カタツムリ
「うわっ! 蜂!」
写真撮影中、羽音を立て突然現れた蜂に舞ちゃんは驚いた。そして逃げるように俺の背中に隠れた。
「慌てなくても大丈夫だよマイ。この子はクマバチって言って、ミツバチと同じで一回刺したら死んじゃうんだ。だから危険だと思わせなければ何もしてこないよ」
天満は蜂にでも詳しいのか、森の囀りを壊さぬよう静かに言う。
「そ、それくらい知ってるよ! だ、だけど蜂だよリイチ? 絶対刺さないってわけじゃないでしょ!」
臆病な自分を知られたくないのか、舞ちゃんは少し強い語調で返す。
「本当にそう思うマイ? 蜂だって同じ生き物だよ? 帰る家だってあるのにわざわざ自分から死ぬかもしれない事すると思う?」
「そ、それはそうだけど……」
「よく見てマイ。こんな小さな体してるのに、僕たちと同じく生きてるんだよ? それだけでも凄いのに一生懸命蜂蜜集めてるんだよ? 凄いと思わない?」
「た、確かに……で、でもやっぱり蜂は危ないよリイチ?」
とても落ち着き、聖者のような事を言う天満の言葉には舞ちゃんも通ずるところがあるようで、口調は穏やかになった。
「危ないのはそう思うマイの方だよ? この子は今家族の為に働いてるんだよ? それだけなのに危ないからって追い払おうとするのはどっちが危険だと思う?」
「そ、それはそうだけど……」
全く恐れず、屈み込んでより近い位置でクマバチを見つめる天満に警戒心が薄らいだのか、舞ちゃんは俺の背中から大きく顔を覗かせた。それを見て天満が優しい表情で言う。
「ほらマイもこっち来て見てみなよ? もう僕たちの事なんて気にしないで蜜集めてるから」
柔らかな風が吹いた。
「う、うん……で、でも、何かあったら守ってよリイチ」
戸惑ったように舞ちゃんが言う。
「大丈夫だよマイ。ほら」
天満が優しく手を伸ばす。
「う、うん」
伸ばされた手に導かれるように舞ちゃんは俺の背中から離れると、少し躊躇い天満に歩み寄った。
「ほらマイ。マイもしゃがんで。大きなマイが立ってたらこの子だって怖がっちゃうよ」
「う、うん」
小さなクマバチを見つめしゃがみこむ小さな二つの背中は、とても愛に溢れていた……
なんでこうなった! ほんのちょっと前まで舞ちゃんは俺の背中を頼りにしてたはずなのになんでこうなった!
今日はやけに男前な天満の力は思った以上に強大だったようで、三人になってから僅かな時間しか経過していないはずなのに、もう俺は邪魔になり始めた空気ビンビンだった。
「あ、蜂って意外とフサフサしてるんだね?」
「うん。でもフサフサしてるのはクマバチとかミツバチくらいだよマイ。スズメバチとか肉食の蜂はツルツルしてる」
「えっ! スズメバチって肉食なの!?」
「肉食って言っても、襲って食べるのは虫の事だよマイ。だからこっちから何もしなければスズメバチだってむやみに襲って来ないよ」
「それは嘘だよリイチ。だってよくニュースとかでいきなりスズメバチに襲われたとかあるじゃん?」
「それは巣に近づいたり攻撃したりするからだよ」
「まさか~。スズメバチは絶対人襲うよ」
「それは偏見だよマイ。理由も無く誰かを襲うのは人間くらいだよ。マイがもしスズメバチだったら、僕たち見たいな自分よりもずっと大きい人間に戦い挑もうと思う?」
「そ、それはそうかもしれないけど……あっ! 蜂こっちに来た!」
「大丈夫だよマイ、落ち着いて」
「で、でも危ないよリイチ……」
「ほら見てマイ。この子は蜜集めるのに夢中でマイなんて見てないよ」
「え……うん」
「だから座って」
「うん」
ねぇ俺も仲間に入れてよ!
あり得ん事態だった。いつもは喧々しているはずの二人なのに、今や恋人の如く肩を寄せ合っている。それこそ舞ちゃんは蜂が動くたび天満に守ってもらおうという感じがして解せなかった。
そして一方の理香は女子高生ならぬテンションで、ここまで声が届く勢いでターザンロープでハッスルしているのもまた解せなかった。
「よし。蜂もどっか行ったし、次行こう!」
森の住民と化した理香に目を奪われている間にクマバチは何処かへ行ったらしく、やっと舞ちゃんは天満から離れた。
そんな舞ちゃんを今日は本気で落とすつもりなのか、天満はさらに気を引こうと優しくエスコートする。
「じゃあマイ、あの辺りとか良いんじゃない? あそこなら小人の村に通じる入り口に見えるよ?」
「え? どこ?」
何気なく声を掛け自然に主導権を握る天満はデートのプロに見えた。だが「あっち」と言って指を差した先が傘くらい大きく育ったフキノトウ茫々の茂みだったのを見て、天満が悪党に見えた。
「…………」
舞ちゃん絶句!
