第二十九話 白昼の密談
一橋慶喜に呼び出された阿部正弘が、相談を始めます。
慶喜は考える。
今回、阿部正弘を呼んだのは、異国派遣団と国防軍の名目で集めている兵が強大過ぎるからだ。
確かに、清国を破ったと言われる異国の軍を撃退する為には、軍の強化が急務であろう。
その為に、参勤交代を軽減して、予算を確保したこと、国防軍を新設したことも間違ってはいない。
その上で、旗本の批判を避ける為に、国防軍を家から切り離し、世襲ではなく、一代限りとしたことも、国防軍編成実現を確実にするには正解であったろう。
同時に、各藩の侍を集め、一つに編成して、中央で強化することは、異国に対抗する上で強力な力となることだろう。
実際、その説明で、他の連中も納得している。
だが、その国防軍の組織及び指揮はどうするのだ?
それが慶喜の持った疑問だ。
もし、江戸に集められた侍たちが、幕府が用意した武器を持って、統一した指揮の下、謀反を起こせば、江戸に住む旗本連中などに止める力はないだろう。
阿部正弘が、伝統と慣例に寄りかかり、現在の現実を見ない愚かな幕閣に見切りをつけ、力を付けてきた西国の外様藩を取り込み、幕府を強化しようとするのは、理解してきた。
だから、働きたくもないが、将軍候補となることも容認してきた。
だが、今回はやり過ぎではないか。
幕府の指揮の外に強大な軍を作れば、謀反を起こさないにしても、幕府軍と国防軍が対立し、日ノ本が分裂する原因になりかねない。
あるいは、その辺りまで考えておらず、単なる見落としかと思っていたのだが、どうも、阿部正弘には、表立って話せない目論見があると言っている。
そこで、慶喜はまず、一番気になることを確認してみることとした。
「何なりと聞いて良いなら聞かせて貰おう。
国防軍の指揮について。あの軍の指揮は誰が取るのだ」
そう言われて、阿部正弘は平然と答える。
「それは、将軍様でございます」
その言葉を慶喜は鼻で笑う。確かに、建前ではそう答えるしかないだろう。
だが、今の将軍は、病弱で実際に軍の指揮など取れる様な状態にないことなど、誰でも知っていることだ。
「その位のことは解っておる。わしが聞いておるのは、実際に誰が指揮を執るのかということなのだ。
伊勢守、そなたがあの軍を動かすのか」
もし、阿部正弘が、国防軍の指揮を執るのだとすれば、それは鎌倉幕府の実権を奪った執権の北条氏と変わらないだろう。
そうでないとするなら、目的は何だ。
慶喜が、その様なことを考えていると阿部正弘が答える。
「まさか。私には、その様な力はございません。それに、私は老中としての立場だけでなく、阿部家当主の立場も、福山藩主の立場もございますからな」
その返事を聞いて、慶喜は阿部正弘の考えを確認する。
「そうか。そなたには、あれほどの大軍を指揮する力はないか。
そうだな。異国から日ノ本を守る為の大戦の指揮を執るのだ。
老中筆頭を務める名門のそなたでも、力が足りぬ。
必ず、勝てる能力のある者に任せねばならぬわな」
「は、仰せの通りでございます。ですから、私などでは、とてもとても」
そう言われて、慶喜は阿部正弘が国防軍を血筋や家柄ではなく、能力に準拠した組織にするつもりであることを理解する。
確かに、異国の侵略に対抗する為には、血筋による正統性など、何の役にも立たないだろう。
問題は、その能力をどの様に判断し、任命するかという事だろう。
そう考えて、慶喜は尋ねる。
「では、誰に任せるのだ。この太平の世、誰が戦上手などかはわからぬであろうが。
まさか、島津殿に任せるとでも言うつもりか」
徳川幕府最大の仮想敵国、薩摩藩と親しい阿部正弘に対し、皮肉混じりに慶喜が尋ねると、阿部正弘が答える。
「はて、島津殿でも難しいでしょうな。
島津殿は、薩摩藩の藩主であり、島津家の当主でもあられる。
その様なお立場があれば、どうしても、日ノ本全体の為に動くことは出来ぬでしょうからな」
そう聞いて慶喜は考える。
なるほど、国防軍の指揮を執る者は一代限り、実力主義で、藩からも、家からも断絶していなければならないという事か。
確かに、それならば、日ノ本を安心して任せることが出来るかもしれない。
その上で、軍の任命権を幕府で握るならば、何とか支配することは出来るだろう。
だが、家や藩から離れていることを条件とするならば、同じ条件で異国視察団に参加する水戸の親父殿か、掃部頭(井伊直弼のこと)辺りが国防軍の指揮を執ることになる可能性が高そうなのだが、その辺を伊勢守は解っているのか。
あるいは、そこまで理解した上で、こちらが言い出すことを待っているのか。
全く、この男は、いつも自分では提案をせず、こちらから提案するように仕向けおる。
かと言って、阿部正弘の思い通りに動くのも癪だと思い、慶喜は国防軍に関する他の疑問を聞くことにする。
「なるほどのう。それでは、なかなか国防軍の指揮を任せる者を決めるのも難しそうではあるな。
ところで、聞いたところによると、集めた侍、皆にオランダ語を学ばせているそうではないか。
戦う為の兵に、異国の言葉を学ばせるなど、無駄ではないか」
「異国から我が国を守る為には、まずは戦船を用意し、秋津洲への上陸を許さないことが第一。
その為に、小笠原にオランダ人を呼び、海軍操練所を作り、黒船の動かし方を学ぶ準備をしております」
「オランダ人に船の動かし方を学ぶから、オランダ語の勉強をさせる必要があるのはわかる。
だが、全員を船乗りにするつもりか?
