来フォローになるかも分からないが、ともかくナナコは悪意なく自分を押し通しちゃうタイプ、それは良く分かった。
ともかく、頑丈な自分はさておき、これを他の子たちに食べさせるのはいろんな意味でマズそうだ。そう思って、差し出されている受け皿を取る代わりに、掌を向けて制止するポーズを取る。
「あの、気持ちはありがたいんだがな。ちょっとクラウと……」
「……食べてくれないんですか?」
「ぬぐっ……」
相談してくる、と言う前に、うるんだ眼を向けられてしまい、思わず自分の口から変な声が漏れる。可愛い女の子に悲しい顔をされると弱い、それは男の子ならみんなそうなのではないか?
そもそも、ナナコはみんなと、ソフィアと打ち解けるため、自分なりに頑張っているのだ。それを否定するのは可哀そう――いや、周囲にゲテモノ食わせて余計に顰蹙を買うくらいなら、止めるのはある種の優しさなのかもしれないが――ともかく、自分が実験台になるくらいはしてもいいのかもしれない。
そうだ、これだって、臭いと色がヤバいだけで、味は意外といけるかもしれない。あくまでも嗅覚と視覚をやられているだけで、味覚までやられるとは限らないじゃないか――そう思い、差し出され続けている受け皿をおっかなびっくりに手に取った。
『おいやめろアラン、死ぬ気か……!?』
心の友が自分の行動を必死の声で制止してくる。なんなら過去一で語気が強い。お前はもっと物理的に危険な時に俺の身を心配してくれよ――そう思いながら取り皿に注がれた漆黒を、震える手で口に近づけた。
『ふっ……あのなべスター。男の子にはな……危険と分かっていても突き進まなきゃいけない時があるんだ!!』
ままよ、そう心の中で叫んで暗黒物質を口の中に流し込む――しかし、覚悟して口に含んだわりに、結果は意外だった。味はしなかったし、臭いも気にならない。なんだか拍子抜けしてナナコの方を見ると、微笑を浮かべながらこちらを見上げていた。
「……どうですか? 美味しいですか?」
「えぇっと、そうだな……不思議と味がしな……い……」
そう言いかけた瞬間、唐突に身体がいうことをきかなくなってしまった。次いで、視界が急転して一気に真っ暗になった。恐らく、その場に崩れ落ちて倒れてしまい、目の前が地面なのだ――そして急激に襲ってくる形容しがたい舌の痺れと猛烈な臭い。
『……これはある種、事故後などに見られる現象と同一のものだな。味覚と嗅覚に対する強烈な刺激に、一瞬身体が麻痺状態を起こしていたのに対し、油断した瞬間に感覚が戻ってきたと』
『な、なるほど……?』
べスターから冷静な解説が入り、意識が途切れるギリギリで相槌を打つ。
「……あれ? アランさん……? アランさーん!? あ、あの、クラウさ……回復魔法……」
遠ざかる意識の中で、ナナコの慌てふためく声が聞こえ――それも段々と聞こえなくなくなってしまったのだった。




