第二十八話 KING OF ボッチ
各地から江戸に、学者、技術者、侍が集まる中、動き出す男がいます。
一橋慶喜は数奇な運命を歩んだ男である。
彼の事を話すには、まず徳川幕府の歴史から語らねばならないだろう。
徳川幕府は、武士の政権の中では最も長く一つの血統の下、権力を維持し続けた政権である。
平家の政権は数十年、鎌倉幕府も源頼朝の血筋は3代しか持たず、その実権を奪った北条執権も100年程度しか権力を維持出来ていない。
その後を継いだ足利幕府も三代足利義満の時代までは日本全土の実権を持つことは出来ず、統一後も応仁の乱で100年程度で実権を失っている。
これに対し、徳川幕府は250年という長期に渡り、徳川家康の血統が実権を持ち続けている。
それは、徳川家康の政権維持の為の執念から始まったと言えるだろう。
これを戦のない平和な世を続ける為だという見方もあるのかもしれないが、彼の子孫のやり方を見ると、天下万民の為というよりは、権力を自分の子孫の物にしておきたいという執念だったとみるのが正解だろう。
家康は徳川幕府維持の為に様々な策を講じたが、自分の血統を残す為に考えたのは、直系が絶えた場合に備えて予備である水戸、尾張、紀州の御三家を用意することだった。
だが、そこに、最初の亀裂の芽が生まれる。
同じ家康の子孫であるはずなのに、将軍に仕えなければならないとされた御三家の中に不満が生まれ、水戸黄門で有名な徳川光圀が、将軍は天子(天皇)様に任命されただけに過ぎないという尊王を旨とする水戸学を始めてしまうのだ。
水戸学を始めた当初は、もしかすると、将軍家への嫉妬から始まった物であったのかもしれないが、尊王の思想が広がっていき、250年後に幕府に牙を剥くことになるのである。
だが、それ以外は、御三家の存在は有効に機能し、徳川秀忠の血統が途絶えた時には、紀州家の吉宗が八代目将軍となる。
吉宗は、ケチの家康の子孫らしく、自分の子孫が将軍職を独占することを目指し、新たに田安家、一橋家、清水家の三家を作って(御三卿)、江戸城内に住ませ、この三家から将軍を出すように決める。
この御三卿は、藩、領地、領民、独自の家臣を持たず、江戸城に住んだことから、強い政治力を持つこととなるが、同時に当主がいなくても家が断絶することなく続くことが許されたことから、嫡子はおろか当主であろうと他藩に養子に出されるようなことがあった。
そのことが、一橋家から十一代将軍となった徳川家斉の養子戦略を可能とする。
家斉は、なんと、その生涯で55人もの子を作り、その子達を全国の親藩に押し付けることにより、自分の血統による全国支配を試みたのである。
彼の戦略は、ほぼ成功し、御三家も、御三卿も家斉の子孫に支配されることとなる。
唯一、尊王を旨とする水戸学を唱える水戸藩の九代目水戸斉昭を除いて。
この水戸斉昭の七男として生まれたのが慶喜である。
ここで歴史の皮肉が起きる。
家斉を出した一橋家の当主が跡継ぎを残さず病没してしまうのである。
一橋家の血統での全国支配を夢見た家斉の出身である、肝心の一橋家の血統が途絶えてしまったのである。
その結果、阿部正弘の尽力もあり、御三家、御三卿の中で、唯一、一橋家の血を継がない慶喜が一橋家を継ぐことになる。
慶喜はこの様に、家斉の血が支配する徳川家の中での非主流派であり、血統的な味方は水戸藩と水戸藩の子孫が養子となった尾張藩しか存在しなかった。
一方、彼の母である斉昭の正室、吉子女王は皇族であり、血統的には高貴であり、幼い頃から利発にして聡明とされており、阿部正弘及び水戸藩、尾張藩、外様大名などが次期将軍として支持しており、新たな政権の核とすることを考えていた。
これは、阿部正弘がもはや異国の侵略という国難に対処する能力なしと従来の幕閣の能力を見限り、西国の開明派の雄藩を取り込み、新たな組織を作る上で、家斉の血統による柵に囚われない慶喜を選んだ為であり、また、暴走しがちな水戸藩を抑止する為にも有効だと考えていた為であろう。
この様な立場の慶喜であるが、噂通りに聡明であるかもしれないが、同時に独自の価値基準を持っていたと思われる。
一橋派として将軍に応援されながら、本人には将軍になりたいという意思はなく、後に安政の大獄で、隠居慎とされ、幕府の監視の下、部屋で正座のまま裃を着て、誰とも会えず、本を読むしかない様な環境でも淡々とやり過ごしている。
