第十一話 天京での交渉
対馬の要塞化が進む中、対馬を出て太平天国に向かった朝暘丸を太平天国側から見たお話です。
太平天国で天王を自称する洪秀全は上機嫌であった。
平八の夢では、南京を清から奪取してから、太平天国は内紛を起こし衰退している。
だが、この世界線では、清との戦いに苦戦している為、太平天国側に慢心して内紛を起こす余裕などなかったのだ。
それ故、平八の夢の様に、南京を占領した将軍楊秀清が洪秀全の権威を脅かすこともなく、その将軍を排除する為に将軍派を粛清する必要もなかった。
その結果、太平天国は、洪秀全の下、強い団結を示していたのである。
そんな時、東の海の果てに住む蛮族倭国より、朝貢の使者がやってきたと言う。
太平天国は、占領した南京を天京と名を変え首都としている。
その天京には、長江が流れ、東西に貫いている。
その長江を海から遡ってやって来た倭人の巨大な蒸気船。
倭人と言えば、倭寇を率いる海の蛮族というのが、洪秀全らの認識だ。
かつて清国の役人登用試験科挙を受験した知識階級に属するはずの洪秀全においても、日本はその程度の認識であった。
上海で倭人と交渉したと言う石達開によると、その蛮族が巨大な船に乗って、武器を渡しに朝貢してきたと言うのだ。
太平天国の主戦力は満州族の統治に反感を持つ漢人や農民であり、兵力数としては清に劣る物ではない。
だが、近代戦で戦う為の銃や大砲などの武器が圧倒的に足りなかったのだ。
それに対し、清国は元々ある武器に加えて、ロシアより武器の供給を受けているという噂すらある。
その上で、この世界線においてはアロー戦争も勃発していないから、清国は太平天国に対して全力で攻撃出来る状況。
その中で、この巨大な船を操る倭人が太平天国に武器を供給すると言うのだ。
絶体絶命の時に差し伸べられた救いの手。
洪秀全が上機嫌にならない理由はなかった。
これだけ巨大な船で、遠路遥々、最も欲しい武器を持って朝貢に来たのだ。
その功に報い、壮大な儀式で迎えてやらねばならないだろう。
多くの臣を揃え、盛大な儀式で歓迎した上で、返礼品を渡してやらねばなるまいな。
洪秀全がそんな風に考えていると、倭人の迎えに行っていた石達開が洪秀全に告げる。
「何?拝謁の儀の前に、余と話をしたいだと」
思いがけない無礼な提案に洪秀全が怪訝な顔をする。
「は、私だけで話を聞いても良いのですが、最終的な判断は天王陛下にお願いしたいと」
倭人は、漢人の言葉が話せない。
だが、文字が書けるので、交渉は全て筆談で行っていると言う。
その倭人より、内々に話をしておきたいと要求してきたと言うのだ。
「余は蛮族などとは簡単に会わぬ。
その事は伝えたのか?
心配せずとも、その功に報い、拝謁の儀は壮大に行うとも」
洪秀全は、世界を作った神の子、イエスの弟であり、全世界を統べる天子であると自称している。
その様な尊い存在が、野蛮人の使者などに簡単に会うはずがないではないか。
全く、野蛮人と言うのは、そんな常識もないのか。
ため息混じりに尋ねると石達開が、周りに聞こえない様に声を潜めて応える。
「連中は朝貢に来たのではなく、交易に来たと申しております。
我らと対等に取引をしたいと」
石達開の言葉に洪秀全は眉を顰める。
野蛮人どもが、自分の立場も弁えず、我らと対等に付き合うなどと言うか。
その様なことを公に発言されるだけで面目は丸潰れになってしまうだろう。
それが解っているから、事前に会いたいと言ってきたと言う事か。
「無礼この上ないとは思いますが、勝手に私が追い返して良いものとも思えず」
石達開が続けると洪秀全はため息を吐く。
確かに、武器が欲しい今の状況では倭人が無礼を働いたからと言ってすぐに追い返すのは難しいだろう。
これまでは、宗教・思想面では洪秀全が指導し、実務は南京を攻略した将軍楊秀清が担っていた。
それが、先般の上海襲撃の際に、楊が死んでしまい、その後釜に据えられる者が決まっていないのが現状なのだ。
だから、最終的な判断は洪秀全が下さなければならない。
実に面倒なことだ。
まあ、倭人に常識がないと言いつつも、謁見の場で公にこちらの面子を潰さない程度の判断力はある様ではある。
となれば、内密に倭人と会い、話を決めるしかないだろうと洪秀全は考えていた。
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洪秀全が渋々石達開を引き連れて、倭人たちに会いに行くと、満州人の辮髪とは少し違う変わった髪形の男たちが待っていた。
見慣れない服装ではあるが、服の生地が絹で上等な物なのは判る。
天京を占領して、然程の時間が経っていない太平天国の中に、これ程、上等な格好をしている者はほとんどいないだろう。
あの巨大な船と言い、倭人は決して侮っていけない相手なのかもしれない。
洪秀全が太平天国の天王であることを紙に書いて渡すと倭人たちは頭を下げ、手紙を懐から出して渡す。
そこに書いてあるのは、倭人の言う日本という国が、太平天国に武器を売り渡す用意があるという事。
その中には、武器の種類が事細かに書かれており、武器それぞれの価格が記されている。
「倭国の様な小さな国が、我らと対等に付き合おうと言うのか?
