第二十三話 江戸に集められた人々 薩摩藩
樺太で水戸藩士を中心とした吉田寅次郎の勉強会が進む間、江戸でも動きがあります。
政治の基本は、潜在的な敵対勢力を自陣に組み込んでしまうことだと言う。
自陣に引き込めば潜在的な敵だった勢力は、陣営内の主導権を握ることに夢中になり、とりあえず、本格的な対立、大規模な武力闘争に陥ることを避けられるからだ。
その点を解っている阿部正弘、島津斉彬、佐久間象山らは、平八の夢を参考にして、この際、日本中から、様々な人々を集め、国防軍に参加させるよう誘導することにした。
薩摩藩には、島津斉彬から西郷吉之助(隆盛)を通し、大久保一蔵(利通)に声が掛かり、彼の率いる精忠組及び斉彬が近代化を進めてきた軍隊が江戸へと向かうこととなる。
精忠組の主な構成員は、斉彬が藩主になる時のお家騒動で冷や飯を食わされた者達の子供たち。
もともと、斉彬のお呼びが掛かったという事実を隠したおかげで、冷や飯を食わされている連中が幕府の命で藩を捨てるかと馬鹿にされることはあったものの、大久保が必死で彼らの怒りを宥め、比較的簡単に薩摩を出ることが出来た。
また、薩摩で今も権力を握る蘭学嫌いの前薩摩藩藩主斉興は、斉彬の進めていた近代化した軍隊の真価も理解せず、幕府に目を付けられる恐れのある厄介者を薩摩から追い出せたと喜んでいたという。
しかし、この時点の薩摩藩と言うのは、日本の最大戦力。
250年の太平の世で、牙を抜かれ、遊び惚けていた旗本とは全く違う。
元々、尚武の気質があり、議論よりも腕っぷしで決着を付けたがる薩摩が、斉彬の主導の下、技術革新を行い、軍備の近代化を進めた軍隊だ。
これが弱いはずがないのである。
斉彬の死後は、幕府を恐れた前藩主斉興が、幕府に警戒されない為に、これらの近代兵器を破却し、蒸気船を自沈させ、戦力を低下させている。
だが、それでも薩英戦争では、イギリスに想定以上の被害を与えて、日本のイギリスによる直接統治を躊躇させる一因となり、平八の見た夢でも、戊辰戦争で慶喜が海軍による逆襲に転ずるまでは、最強集団であり続けたのが薩摩藩なのだ。
自惚れではなく、島津斉彬に倒幕の意思があれば、この時点で幕府を倒すことが出来ただろう。
その軍隊が江戸に向けて動き出す。
だが、斉彬に倒幕の意思はない。
斉彬の視野から見れば、日本の主導権争いなどは些事に過ぎず、西洋列強諸国の侵略の魔の手から日本を守ることが第一だったのだ。
その点、斉彬の死後、薩摩の後継者たちが、幕府、朝廷、長州、会津らと、国内の主導権争いをしてしまい結果として、日本を分裂させ、異国の従属国となってしまうだろうという平八の夢は、斉彬に少なからぬ衝撃を与えていた。
薩摩の軍備の強化も近代化も、全ては異国の侵略から日本を守る為のはずのものだったのだ。
それが、幕府に牙を剥き、日本分裂の要因となってしまう。
それは、斉彬にとって悪夢としか言えないものであったが、同時に自らの驕りを自覚する良い機会にもなっていた。
斉彬は、自分が生きている間に日本を統一国家とし、西洋列強に対抗しうる国家とするつもりであった。
だが、自分が早世した場合の対策が足りなかったことを思い知らされたのだ。
その結果、阿部正弘と島津斉彬は佐久間象山の策に乗ることを決意する。
一気に中央集権化を進め、薩摩から軍の近代化を進めるのではなく、近代化してきた薩摩の軍をそのまま象山の提唱する国防軍の中核へと移行してしまうのだ。
それは、薩摩藩の軍の弱体化を示すものであり、同時に他の藩が武力では逆らえない巨大な戦力が日本の中核に生まれることを意味していた。
これで、斉彬自身に万が一のことがあった場合でも、内乱勃発の可能性は減少するはずであるが、斉彬はそれでは満足せず、自分の遺志を継ぐものとして、西郷、大久保を薩摩藩邸の茶室に呼び出すこととしたのである。
「遠路はるばる、よく江戸まで来てくれた。まずは一服してくれ」
そう言うと、斉彬は茶を立て、西郷、大久保と口を付けて行く。
4月から御庭番として斉彬から直接指導を受けてきた西郷はともかく、大久保は緊張を隠せない。
この当時の薩摩は、他の藩と比較しても、身分差別の激しい藩だ。
大久保は決して差別される下級武士階級ではなかったが、
それでも、藩主である斉彬に簡単に会えるような身分ではなかったのだ。
それが茶室で三人だけで饗応を藩主斉彬公から受けている。
緊張しても仕方のない状況である。
これに対し、斉彬は、この時代随一の開明的な君主。
アメリカ帰りの漁師中浜万次郎と話し合い、その身の安全を心配するような人物だ。
身分などに関係なく、能力で人を判断する彼にとって、平八の夢で見たと言う大久保という人物は非常に興味深い人物であり、まず、その人物を見極めようと考えていた。
二人が一服すると斉彬が尋ねる。
「さて、今日、来て貰ったのは、他でもない。私の考えを聞いて貰いたいと思ってな」
そう言うと斉彬は自分の考えを単純に押し付けるのも面白くないと考えなおし、二人の考えを聞いてみることにする。
「だが、その前に、お前たちの知っていること、考えを確認してみるか。
まず、率直に聞こう。
大久保、昨年、アメリカの黒船が来てからの幕府の動き、薩摩にはどのように伝わっている?」
