第四話 老中首座阿部正弘
平八の持ってきた海舟会の建白書を受け取った江川英龍は、老中阿部正弘の下に向かいます。
老中阿部正弘は、瓢箪鯰とあだ名され、同時代でも、後世においても、評価の低い人物である。
帝国では、何の展望もなく、ペリーに押し切られて開国を行った優柔不断な人物と批判され、皇国では、幕政に雄藩大名が介入する隙を作り、幕府の権威を落とし、幕府崩壊の原因を作った人物であると批判されている。
だが、能力より血統が重視される時代であるとはいえ、無能な人間が25歳から老中を務め、天保の改革を行った水野忠邦を押しのけて老中首座となり、14年間も老中首座でい続けられたはずがないのである。
彼は調整型の人間で自分の意見は出さず、敵を作らないようにする為、八方美人と批判されることも多かった。
しかし、黒船来航の非常事態の中で、後に暴発する水戸学の水戸家を抑え込み、混乱を制御していたことも事実なのだ。
また、彼は、有能な官吏を身分に拘わらず召し抱え、攘夷を訴える水戸藩や他の譜代大名の意見を受け流しながら、洋学を導入し、後の皇国、帝国発展の基礎を築いている。
この点を否定出来るものは誰もいないだろう。
だが、彼には、今から僅か4年後、39歳で急逝してしまったという問題がある。
その結果、彼の後継者たちにより、結果として幕府は崩壊し、日ノ本は分裂してしまったのだから、後の世で批判されるのは、結果責任を問われる政治家としては、致し方ないのかもしれない。
そんな阿部正弘を訪ねて、江川英龍が福山藩中屋敷にやってきた。
平八たちが江川邸を訪問した、その日の夜のことである。
「火急の要件とのことなので、時間を作った。何があった太郎左衛門(江川英龍のこと)」
肥満体の阿部正弘は、正座が辛いのか脇息に凭れ掛かり、足を崩して江川英龍に聞く。
「は、すぐにでも、阿部様にお伝えしたきことが出来て参りました。
まずは、こちらをご覧ください」
そう言うと江川英龍は懐から、巻紙を取り出し、阿部正弘に渡す。
今日、平八から話を聞いて、内容を確認した上で書き留めた平八の見た夢である。
巻紙を受け取った阿部正弘は、巻紙を開くと目を通しながら聞く。
「これは?」
「今日、わしの屋敷に来たものが話していったことを書き留めたものでございます。
何でも、このような夢を見たとか」
「ほう、夢か」
阿部正弘は、表情を変えず、巻紙を開き、読んでいく。
隙を作れば失脚に繋がる政争の中、彼は簡単に表情を読ませたりはしない。
攘夷と開国で揺れ動く、この時代、彼はその本心を他人に悟らせないまま、両派の間を調整し、争いを未然に防いできたのだ。
興味があるのか、ないのか、わからない表情を浮かべたまま、黙って渡された巻紙に目を通し、読み終えると尋ねる。
「これが、火急の要件なのか?何を言いたい」
「この話をしたものは只の夢だと言っておりましたが、わしは只の夢とは思えません。
特に、阿部様の公への意見募集が幕府の倒壊に繋がると言われれば、黙っていることなぞ出来ませんでした」
「卜占に頼るなど、らしくないではないか」
「確かに、話していった者も、信じすぎるな、当たるかどうかは分からないので、参考にしてくれるだけで良いと申しておりましたが。
彼の夢の通りなら、わしは後1年半の命。阿部様も後4年しかございません」
「うむ、そう書いてあるな。何者だ。その男は」
「名を平八と言います。今は佐久間のところで中間をやっているとか」
「佐久間というと、佐久間象山か。すると、これはあ奴の予測ということか?」
「いや、それはないと思います。
わしも、奴が自分の建白書に説得力を持たせる為の策かとも思いましたが、幕閣の情報に通じすぎております。
ですが、今の奴が幕閣に繋がる情報源を持っているとは思えません」
「私に諫言する為に、佐久間に協力して、情報を漏らしたものがいるやもしれぬ」
阿部正弘がそう言って、江川英龍を見ると、江川英龍は、自分が諫言のために佐久間に情報を漏らしたのではないかと疑われていることに気が付き声を荒げる。
「わしは、あいつが大嫌いです。
あんな奴と協力する気もなければ、裏で手を組むなどありえないことです」
「そうか。すまぬな。だが、それなら、こんな予言じみたことを伝えて、私にどうしろと言うのだ。
この書を信ずれば、黒船の情報の公開、意見募集などすべきではないかもしれん。