我ら、中華は世界を正しく統べる光。
我ら、太平天国は、野蛮な満州人から国を取り戻し、再び、世界を正しい状態に取り戻そうとしているのだ。
それ故に、我らと対等なものなど、この地上の何処にも存在しない。
その程度のことも知らぬのか。
分をわきまえよ!」
洪秀全がそう言うと、祐筆がその言葉を文書にして、倭人たちに渡す。
倭人たちは、文書を確認すると、手紙の中身を確認して、再び差し出す。
「あなた方が、中華を名乗ろうと、全世界の唯一の支配者を名乗ろうと、それは我々には関係ない。
我らは、太平天国とは関係ない別の国の者なのだ。
我らは、あなた方の慈悲に縋ってやってきた訳ではない。
ただ、我らは、ロシアの支援を受けた清に苦戦するあなた方に、善意で取引を持ちかけているだけなのだ。
それ以上の関係を我らはあなた方と結ぶつもりはない」
渡された文書に目を通し洪秀全は憤慨する。
東の蛮族が、中華の権威を認めないと言うのか。
何と生意気な。
確かに、武器の供給は必要な状況ではあるが、弱みに付け込み、この蛮族は何を要求するつもりだ。
そう考えながら、洪秀全は改めて、倭人の差し出した武器の価格表に目を通す。
火縄銃は銀でどれ位、大砲なら銀でどれ位と重さで値段が示している。
この時代の太平天国の通貨の役割を果たしているのは銀。
それ自体は珍しいことではないが、上海に住む西洋人の提示する価格よりもずっと安い
という事は、その分、武器の質が悪いということだろうか。
考えながら、洪秀全は尋ねる。
「まず、現物を見せて貰えないか」
洪秀全の言葉を祐筆が書くと、倭人たちは頷き、部屋の隅に掛けてあった布を取り、その下にあった火縄銃や大筒を出した上で、説明の文書を渡す。
「ご覧の通り、今回、売却する物品は古い物が中心だ。
だから、値段も大分安くしている。
だが、十分使える物ではあるから、武器不足のあなた達にとっては十分役に立つ武器であろう」
古いから安いというのか。
倭人は弱みに付け込んで騙してくるか、過大な要求をしてくるかと思ったところ、意外にも正直に話してくるので、洪秀全は面食らい、石達開を見る。
石達開は、洪秀全に既に武器が使える事を確認済みであることを伝える。
その言葉に、洪秀全は更に混乱する。
本当に騙す気がないのか?
それならば、何故、頭を下げない?朝貢を受け入れない?
その方が、話は簡単に済むはずではないか。
混乱しながらも、洪秀全は更に尋ねる。
「武器の見返りに銀を寄越せという要求は理解した。
だが、今は戦の最中。
銀は簡単には渡せない。
我らの選ぶ下賜の品で取引をしないか」
洪秀全の言葉を祐筆が記すと倭人たちはそれを読み、返答をしたためる。
「銀がないならば、取引の品は我々に選ばせてくれ。
清国の陶磁器ならば、欧州の連中に幾ら位で売れるか、我々はその相場も知っている。
あなた達に損はさせない。
我々も得をし、あなた方も喜んで貰える値を付けて、武器と交換させて頂く」
倭人の返答を読み、洪秀全は苦笑する。
欧州の連中が清の陶磁器に夢中であるという話は、彼も知っている。
だが、太平天国の中に陶磁器の目利きもいなければ、相場を知る者もいないのだ。
なるほど、そうやって大量の陶磁器を安く買いたたき、儲けるつもりか。
癪に障るがうまい手だ。
だが、自分達では、壺や皿などの陶磁器の価値、相場が解らないのも事実。
それならば、武器に交換してしまった方が、確かに太平天国の利益にはなるだろう。
考えた末に、洪秀全は祐筆に返事を書かせる。
「では、陶磁器などを見せてやろう。
その上で、価格を付けるが良い。
但し、我らを騙そうなどとするなよ。
騙そうとすれば、お前たちを皆殺しにして、持ってきた武器は船と一緒に全て没収するからな」
洪秀全の返事を見て、倭人たちは頭を下げ、返信を渡す。
「我々は、取引相手を騙すようなことはしない。
それは、これからの値付けで確認して貰いたい。
そちらこそ、妙な言い掛かりをつけて、取引を台無しにする様なことをしない様に。
我々は、互いの利益になる取引を、今後も続けたくて来ているのだ。
あなた方が欲張れば、もう二度と我らが武器を売りに来ることはないと言うことを肝に銘じて頂きたい」
倭人の返信を見て、洪秀全は鼻で笑う。