斉彬に声を掛けられ大久保は平伏しそうになるが、斉彬本人に平伏を止められ、大久保は斉彬が何を聞きたいのか考え、斉彬の顔色を見ながら答えることにする。
「去年、黒船が来た時は、幕府は黒船にいいようにやられた腰抜けじゃ言うとりもした。
今年に入っても、その声は消えもはん。
黒船を追い返したもんの、自分だけじゃ日ノ本を守れず、今度は薩摩を始め、外様大名にまで助けば、求むる始末。
幕府も大したことないと皆言うとりもす」
「そうか。それで、大久保は幕府を腰抜けだと思うか」
「いや、恐ろしかことじゃと思うとりもす。
幕府は、なりふり構わず、力を集めようしちょりもす。
おそらく、このままでは、日ノ本で幕府に対抗出来る者は誰もおらんようになっやろうと思いもす」
「そうか。実は私も幕府の強化には賛成しているのだがな。何故だと思う」
「・・・黒船ですか。追い返したと聞いちょったが、そう単純ではなかちゅうこってすか」
「そうだ。黒船は異国の力の一端に過ぎん。
あの船を作り、日ノ本に送り出せる、異国の力そのものを見なければならん」
そう言われて考え込む大久保を見て、斉彬は平八の夢通り、鋭い人物であることに満足する。
薩摩は長年、幕府に虐げられてきた藩だ。
幕府の所為で腹を切らされた人間も少なくない。
だから、噂話も悪意に満ちた過小評価に陥る傾向があるようだ。
だが、大久保は、その中から異国の情報もなしに、自分の頭で考え、事実を掴もうとしている。
「西郷、付け加えることはないか」
「おいは、でくのぼうで、一蔵どん程、賢うなかで、斉彬様に教わった以外のことは、わかりもはん」
「構わん。言ってみろ」
「異国の力は凄かもんで、薩摩どこっか、日ノ本中の力を集めても今はまだ敵いもはん。
じゃっで、時間ば稼ぎ、交易して儲けて、国ば守れるようにせんないけん」
西郷が自分の考えを理解してくれているようなので、斉彬は満足して頷く。
西郷は自分でも言うように決して頭が良い訳ではない。
だが、驚くほど、素直で真っ直ぐだ。
だからこそ、自分の懐刀として、大事に育てて行きたいと思っていたのではあるが。
斉彬がいなくなった後の行く末が、異国に侵略の隙を与えてしまう内乱の親玉と言うのではやりきれない想いがある。
もし、彼らが倒幕に走るとすれば、これまでの幕府への恨みが爆発するのか。
幕府が存在するだけで、国が変わらないという判断なのか。
それとも、幕府に成り代わりたいという野心なのか。
いずれにせよ、その反抗の意思を摘んでおくことが自分の使命であると斉彬は考える。
「そうだ。よく覚えていたな、西郷。
我らは、まず時間を稼がねばならん。
鉄砲も、大筒も、船も、我らは異国に大きく遅れを取っている。
だから、時を稼ぎ、交易で儲け、その間に、異国から学び、追いつかねばならん。
今は遅れていても、必死で追いかければ、我らは必ず追いつくことが出来るはずだ」
そう言うと、斉彬は大久保と西郷を見渡す。
「その為に、お前たちには、藩を捨て、家を捨て、異国への視察団に参加して貰いたいのだ。
そこで、異国の者たちが、どうして発展しているのかを見抜いてきて貰いたい。
学んだことを、この国の未来に生かして貰いたいのだ」
斉彬がそう言うと、二人は息を飲む。
薩摩から視察団に参加する為に来いと呼ばれた時点で覚悟はしていたが、藩主の命令とは言え、藩を捨て、家を捨てるのは、かなり勇気のいることだ。
「それから、ここが一番大事なところなのだが、優先順位を決して間違えるな。
最も大事なのは、この国を守ることだ。
お前たちに藩を捨てて貰うのは、薩摩という藩ではなく、この国の為に働いて貰う為だ。
不要な混乱は避けよ。
異国が干渉する様な隙を与えるな」
斉彬がそう言うと西郷は反射的に目を輝かせて頷いて応える。
「わかりもした」
それに対し、大久保は斉彬の意思が薩摩藩を捨ててでも日本を守ることであることを理解して尋ねる。
「そいは、どげん場合とでも?」
「どんな場合でもだ。
藩に縛られるな。
異国に行き、異国から日ノ本を見てみろ。
地球の中にある日ノ本を考え、日ノ本が生き残る道を考えよ。
日ノ本の中で、主導権争いなどして、異国に付け入る隙を与えるな。
噂に流されることなく、実際に何が起こっているかを見極め、必死で最善手を考えよ」
斉彬がそう言うと大久保は再び考え込んでから尋ねる。
「じゃっどん、おいは異国の言葉ばわかりもはん。
どげんして、異国で学べばよかと」
「異国の言葉がわからねば、学べば良い。
今、幕府はアメリカの言葉がわかる者を講師として、異国の言葉を教えておる。
まず、学んでみよ。
それでも、わからなかったとしたら、異国の言葉の判る者と同行し、何かを掴んでまいれ。
お前たちにしか出来ぬことが、きっとあるはずだ」
そう言われ鼻息荒く頷く西郷と考え込む大久保。
この後、精忠組を始めとする薩摩藩の多くの者が国防軍に参加する中、大久保と西郷は彼らから離れ、英語を学んでいくこととなる。
その結果が、斉彬の望んだ通りのものになるか、全く予想しないものになるかは、まだ定まっていない。
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