さすがに、数万人の兵を乗せる船を作ることは難しかろう」
「はい。仰せの通り、全員を船に乗せることは難しいでしょうな」
「ならば、何故、皆に異国の言葉を学ばせる。
水戸学で頭をガチガチにしている連中は、皆に異国の言葉を学ばせるなど国辱だと憤慨しておるぞ」
「ここに集めた者は、異国に行く者、異国と戦う者でございます。敵を知らずに、勝つことは難しいかと」
「その為に、皆に異国の言葉を学ばせるという事か」
「皆ではございません。
今回の招集で自ら集まってきた者たちは、最低でも部隊の長を任せる幹部にするつもりでございます。
異国からの侵略に対抗する戦力を用意するには、数万程度の兵では足りませぬ。
武士だけではなく、民草、百姓にも戦って貰う必要があるのです。
今回の招集は、その第一歩。
最終的には、日ノ本の民、皆を兵にする国民皆兵を考えております」
「民草、全てを兵にするか。随分と大きなことを言うではないか。
その様なこと、頭の固い幕閣の連中が許すとでも」
「あくまで、民草は兵。それを指揮するのは、国防軍の幹部でございますから。
身分制度を壊す物ではございませんよ」
阿部正弘が飄々と答えると、慶喜は苦笑する。
確かに、幕府の外にある国防軍の更に下に、民草の兵がいるのであれば、身分制度を壊すとは言いにくいだろう。
もっとも、国防軍自体が、身分を問わず募集されている。
という事は、最終的に指揮を執るのは、武士という身分ではなく、能力という事になるだろう。
つまり、国防軍を徹底的な実力本位の組織にするつもりか。
そういう阿部正弘の考えを理解した上で、慶喜はその問題点を指摘することにする。
「そうか。だが、民草が国を守る為に、戦うと思うか?
これまで、ずっと民草には、我ら武士に従え、武器を取るな、戦うなとしてきたのだ。
それを急に戦えと言ったところで、簡単に国の為に命がけで戦おうという気になるとは、わしは思えぬぞ。
少なくとも、今までよりも、住みよい世を作り、この国を異国から守りたいと思わせる必要がある。
そんな事が出来るのか、伊勢」
「は、微力を尽くさせて頂きます」
阿部正弘はそう言うが、幕府はこれまで民草の支持など関係なく政を行ってきた。
果たして、命がけで異人と戦ってまで日ノ本を守りたいという気持ちにどうすれば出来るのか。
その為には、おそらく、最低でも、この国を今より豊かにする必要がある。
今よりも良い生活を保障されるなら、兵として訓練に参加し、いざと言う時に異国と武器を持って戦うこともしてくれるだろう。
とすると、異国との交易を成功させて、国を豊かにするべきか。
そう考えて、慶喜は話題を変える。
「そうか。尽力せよ。
ところで、イギリスという国からも、視察の申し入れがあったと聞いたが、事実か」
「はい、事実でございます」
「アメリカには、掃部。ロシアには、親父殿が行くことが決まっているはずだが、
イギリスには誰が行くか、既に決まったのか」
「いえ、まだ正式な要請が来ている訳ではございませんし、イギリスに行くのならば、イギリスだけでなく、オランダや、その周辺の複数の地域にも招かれる可能性がございます。
なれば、行くべき方は慎重に選ぶ必要がございますので」
「ふむ。伊勢守にしては、慎重だな。
確か、そのイギリスというのは、清国を倒した国だったのではないか」
「はい。蘭学者の佐久間象山によると、この地球で最強の国家であるとか」
その言葉を聞くと、慶喜は少し考えた素振りを見せた後、爆弾発言をする。
「それは、対応を誤ると大変なことになりそうだのう。ならば、仕方ない。わしが行こう」
その言葉を聞いた周りが声にならない驚愕に震える。
異国の視察団に参加する為には、家を離れなければいけないという条件があるはずだ。
そして、慶喜のいる一橋家は当主がいなくなっても断絶にはならない特別な家柄ではあるが、慶喜は次期将軍候補とされている人物。
慶喜が異国の視察に行くという事は、次期将軍の座を明け渡すことに等しいのだ。
「その様なことは、軽はずみに決めるべきことではございません。
慶喜様を次の征夷大将軍にと押す方々もいらっしゃいますから」
自分が筆頭で慶喜を次期将軍に押していたくせに、ヌケヌケと阿部正弘が諫めて見せる。
その様子を見て、阿部正弘の誘導通りに動かされたことを理解し、慶喜は大見得を切る。
「余が望むのは、この国の平和と安寧だ。一切の地位を望むようなものではない。
余を将軍にと押してくれる者がいることはありがたいが、他にも将軍になりたいという者がいるなら、余は喜んで、その座を譲るぞ。
今は国難。
将軍争いの様なことで、万が一、対立し、国が割れたら何とするか。
まだ、お若い紀州殿がやりたいと言うならば、余はそれを支えるだけだ。
伊勢からも、方々にお伝えしておいてくれ」
慶喜がそう言うと、周りはその無欲さに感心する。
まあ、慶喜としては、本音では、無欲ではなく、面倒だから将軍になどなりたくないというのが事実なのだが。
こんな国難の中、将軍になるなど大変なだけ。
仕事などせず、趣味を楽しみたいというのが彼の本音。
勿論、このことによって、阿部正弘の目論見通り、井伊直弼ではなく、慶喜が国防軍を実際に率いる立場へと任命されることになるということもわかってはいるのだが。
せめて、異国視察は楽しませて貰おうと考える慶喜であった。
こうして、一橋慶喜が一橋家を返上し、欧州使節団の長となることの根回しが進んだ頃、平八の夢ではなかった事態が起きる。
アメリカ船、ポーハタン号の江戸湾再来である。
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