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第二十二話 ある水戸藩士の憂鬱

日英交渉は無事に終了。


今回は、樺太に行った、ある水戸藩士から見た樺太の様子です。

どうして、こうなった。

下村嗣司しもむらつぐじはため息を吐く。

俺は、夷狄を切り倒す為に、こんな北の果てまで来たはずではないのか。

それが、一体なんだって、こんな事に。

下村は自分の置かれた状況に頭を抱えたくなった。


始まりは、老中阿部正弘様の北蝦夷(樺太)防衛の要請だった。

どこから聞きつけたのかわからないが、ロシアが北蝦夷(樺太)を占領しようとしているという情報が入ったと言うのだ。

北蝦夷(樺太)と言えば、水戸斉昭公に蝦夷地開拓を進言したという間宮林蔵様が若い頃、命がけで探検し、

その地図を作った土地だ。

その北蝦夷(樺太)にロシアの侵略の魔の手が迫っている。

その上、北蝦夷(樺太)を守れば水戸藩の宿願であった樺太を含む蝦夷地北部の開拓も認めてくれると言う。

水戸学の総本山、攘夷を旨とする水戸藩が盛り上がらない訳はなかった。


江戸に来る黒船には慶喜公が旗本八万騎、彦根藩、薩摩藩などの連合軍を率いて戦うというので、後顧の憂いはない。

おまけに北蝦夷(樺太)派遣軍の総指揮は、斉昭公の懐刀である藤田東湖様が執ると言う。

更にロシアが樺太に上陸している場合は、すぐにいくさになるかもしれないのだ。

水戸藩校・弘道館で水戸学を学び、神道無念流免許皆伝の腕前である下村に、参加志願しないという選択肢はなかった。


この北蝦夷(樺太)遠征に最初に違和感を覚えたのは、藤田先生から無抵抗の夷狄を斬るな、勝手に攻撃を始めるなとの指示が出た時。

水戸学においては、夷狄は穢れであり、すぐにでも排除するべき存在のはず。

それなのに、藤田先生は、今回の樺太出兵はいくさであるから、勝手に行動するな。

夷狄であろうとも、武器も持たずに恭順する者には天子様の慈悲を示せと仰る。

確かに、いくさで個人の功を焦る者が愚か者だと言うのはわかるし、恭順する者を斬るのは卑怯者に過ぎぬと言われれば、理解は出来る。

だが、何かが違うと感じたのだ。


そして、その違和感は事態が進行するにつれて大きくなっていく。


蝦夷地に着くと、既に北蝦夷(樺太)にはロシア軍が上陸し、砦を作り始めているとの報が入る。

それに対抗し、水戸藩の北蝦夷(樺太)遠征軍だけでなく、松前藩もその全軍を率いて樺太に向かうことが決まる。

強大な敵に対して、大軍で当たる。

まるで関ヶ原のようではないか。

戦う為に、その技を磨いてきた武士がついに、全力で戦える時が来たのだ。

それで、高揚しない武士がいるだろうか。


戦船六艘に、大筒、火縄銃を積み込み、樺太に向かってみると、まるで砦のような巨大なロシアの軍艦が聳え立つことに下村は震える。

この様な巨大な軍艦にどう斬り込めば良いのだ。

絶望が心を蝕もうとする中、藤田先生は冷静に諫早(幕府の小舟)に大筒を積み、ロシア軍艦に接近し、いざとなれば大筒を撃つよう指示を出される。

藤田先生たちは、交渉の為に、ロシア軍艦に乗るにも拘らずだ。

その勇気と機転に、下村らは心から感服する。


そして、藤田先生は、大筒を載せて諫早に乗って、ロシア船に向かう者を募集される。

『諫早から大筒を撃てば、ロシア軍艦は沈められるが、諫早に乗っている者も只では済まない。

大筒の反動で吹き飛ばされるか、諫早ごと沈むか、水練に長けた者でなければ命はないだろう。

だから、水練に長けた者だけが参加せよ』

と藤田先生は仰るが、その様なことで参加を躊躇する者はいなかった。

日ノ本を守る為にロシアと戦い、死ぬことが出来る、何という名誉だろう。

その様な名誉あるお役目を躊躇う臆病者は水戸藩の樺太派遣軍には一人もいなかった。


大筒を載せた諫早を十数隻従えて、ロシア船に近づいた藤田先生は、ロシアを降伏させると仰って、ロシア軍艦に乗り込まれる。

決して、指示もなく、勝手に撃つなと念を押して。

そして、藤田先生は、ロシアの降伏を勝ち取られる。

孫子の戦わずして、勝つという奴だ。

あの瞬間の何と、高揚したものであろう。


だが、その結果、待っていたのはロシア人達との奇妙な共同生活だった。

ロシア人など、ロシアへ追い返してしまえば良いと思うのだが、『ロシアの君主の命で彼らは勝手にサハリン(樺太)を離れることが出来ない。

