東の果ての海
この作品はノンフィクションです(嘘)
「なますてー。いらしゃませー」
12:45、バルミナは今日最初の客に声をかける。
「ごちゅーも、なにしますかー?」
彼女の声が店内に響き、厨房にいたスラジはナンを焼き始めた。
コンロからはカレーを温める香辛料の香りと、タンドールからナンが焼かれる甘い匂いが漂う。
だが結局、今日のランチタイムに来た客はこの1人だけだった。
彼らの経営するアンナプルナは私鉄I線のN駅に1年前にオープンしたインドカレー店。
ラムダイ、ラムバイの兄弟、近所に住んでいたスラジ、スラジと交際していたバルミナの4人が故郷、ネパールから来日して、インドカレー店を始めたのだ。
N駅の隣、H駅は私鉄の乗り換え駅でそこそこ乗降者数も多い。東口には以前からインドカレー屋があり、さらに商店街を少し離れたところにもう1店舗、西口にも新しいインド・ネパール料理店ができた。
だが、その隣のN駅にまで2軒のインドカレー屋があるのはどういう訳なのか。電車はI線しか通らず、乗降者数も決して多くない。しかも隣のH駅までは1kmもなく、歩いて行けるほどの距離だというのに。
都内には多くのインド料理屋が狭い範囲に乱立しているのはなぜなのか。そして、バルミナたちのようになぜインド人ではなくネパール人なのか。
インド人を偽るネパール人。
ここにはブローカーの存在が影響していた。
タンドール・ブローカー。そう呼ばれる存在のせいだ。
タンドールとは、ナンやタンドリーチキンの調理に使われる、巨大な円筒形で粘土製の壺窯型オーブンのことだ。総重量は優に100kgを超える。
これを飲食店に納入する日本人ブローカーこそが、インド・ネパール料理の増加を後押ししているのだ。
彼ら4人を日本に連れて来たという田中は言う。
「タンドールを店舗に入れると、1台につき4人、ネパール人料理人の就労ビザ発給を受けられるんだよ。
向こうには、日本行きを斡旋するブローカーがいる。手数料?高額だよ。でも日本で稼いで故郷に錦を飾りたいネパール人は、親戚中からカネをかき集めて支払うんだ」
ネパールと日本の物価はおよそ10倍違う。日本から100万円送金すれば、現地では1000万円の価値となるわけだ。
「2000年代には、一人当たり300万円ほどが日本の法人に入ったんだよ。4人なら1000万円を超えるので、そのカネでネパール料理店を開業できた。
そのうち日本の不景気が知られて、そんなうまい話はないってんで1人当り100万円弱か。それだと新規開店には足りないから、手数料だけ受け取って、タンドールを別のブローカーを通じて転売。料理人も解雇するようになった。向こうも最初からわかってて、自分たちで他の仕事を見つけるのね。
でもそればっかやってると今度は法務省から目付けられるんで、今は居抜きの店舗使ってとりあえず開業させるのが主流。店がうまくいけばそのままやってもらえばいいし、ダメなら転職だ」
アンナプルナもそうした居抜き店舗だ。N駅のもう1つの店舗も3か月ほど前に潰れたが、また新しいインドカレー屋になっている。
休憩時間、バルミナに聞いてみた。簡単に掃除をした彼女は、窓際の席に座り、インテリアの白い球状のものを日にかざしている。
――それは何?
「うにのほね」
彼女の持つそれは海栗を骨格標本にしたもので、放射状に模様の入った、ランタンのような、ミカンのような形状をしていた。窓際にはそれが3つ、4つと並んでいる。
――それはどうしたの?
「ざっかやさんで、みつけた」
――海栗好きなの?
「こっちにきて、うみはじめてみた。うに、かわいい」
ところでこの店にはバルミナとスラジの2人しかいない。ラムダイ・ラムバイの2人はどうしたのか。
「タナカさんがつれてた。とまりのしごとでかせがせるっていって」
ブローカーの田中に連れられて、稼げる泊まり込みの仕事に行くと言い、店を出ていってしまったのだ。そして戻ってこない。連絡も無いという。
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営業時間が終了、雑誌の取材も帰り、店にはスラジとバルミナのみが残された。
店を片付けると、スラジは机を隅に寄せ、バルミナは店舗の奥のロッカーからマットを引っ張り出して店の真ん中に引いていく。
自室などない。ここが彼らの住居でもあるのだ。
この数か月、夜ごと、スラジはバルミナの身体を求めるようになった。
息を荒げるスラジ、彼が動くたびに染みついた香辛料の複雑な香りがまき散らされる。スラジの身体の下、バルミナは窓に顔を向けた。白い海栗の骨が、薄暗い部屋の中で浮き上がって見えた。
翌朝、スラジがバルミナに声をかけた。
『ちょっと出かけないか』
珍しいことだった。バルミナは頷いた。
『その、飾りも1つ持っていこう』
スラジは窓際の海栗の骨格標本を指さした。
バルミナは首を傾げつつ、標本の中で一番気に入っている、少し赤みがかった骨を手にし、そっと布に包んだ。
『行こう』
そう宣言してから、スラジは黙々と朝の町を歩き、電車に乗った。40分ほど電車を乗り継いで、そこから歩き、
『お寺に行きたかったの?』
スラジが足を止めたのは、立派な神社の前だった。
外国人向けに英語や中国語でも案内が書かれた板の前に向かう。
「すい、てん、ぐー」
『それがこの神社の名前。祭ってる神様の名前を読んで』
「あめ……のみな……かぬし。あめみな……あめのみなかぬし」
『続きは?』
「あめのみなかぬし あず う゛ぁるな……ヴァルナ!?」
『そう、君の名だ』
バルミナという名前は、ヒンドゥーの神、ヴァルナに女性を表すミナを加えてつけられた名前だ。
『君の神が祭られた神社だ。……バルミナ、すまない』
スラジは深く頭を下げた。自分が彼女を誘って日本に来たのに、苦しい思いばかりさせていることを謝罪した。
『許すわ。でもどうして急に?』
『昨日、君の視線を追ってはじめて気づいたんだ。
この1年で君に買ってあげられたのは、その海栗の置物くらいしかないと』
バルミナは布から海栗の骨をだす。そしてこの1年を振り返り、確かにそうかもしれないと思い、頷いた。
『バルミナ、ぼくはヴァルナに誓う。今更かもしれないけど、ぼくたちの店のために全力で動くと。日本語も覚えると。バルミナを幸せにすると。
だから、だからまだぼくの隣にいてくれ。結婚しようなんてまだ言えない。でも、見捨てないでくれ』
スラジはバルミナの手を取り、崩れ落ちるようにひざまずいた。
周囲の参拝客が興味深そうにこちらを見つめるのに困惑しつつ、スラジを抱き起こした。
スラジの指をとり、案内板のご利益のところを指ささせる。
『次はこのために連れてきて』
“devoted to conception and safe childbirth”
「あ、あー。あんざーんきがーん」
スラジは赤面し、バルミナを抱きしめた。
ヴァルナ=水天宮=天之御中主神