5-16:アレイスター・ディックの研究室にて 下
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ソフィアも落ち着き、渾身の熱い茶を一気飲みというボケで場も和んだようだ。決して喉が乾いていて何の気なしにお茶を飲んだら舌を火傷してしまった訳ではない。これは名誉の負傷なのだ。
「……そういえば、エルさんとクラウさんは?」
「あぁ、朝から買い出しに出ててな。書置きを残してきたから、そのうち来るだろう」
ひとまず、アレイスターからの使いが来てから、一目散にここまで走ってきた。とはいえ、きちんと書置きを残す配慮までしてきたのだから、問題は無かったはず――しかし、自分の言葉にアレイスターが苦笑いを浮かべている。
「……アランさん、通行許可証は一つしかありませんよね?」
「あっ……」
そうなると、エルたちはここに入ってこれないか。これは後で謝り倒すしかない大ポカをしてしまった。
「いえ、しかしアランさんだけの方が好都合かもしれません。どの道、学長にお会いするのに、エリザベートさんとクラウディアさんはここに残ってもらうことになったでしょうから」
「んあ? どういうことだ?」
「使いの者から聞きませんでしたか? 学長がアランさんにお会いしたいと言う事で、ソフィアと一緒に招待したのですが……」
言われてみれば、使いがそんなことも言っていた気がする。しかし、ソフィアに会えるとなって、すっかり失念してしまっていたようだった。
「しかし、学院のお偉いさんが、俺になんか用があるのか?」
「えぇ、此度の魔王征伐で、活躍されたアナタに興味があるようで……ぜひ一度お会いしたいと」
「ふぅん……」
あんまり偉い人に会うのも乗り気はしないが、学院の長ともなれば会う価値もあるかもしれない。確か、クラウが以前に神話を語ってくれた時に、学長は七柱と交信できるとか言っていたような気もする――向こうが色々と素直に話してくれるかは分からないが、この世界のことを色々と聞くチャンスかもしれない。
しかし、以前に海と月の塔であった時のような緊張する場面にならなければいいが。
「なぁソフィア。学長ってどんな人だ?」
「えぇっと……変わった人、かなぁ?」
「えぇ、一言で言えば変な人ですね」
会う前に人となりを確認しておこうと思ったら、ソフィアは苦笑いでそう答えた。次いでアレイスターからも同様の意見が入ったのだから、変人だというのは間違いなさそうだ。
「えと、そんなに緊張しなくても大丈夫な人だとは思うよ。礼節とか出自とか、そういうのは一切気にしない人だから……でも、独自の倫理観を持っているというか、マイペースというか……頭が良すぎるというか……ともかく、あんまり会話が噛み合う人じゃないかな」
学院の英才、ソフィア・オーウェルをして話が噛み合わないとは凄まじい人物なのだろう。ただまぁ、ルーナ派の巫女に会った時のような緊張した場面にはならなそうなので、ひとまずそれだけでも良いか。
「学長ギルバート・ウイルドは、常に時計塔の最上階で自身の研究に勤しんでいます。世俗のことにはほとんど口出しをしません。
彼が自身の研究室から出るときは、新たな教授職が生まれた瞬間……つまり、新しく生まれた第七階層の魔術を確認するとき位です。それ以外では、たまに気になった人物を自身の研究室に招く程度の社交性しかありません。
流石に魔王征伐の時に限っては、派遣する人員の選定も行いますが……ソフィアの後に私を指名したのは学長です」
アレイスターの説明を聞く限り、なるほど、確かに天才肌の学者という感じがする。
「……学長っていう立場なら、もう少し学院の運営とかに口出しすべきなんじゃないのか?」
「あはは、いやごもっとも……でも、歴代の学長はみなこんな感じです。魔術に最も秀でた者が、学長の位を継ぐ……そして、その立場に立った後も、その道を追求し続ける。それが学院、それが学長です」
「でも、それは逆を言えば、学長になる前には雑務とかもこなしていたわけだから……学者の本懐は、その道の飽くなき探求。だから、ある意味では学長になって世俗を断ち思いっきり研究できるのは、頑張った自分へのご褒美なのかも?」
確かにソフィアの言う通り、そういう見方もできるか。ともかく、少しの沈黙の間にアレイスターとソフィアの顔を交互に見ているうち、以前にレヴァルで三人で話した時のことを思い出した。
「……話は変わるが、学院と教会の知識の占有について、異議を申し立てようとか言ってたな? それは進んでいるのか?」
「いいえ、正直に言えば、当面は難しいかな、とは思っています……軍の方でも、魔王征伐後の社会不安の報告は多数受けていますし……実際に、私の予想を上回る報告が成されています。魔王征伐の回数を重ねるごとに、戦後の社会不安は増しているようです。
ともかく、そんな中で学院や教会の威信に関わることに口出しするのは避けるべきかなと」
そう言うアレイスターは落ち着いている――というより、少し安心しているようだった。確かに、自分が矢面に立ち、改革を行うなど危険も伴うし、ある意味ではタイミングを逃したことに少しほっとしているのかもしれない。
「……ある種、こういった事態に対処するために、権力と知識を集中させている部分もあるのだろうと……本来的には、学問が広く開かれ、社会不安に立ち向かうだけの知識をより多くの者たちが持っているのが一番です。
しかし、それは教会の教えと反しますし、実践的な問題として、広く啓蒙できるだけの人材も不足しています」
「そうなると、ある程度は絶対的な権力が社会のかじ取りしたほうが、対応もしやすいってことか」
「そうですね……なので、魔王征伐後の社会不安が落ち着くまでは、私もどうするべきか今一度考えたいと思っています」
社会不安がある時ほどそれに乗じた改革の方が効果もありそうだが。逆を言えば、アレイスターはそこまで急進派ではないという事なのだろう。それにどの道、啓蒙活動をしたところで、ジャンヌの様に記憶を改竄される恐れすらあるのだから、下手に行動しないほうが良いかもしれない。
「そうだな。アレイスター、アンタの思想は立派だが、あんまり無理もするもんじゃない……ゆっくりでいいんじゃないか」
「はい、そうですね……さて、そろそろ時間です。お二人とも、学長の所へ向かってください」
アレイスターの研究室を出てから、ソフィアに連れられて教授棟の端まで行くと、そこにはエレベーターがあった。とはいえ、海と月の塔で見たような高い技術力の物ではなく、年代物の昇降機ともいうような代物で、前世でいうところのアンティークなホテルに備えつけられているような手動式の物だった。
エレベーターに乗ってしばらく上がり、蛇腹の戸を開けたすぐ先は、時計塔の機械室になっていた――いや、中から人の気配がする。
リズムよく回る歯車の向こう側をよく見ると、そこにはアレイスターの研究室に匹敵するか、それ以上に雑然と山積みにされた本と、所せましと立ち並ぶ本棚が見えた。まさか、ここをそのまま研究室にしているのか――向こうもこちらに気付いたらしい、山積みの本の一部が動かされ、そこから一人の老人の顔が現れた。
「やぁ、君がアラン・スミス……それにソフィア・オーウェルも。よく来たね……まぁ、適当にくつろいでくれ給えよ……ところで、飴ちゃんはいるかい?」
そう言って笑う髭面の老人は――いや、間違いなく老人と言って差し支えない感じなのだが、どこかエネルギッシュで年齢が読めない。五十路と言われればそれでも納得するし、七十を過ぎていると言われても違和感もない――ともかく、学長ウイルドとやらは、紙袋に包まれている飴を手のひらに二個載せてこちらに差し出していた。