武器を預け、旗を降ろし、イギリスという別の異国が攻めて来た時に一緒に戦いたいから、サハリン(樺太)への滞在を許して欲しい』とロシア軍の艦長に懇願され、

滞在を許したと藤田先生に言われたが、下村の違和感は更に酷いものとなる。


更に、ロシア人達との共同生活は、下村に大きな衝撃を与えた。

水戸学によれば、異国は穢れなのだ。

決して、日ノ本に近づけるべきではない汚物なのだ。

だが、ロシア人達は妙に人懐っこく、陽気だ。

身体は大きく熊のようであるのに、水戸藩の領民を思わせるような純朴さがある。


言葉は判らないが、下村を含む水戸藩士は、徐々にロシア人に敵意を持つことが難しくなっていく。

ロシア人、アイヌ人、そして日本人で、それぞれの食べ物を分け合い、砦の建て方、寒さへの対策などを、身振り手振りで交流をして、相談していき、ロシア人の中には片言の日本語を覚えるものさえいる。

冬を超える頃には、もはや仲間意識の様なものさえ、芽生える者さえいた。

酒好きの下村もまた、酒好きのロシア人と飲み比べ、時に相撲を取り、大いに楽しむようになっていった。


そして、凍り付いた海が割れ、再び藤田先生が戻られ、松前藩からの補給が復活する頃、新たな変化が生まれる。

長州藩の軍学者吉田寅次郎と同じく長州藩桂小五郎の襲来である。


彼らの齎した知らせは、一同を驚愕させるものであった。


「水戸のご老公は、ロシアへと打って出ることを決められました。

そして、北蝦夷(樺太)の日本領有をロシアに認めさせ、彼らの国力を確認し、彼らの技術を奪い取ることを決められましたのであります」


異国へ?打って出る?下村達が混乱する中、吉田寅次郎が続ける。


「打って出るとは言っても、ロシアに攻め込む訳ではございません。

視察として、堂々と我が国を代表し、ロシアの君主に会いに行かれるのです。

ああ、何という勇気。何という気概。何という知略でしょう。

斉昭公が、ロシア視察に行けば、ロシアはその間、日ノ本を粗略に扱うことも出来ず、攻め込むことも出来ないのです。

その間に、日ノ本は、異国に攻め込まれない為の武装を進めることが出来るのです。

ご自分の身の安全も、顧みない、この勇気。斉昭公は真の英雄であらせられる。

この寅次郎、心より、感服するものであります」


「しかし、斉昭様がそのようなことをなさらなくとも」


水戸藩士が反論すると、寅次郎は涙を流しながら訴える。


「たとえ、異国で穢れようと、あるいは異国で襲われることがあろうとも、日ノ本を守る為ならと、斉昭公がご自分でご提案されたとのことです。

何と、素晴らしい名君でありましょうか」


涙ながらに感動する寅次郎を見ると、下村達の心の中に誇らしい気持ちが沸き上がってくる。


「それで、君はそれを伝えに、わざわざ、ここまで?」


元々の斉彬の計画を聞いている藤田東湖は、周りで感動する水戸藩士たちと比べると、寅次郎に感情的に振り回されず、比較的冷静に尋ねることが出来た。


「違うであります。

ロシアへの視察団は家を捨て、藩を捨て、国を思う者だけが参加出来るものと決まりました。

だから、私も、藩を捨て、家を捨てて、視察団に参加させて頂くことにしたのであります」


そう言うと、寅次郎は幕府が決めた視察団の方針、藩や家を捨てた者だけが参加出来ること、視察団に参加する為に藩や家を捨てることを藩は止めてはならないと幕府が決めたこと、国防軍の創設、参勤交代の緩和による予算の集中などについて語る。

多くの水戸藩士は、その寅次郎の暑苦しい程の語り口に、胸を熱くしていった。


「それで、君は何をしに、ここに来たのかね?

斉昭様に同行して、ロシアに行くならば、江戸に向かうべきではないのか」


「ロシアを知る為であります。今、日ノ本でロシア人がいるのは、この北蝦夷(樺太)だけ。

ならば、斉昭公のロシア視察のお手伝いをする為にも、予めロシアの言葉を理解し、彼らを理解する必要があるのであります」


寅次郎がそう言うと、攘夷の気質が和らいで来ているとはいえ、異国に忌避感を持つ水戸藩士は嫌な顔をする。

何で、異人の言葉なんぞ、知らなければならないのだ。

異人が我らと話したいなら、異人は日ノ本の言葉を学んで来いというのが彼らの本音だ。

実際、北蝦夷(樺太)に滞在したロシア人の中には、片言で日本語を話せるようになったものはいるが、水戸藩でロシア語を話せるようになったものは一人もいない。

だから、下村はつい口を滑らせてしまう。


「異国の言葉なぞ、何故、学ばねばならんのだっぺ?