何と尊大な連中だ。
この連中は、まるで自分達こそ文明の担い手である様な顔をしているではないか。
だが、この男たちが、本当に誠実な取引をしてくれるならば、それは得難い取引相手となるのかもしれない。
そう考え、洪秀全は尋ねる。
「では、値段を付け、我らが納得するならば、拝謁の儀の際に下賜の品として渡せば良いのか?」
洪秀全の言葉を読むと、倭人たちは頷き返答を書く。
倭人たちは朝貢はせず、取引をしに来たと言っている。
だが、中華を名乗る以上、対等な取引相手など作ることは出来ないのだ。
それこそ、太平天国の面子に係わることなのだから。
倭人という蛮族と対等の取引をしたなどという風聞が流れただけで、権威が落ちかねない。
清を滅ぼして漢を復興させるなどと言っても、蛮族の力を借りたと聞けば、それだけで参加しない者が現れかねない。
だから、形だけでも朝貢の様に見せ掛け、武器を朝貢の品として渡す代わりに、倭人が自分で選んだ品を下賜の品として渡せないかと提案したのである。
これに対する倭人の返事は
「あなたの面子を守る為に、我らは、ここまでやって来たのだ。
見掛けは朝貢で構わない。
但し、文書では取引内容を明確に記して貰いたい。
我らにも、また面子という物があるのだから」
という物であった。
洪秀全は、その返事を見て、どうやら本当に得難い取引相手を見つけられたのかもしれないと考え始めていた。
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洪秀全が日本商社の面々に宝物庫への立ち入りを許可して立ち去ると、中島三郎助様が安堵の息を吐く。
「佐久間象山の言う通り、うまく行ったようですな。
いや、相手の神経を逆撫でする様なことも書いてあったので、正直不安ではあったのですが」
言われて平八は苦笑しながら応える。
「いやぁ、あれでも、まだ随分、穏便にしたのでございますよ。
最初は、覇道を目指す覇王のなり損ねに、王道を行く我らが頭を下げる理由はないとか書いておりましたから」
言われて中島三郎助は苦笑する。
確かに、そう言いたい気持ちは解るが、それを言えば相手は間違いなく激高するだろう。
やはり、佐久間象山という悍馬を飼いならしているのは、この冴えない老人なのだなと実感する。
「まあ、これで見掛けはともかく文書で取引の証拠が残る訳ですから。
日ノ本が太平天国の臣下になっているからと、ロシアや清国の侵略の口実にされることは避けられるということですな」
「ええ、元々、この取引は英仏にも黙認された物ではありますが。
それでも、侵略の口実になりそうなことは、なるべく避けておくべきことでしょう。
後は、間違いなく、陶磁器を適正な値で買い取ること。
その辺は、お願いしますよ、五代さん」
平八が声を掛けると同行してきた薩摩の青年五代友厚は頷く。
「任せたもんせ。
斉彬様より、目的を間ちごっなときつっ仰せつかっちょります。
連れてきた目利き達と欧州人たちに売っ場合ん相場を確認しながら、値を付けていくつもりじゃ」
五代友厚は日本商社に入り、島津斉彬の側近を務め、今回は多くの目利きや商人をまとめ上げている。
今回の取引の目的は、ある程度の利益を上げながら、大陸に大量の武器をばら撒くこと。
目先の利益など大きな問題ではないのだ。
太平天国だけではなく、大陸に住み、満州人の支配する清国に反感を持つ様々な人々、民族が武器を持つようになれば、それだけ、大陸の統一は遅れるだろう。
特に、象山の仕掛けが動き出せば、チベット、モンゴル、ウイグル等の蛮族と呼ばれる連中の動きも活性化する可能性もある。
いや、それだけではない。
武器を持つ者が多ければ、欧米列強の侵略も、また困難になるはずなのだ。
あるいは、インドの様に分割支配を目指すかもしれないが、それには間違いなく時間が掛かる。
清国に対する欧米列強の侵略を遅らせることが出来れば、日本へ侵略が遅れることになる。
この時点で、平八たち海舟会は、そう考えていたのだった。
さて、こうして大陸中に武器をばら撒いたことによる影響は?
次はロシア側から書こうかなと思います。
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