「ほら見てあのフキノトウの下。普通の人間ならあれだけ茫々に生えたフキノトウの中なんて歩こうと思わないでしょ? だから多分小人とかはああいう人とか動物がなかなか通らない場所を道に選ぶと思うんだ」
「え……う、うん……」
天満の言っている事は確かに筋は通っている。だが何気に「普通の人は通らない」というワードが悪意を感じさせた。しかし天満からは舞ちゃんに少しでも協力しよう的な空気が感じられ、舞ちゃんも露骨に拒否できなかった。
「ほらどうしたのマイ? とにかく写真撮ってみなよ?」
「わ、分かった……撮ってみる」
さっきまで舞ちゃんを口説こうとしていたホストのようだった天満は、今や女性を闇商売に引きずり込むスカウトマンのようだった。
「どうマイ? 良い画撮れそう?」
「え? ……まぁ……うん……」
フキノトウの茂みの前で屈み込む舞ちゃんと、その横でカジュアルスーツに身を包み見下ろす天満は、なんか特殊なプレイをしているように見えた。だがそれはそれで有りのような色気を感じるのは何故だろう……
「じゃあさマイ、写真じゃなくて動画にしてみたらどう?」
「え?」
「だってさ、それ小説の資料に使うんでしょう?」
「そ、そうだけど……」
「だったら音とかも必要なんじゃないの?」
天満のアドバイスにはなるほどと思った。もし絵を描くためなら写真でも良いかもしれないが、舞ちゃんが描くのは小説だ。
小説は文字のみで表現しなければならない制約がある以上、作者が表現した景色は全て読者任せになる。そうなれば視覚情報だけでなく耳や肌で感じる情報はとても大切になる。
今日の天満は本当にどうにかしちゃったのか、やけに舞ちゃんに優しかった。
「それもそうねリイチ、ありがとう。動画で撮ってみる」
制服じゃないからなのか、今日はやけに優しい天満にも少しずつ心を許して来たのか、舞ちゃんも珍しく素直にお礼を言った。
その二人のいつもとは違う関係に、これはもしや恋が始まってしまうのか! と嫌な感じがした。
「じゃあ僕が上でフキノトウを広げるから、マイはしゃがみこんで少し奥まで小人が歩いてる感じで進んでみて?」
「え……でも……」
「大丈夫、僕を信じてよマイ」
素手でフキノトウを押し広げ、信じてくれと言う天満は、男の俺から見てもイケてた。そしてそこまでして舞ちゃんに協力しようとする天満に、もしかしたら天満は昔から舞ちゃんの事が好きだったのかもしれないと思うと、頑張れという感情が芽生えた。
「……分かった!」
そんな天満の健気な姿に天も味方したのか、逡巡はしたが舞ちゃんは信頼したように明るい表情を見せた。
正直二人にはちょっと羨ましい気持ちがあった。小学校から幼馴染で、普段から仲が悪くて、でもお互い愛着のある名前で呼び合う。それは俺が理香と呼ぶのとは違い、ずっと深い絆があり、ずっと強い想いがある。
多分二人は俺と理香よりはずっと遠い距離にいるはずなのに、何故かいつでもお互いを触れる距離にいるような気にさせる。
そんな腐れ縁のような関係に、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ羨ましかった。
「じゃあ行くよマイ」
「いつでも良いよリイチ」
今の二人にはしっかりとした信頼関係が築かれたようで、声を掛け合うと天満がフキノトウを広げ、舞ちゃんは臆する事無く頭を突っ込んだ。
その姿は、特に女子高生の舞ちゃんがするにはあり得ない姿だったが、とても愛が溢れていた。だが……
「あっ! カタツムリ!」
「ぎゃっ!」
フキノトウを広げていた天満は葉の裏にいたやたらデカいカタツムリに驚き、慌てて手を放した。すると音が立つほど結構な勢いでフキノトウの森が閉じ、舞ちゃんを両サイドからプレスした。
突然の強襲を受けた舞ちゃんは挟まれた瞬間潰れた蛙のような声を上げ、体を捩りながら物凄い勢いで下がって来た。そして……
「ちょっと何すんのリイチ!」
間髪入れず両手で天満を突き飛ばした。
「ご、ごめんマイ! だってカタツムリいたんだもん!」
「知らないわよそんなの! 私なんてフキノトウに挟まれたんだよ!」
ぼさぼさになった頭に千切れた葉を乗せる舞ちゃんが怒るのは無理もなかった。多分俺だったら天満をぶん殴ってる。
「だって……」
「だってじゃない! リイチを信じた私が馬鹿だった! もうリイチは理香のとこでも行って!」
「う……うん……ごめんマイ……」
あっちへ行けと言われる天満も、まるで不良品は理香の所へと言われる理香も可哀想だった。それでも天満が犯した失敗はそのくらい言われても仕方が無かった。
「ねぇ宮川君。あっちにトイレあったよね?」
「え? あ……うん」
「私顔洗いたいからそこ行こう?」
「う、うん」
「じゃあ行こう」
「うん」
もし天満があのままカッコ良くフキノトウを押さえつけていれば愛が芽生えたのかもしれない。しかしそれはたらればかも知れない。肩を落とし遠ざかっている天満を見て、そう思った。
そんな悲惨な出来事があったせいか、俺と舞ちゃんはさらに仲良くなり、恩恵を受ける事になる。