だが、実際に黒船に対する策も、その策を実行する手も不足しておるのだ。
何もしようとしない他の幕閣を動かす為にも、策と人を探さざるをえん」
「わしも、平八の言を信じて従うべきだとは思っておりません。
ですが、当たるかどうかは別として、平八の夢を注意喚起と見れば考慮すべき点はわかります。
雄藩連合の試みは譜代大名の反発を生む危険があり、大船建造を許して各大名の武装を許せば戦力の分散に繋がり、果ては内乱に繋がる危険がございます。
天子様の権威の扱いを誤れば、攘夷と結びつき、尊王攘夷となって幕府を滅ぼしかねない脅威となりかねません。
阿部様ならば、これらの危険への警告、ご理解なさっていると思いますが」
「だが、手をこまねいて、幕閣の連中の言うように現実から目を背けていては、異国の侵略に対抗できぬ」
「おそらく、阿部様と島津公が協力されれば、雄藩連合による幕府の立て直しは可能なのでしょう。
ですが」
「私と島津殿が死ねば、全てが失われるということか」
固い声で阿部正弘が呟く。
「平八はわしにも、死なないように身体を厭えと言ってきましたがな。
死なない人間がいない以上、死んだ場合に備えた策が必要となります」
「そのような策があるのか?」
「はい。それが、こちらにございます」
そう言うと、江川英龍は懐から、建白書を取り出す。
「これが、佐久間と平八とその仲間たち、海舟会と名乗るものたちが作ったという策でございます。
佐久間の奴は、どうせ、これ以上の策など出てこないから、意見募集など、することはないと豪語していたようでございますな」
「なるほど。其方、本当に佐久間と協力はしておらぬのか」
「佐久間など、只のお調子者に過ぎません。
才に溺れ、目先の思い付きを鼻高々に押し付けることをするが精々のもの。
ですが、どうも平八が、佐久間の手綱を握ったようで、この建白書には見るべき点が多々ございます」
そう言うと、江川英龍は阿部正弘に建白書を献上する。
渡された建白書を開いた阿部正弘は黙って読み始める。
頁を捲る音だけが静寂の中に響き渡り、江川英龍は身じろぎもせず阿部正弘の反応を待つ。
阿部正弘は建白書を読み終えると、耳の痛くなりそうな静寂の後、口を開く。
「なるほど、確かに、見るべき点はあるようだな。
これ以上の献策はないだろうというのは、言い過ぎのような気もするがな。幾つか確認したい点がある」
そう言うと、阿部正弘は、江川英龍が平八に確認したのと同じ点を問い質す。
樺太、小笠原諸島への防衛隊の派遣に水戸藩、幕閣の許可を得る話、黒船再来の際の防衛側の指揮権の統一の話、万が一、戦になった場合の話など、江川英龍が平八に聞いた内容と重なるのは江川英龍の優秀さを示すものと言えるだろう。
「そうか。確かに、夢の通り異国が性急に我が国に侵攻を試み、反発する水戸藩と異国の間の調整すべき私が4年でいなくなるのなら、水戸藩を敵に回さず、されど口出しさせずでは足りぬか」
「水戸学、攘夷という蒙昧なる夢の息の根を止めねばならないというのが、その書の主張の柱の一つでございますな」
「その為に、水戸のご老公を幕閣の奥深くまで取り込み、異国との紛争か、異国への視察団で、無理やりでも目覚めさせよと言うのか」
「もし、それが出来るのならば、わしや阿部様亡き後でも、何とかなるかと」
「私は、お前のような年寄りではない。まだまだ、死ぬつもりはないぞ」
「で、あるなら、少しお身体を厭われた方がよろしいかと」
そう言うと、江川英龍は肥え太って正座も辛くなった阿部正弘を見詰める。
「所詮、当たるあてのない夢の話だが、考えておこう。これで終わりか?」
阿部正弘がそう言うと、江川英龍は平伏で、肯定する。
「よし。ならば、大義であった。
この建白書とその巻物は預からせて貰うこととする。
ただ、他言は無用だ。万が一、漏れれば、更なる混乱を生み出す危険があるからな。
それから、海舟会という連中が何者なのかも調べておけ。
佐久間がいるにせよ、幕閣にも異国の事情にも通じすぎておる。
本当に卜占や妖の力の類であるならば良いが、裏に異国と協力する幕閣の存在などがあった場合は、目も当てられぬこととなるからな」
そう言うと、阿部正弘は平八の夢の巻物と建白書を懐に入れて、部屋を出ていく。
老中首座阿部正弘が、世界線を変える為に動き始める。
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