ワシらがあ奴らと付き合いたい訳ではない。なら、奴らが日ノ本の言葉を覚えるのが筋だっぺ?」


「それでは、斉昭公の通詞を全てロシア人に任せろというのでありますか?

斉昭公は異人と付き合い穢れる覚悟はお持ちでしょう。

ですが、自分が穢れたくないから、斉昭公に全て受け答えをさせるつもりでありますか?」


そう言うと寅次郎は下村を見詰める。


「孫子の兵法の基礎は、敵を知り、己を知り、地の利を知れば百戦危うからずであります。

ならば、何故、ロシアを知る努力をなさならないのですか?

あなたが、ロシアの事を知れば知るほど、斉昭公の話し合いは有利になり、日ノ本は救われるのです。

あなたは、日ノ本を異国から守りたいと思って、この極寒の地、北蝦夷(樺太)に来て、冬越しまでしたのでしょう。

ならば、何故、学ぼうとしないのですか。

ここは、日ノ本で唯一、ロシアのことを知り、学ぶことが出来る場所です。

何故、その絶好の機会を見逃そうとするのですか」


寅次郎から溢れる不思議な迫力に水戸の攘夷志士たちは目が離せなくなる。


「ロシアの言葉が理解出来れば、沢山のことが判るはずです。

あの巨大なロシアの軍艦は、どのように作り、どのように動かすのか。

あのロシアの大筒はどの様に発射し、どれ位の距離を飛び、どうやって的に当てられるのか。

ロシア人は何を好み、何を嫌うのか。

折角、この様な極寒の地まで来たのです。

ただ、いたずらに時を過ごし、ロシアが攻めて来た場合に備えて待つだけでは、あなたの時間が勿体ないではありませんか」


寅次郎がそう言うと、その口ぶりを面白がった松前藩主松前崇広が口を挟む。


「吉田君、ロシア語を覚えるなら、まず、ロシア人にシトー エタと聞いてみれば良い。

シトーは何、エタはこれという意味だ。

シトー エタと聞けば、エタなになにと答えてくれるだろう。

それで、まずは言葉を学んでいきなさい」


その言葉を聞き、寅次郎は目を輝かせるが、下村が口を挟む。


「そんなこと聞いたって、奴らが教えてくれるとは限らんでしょ」


「ならば、代わりに日ノ本の言葉、日ノ本の事を教えてやれば良いのです。

彼らも、日ノ本のことを知りたがっているはずです。

互いに教えあえば、日ノ本、ロシア両方の国の為になるはずであります」


そう言うと、寅次郎はロシア人達のところに突撃していき、日本人とロシア人の交流は第二段階に進んでいくことになる。


そして、その変化は水戸藩士にも及ぶ。

誰よりも日ノ本を守っているという自負がある彼らとしても、相手のことを学ばず、知ろうとしないことは怠惰であると寅次郎に批判されたのは耐え難いことだったのだ。

何より、長州人であるはずの寅次郎と桂小五郎が、ロシア人との交流を盛んにし、ロシア語を覚え、水戸のご老公、斉昭様の為に働こうとしているのに、水戸藩士である自分たちが何もしないなど、許せることではなかった。


その結果、水戸藩士は、一人、また一人と、寅次郎の勉強会に参加していくこととなる。


言葉を覚える者は、シトー エタで、物の呼び名を覚え、それを基に、協力して、辞書らしき物を作り始め、代わりに日本語をロシア人達に教えていく。

言葉の苦手な者でも、船の操り方、大筒の使い方等を身振り手振りで教わり、代わりに剣術、柔術などの武術をロシア人たちに教え始める。

下村もまた神道無念流を桂小五郎と共にロシア人達に教え、代わりに砲術などを学んでいくことになる。


そのことは、春になり、プチャーチン提督のロシア艦隊が来ても変わらなかった。


どの様な交渉をしたのか、下村には分らなかったが、ロシア艦隊はイギリスから樺太が攻撃された場合に備えてと多くの武器を樺太に残し、その使い方を教える者、言葉を覚える者を教官役として残し、それ以外の多くの者を収容して、樺太を去って行ったが、教官役と寅次郎の勉強会の交流は更に盛んになっていった。


そして、今日もロシアのことを懸命に学ぶ一日が始まる。


「ロシアのことを知りましょう。あなたが異国のことを知れば、対策が取れる。

あなたが学べば、日ノ本が、それだけ安全となるのです」


俺は異国と戦う為に、この北蝦夷(樺太)に来たはずなのに、と思いながら、下村嗣司は憂鬱な気分になる。


下村嗣司、彼が芹沢鴨と名乗ることになるか、それを知る者は誰もいない。

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