これは、慶喜だけが出来たことである。
通常、常に監視され、正座も崩せない蟄居あるいは慎みとなると、精神的に大きく消耗し、憤死したり、仕事を続けられなくなる人間ばかりだったのである。
慶喜が耐えられたのは、若さという理由だけでなく、一人で仕事もなく、本を読んでいるという環境が、彼の性に合っていた為であると考えられる。
また、平八の夢で見た未来で、慶喜は皇国の摂政を四十年に亘り勤め公武合体を完成させたが、あの時、睦人親王様が逃げ込んでこなければ、とっとと負けて、日ノ本を分裂させないで済んだし、こんな面倒な仕事を長く続けずに済んだのになと言う言葉を残し、聞いた者を唖然とさせたとされている。
その慶喜から呼び出しを受け、阿部正弘が慶喜のもとに向かうと、挨拶もそうそうに慶喜は阿部正弘に問い掛ける。
「伊勢守(阿部正弘のこと)、そなた、何を企んでおる?」
「はて、企むとは何のことでございましょうか」
「今回の異国派遣団と国防軍のことだ。
従来のバカな幕閣を排除する為に、そなたらが、わしを巻き込んだのだ。
方針を変えたなら、そなたから説明に来るのが礼儀であろう。
それで、説明に来るのを待っていたのだが、一向に説明に来ないようなので、呼び出したのだ。
そなたには、わしに説明する義務があろう」
「異国派遣団と国防軍は、異国から我が国を守る為のもの。企むと言われても」
阿部正弘がそう応えると慶喜は鼻で笑う。
「ふ、あまり、わしを舐めるな。わしは親父殿ほど、単純ではないぞ。
わしが、権現様(徳川家康)の再来と思えるほどの聡明さだと噂を流したのも、そなただろう。
それなのに、わしが裏を見抜けぬほど、愚かだと思うのか」
慶喜が言う通り、慶喜の聡明さを喧伝したのは阿部正弘自身だ。
そもそも、一橋家は領地も家臣もいない家だ。
幼いのに藩を運営し、成果を上げたのであるならば、聡明さを示すことも出来よう。
だが、領地もない家で一体、どうやって聡明さを示すことが出来るのか。
まして、慶喜は、この時、まだ17歳に過ぎない。
元服が終わって数年も経たない青年の聡明さに、周りの人間が感心するはずなどないのだ。
だから、従来の幕閣を排除する口実とする為に、阿部正弘は、慶喜の聡明さを喧伝し、慶喜の将軍継嗣に説得力を持たせよういう政略を行ったのだが、阿部正弘の想定していた以上に、慶喜は本当に聡明であったのだ。
もっとも、実際のところ、慶喜は噂に流した家康とは大きく異なる点がある。
家康は家臣の意見をよく聞き、皆が納得し易い形を取ることを好んだが、慶喜は独自の家臣を持たない一橋家を継いだ影響もあるのか、一人で考え、一人で決めることを好み、誰かの意見を聞いたり、相談することをあまりしない傾向にあった。
その慶喜がわざわざ聞いてくるのだ。
彼の機嫌を損ねない為にも、ある程度の情報を与えておいた方が良いのだが、江戸城の中、他の幕臣の目がある中で、詳しいことを話す訳にもいかず、言葉を選んで応えることにする。
「裏と申されましても、その様なものはございません。
まあ、本当に何かを企んでいるとしても、ここではお話出来ないことでございましょうが」
そう言われて慶喜は、阿部正弘に何らかの企みがあるが、ここでは話せないことであることを理解する。
と言っても、ここで人払いをしてしまえば、何かを企む阿部正弘と慶喜が密談をしたという噂がながれてしまう危険があるだろう。
そこまで考えて慶喜は、阿部正弘から他の者に、気づかれないように情報収集する方法はないかと考えて、改めて尋ねることにする。
「そうか。そうか、何も企んでおらぬか。よくわかった。本当によくわかったぞ、伊勢守。
だが、わしの様に、そなたが何かを企んでいると誤解する者もいるやもしれん。
もし、わしの様に誤解する者がいれば、わしからも説明しよう。幾つかのこと確認させてが貰えぬか」
阿部正弘は、慶喜が本当に彼の意図を理解したことに安堵しながらも、表情には出さず応える。
「は、何なりと」
歴史のうねりに新たな流れを生み出すこととなる、阿部正弘と一橋慶喜の密談が始まる。
これが、私のイメージする慶喜という男なのですが、皆さんのイメージと重なりますでしょうか。
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次は水曜に更新予定です。




