第二話 ロシア視察団の報告
平八は佐久間象山の弟子という扱いとなり、筆頭老中阿部正弘と薩摩藩主島津斉彬との面会を果たし、これからロシア視察団の報告が始まります。
象山先生がロシア視察団の報告を聞くと阿部正弘様がその結果を語り始める。
「結論から申すと、日露通商条約は無事締結された。
ロシアは北蝦夷(樺太)など、我らの領土保全を認め、代わりに北蝦夷でロシアと交易を始めることが決まったのだ」
「日ノ本への領土で来ることが出来るのは北蝦夷のみで、入国の際は武装解除をし、日ノ本の法に従うこともロシアは受け入れたのですか」
「ああ、こちらの条件は全て受け入れたとのことだ」
「もしや、水戸様一行は先代のロシア皇帝が亡くなる前に到着出来たのでしょうか」
象山先生が尋ねる。
確か、アッシの夢だとロシア皇帝ニコライ1世は去年崩御し、その子アレクサンドル2世が後を継いでおりました。
そして、今回の条約の文書に署名していたのは亡くなったニコライ1世。
クリミア戦争に負けそうな状況で、日本に都合の良い条約を新皇帝アレクサンドル2世が調印してくれるとは信じがたかったようなのだ。
「いや、それが新皇帝との間に条約を調印してきたとのことなのだ。
一体、どの様な交渉をしたかは解らぬが、その手腕は認めねばなるまいな」
阿部様が苦笑する。
それに応えて、象山先生が感心した様に呟く。
「これは、僕も計算外でしたな。
僕が行ったなら、ともかく、水戸様や吉田君たちでは条約締結までは難しいと思ったのですが。
それで、水戸様のロシアに対する態度はどうなっておりますか」
「こちらは、佐久間殿の計算通りだ。
1年以上にわたり、ロシアを旅し、ロシアを見てきた水戸様も、お付きの者達にもロシアを侮る様な素振りは欠片もない」
その言葉を聞いて象山先生がドヤ顔で頷く。
「うむ、そうでしょうな。
ロシアに行けばロシアの国力が解る。
余程の愚か者でもない限り、今、日ノ本が戦って良い相手でないこと位、理解出来るはずです」
「今、水戸様は江戸城でロシアの国力、その脅威を熱心に説いて回っておられます。
攘夷を主張する水戸学を支える一人であった亡くなった藤田殿も、今際の際に、
『ロシアとはまだ戦うべきではない。
攘夷の為には、交易を行い、国力を付け、軍備を整える必要がある』
と言っていたとのことだ」
象山先生は満足そうに頷く。
「それで良い。
藤田殿が生きていれば、水戸様と一緒に説得に回って欲しかったところではございますが。
アメリカ、ヨーロッパに行った者達からも、同じ様な言葉が伝えられ、日ノ本は攘夷などという愚かな夢から目覚めることが出来ることでしょう」
象山先生の言葉を聞いて、思い出したように阿部様が付け加える。
「ヨーロッパと言えば、水戸様はヨーロッパに行った一橋様からの伝言も聞いて、幕府に伝えて参りましたぞ」
「ほう、一橋様から。
それは、アロー戦争に関することですかな。
一橋様には、国防軍の主導権をとって頂く為にも、手柄を上げて貰わねばなりませんからな」
象山先生が上機嫌に答える。
象山先生は、アロー号事件に介入し、アロー戦争勃発を遅らせる策をヨーロッパ視察団に与えていたのだ。
一橋様には、直接策を与えられる立場にはないので、実際に策を与えたのは、通訳をする大久保様辺りかな。
アロー号事件は、イギリスの船籍の期限が切れているアロー号を清国が臨検をしたことから始まっている。
本来は、イギリス船籍でなくなっているアロー号を清国が臨検したところで違法でも何でもないのだ。
だが、アッシの夢では、誰もそのことを確認せず、イギリスはイギリスの船を清国が不法に臨検したと主張。
確か、イギリスはアロー号にイギリス国旗が上がっているのを清国側が捨て去り、無理矢理不法に臨検したと主張したんだっけ。
これに対し、象山先生の策では、イギリスの野党に接近し、アロー号の当時の船籍を調べるよう助言しろと言っていたんだっけ。
イギリスは議会の国だから、議会を動かし、世論を動かせば、止めることが出来ることを理解しているんだよ、象山先生は。
実際、この当時、無法行為を繰り返すイギリスではあるけれど、国家を上げての無法国家という訳ではない。
アヘン戦争にしても、アロー戦争にしても、倫理的な側面から反対する人々は存在するのだ。
象山先生は、力の論理で侵略を続けることに反対するイギリス人と協力して、イギリスのアジア進出を遅らせようと考えていたという訳なのだ。
アロー戦争勃発が遅れれば、アッシの夢通りなら来年にはインド大反乱が起きるはずだから、イギリスは清国との戦争どころではなくなり、イギリスのアジア侵略は益々遅れるだろう。
そして、イギリスのアジア進出を遅らせることが出来れば、それは慶喜公の手柄と言えるだろう。
そうすれば、血縁ではなく、実力主義を謳う国防軍を率いるのに、誰よりも相応しいと主張することが出来るだろう。
だが、その返答は完全に象山先生の予想外のものだった。
「いや、アロー戦争ではない。クリミア戦争だ。
一橋様は、ヨーロッパの大商人ロチルド男爵なる者から金を借り、その金でロシアに千島列島からアラスカまで買い取ることを提案されたとのことだ。
ロチルド男爵から借りる資金の担保は、ロシアから買い取るアラスカ。
アラスカを買い取ることでロシアに資金を渡し、クリミア戦争の長期化を目論んだとのことだ」
そう言われて、象山先生は驚き、確認をする。
「しかし、資金を与えるだけでは、ロシアがクリミア戦争を継続する保証がないのでは」
「一橋様は、資金だけでなく、ロシアには策も与えたとのこと。
アラスカ売却で得た資金で、ロシアは新型のライフル銃を購入し、ライフルのおかげで、古くなりロシアで使わなくなる大量のマスケット銃をインドに提供することを提案したそうだ」
「なるほど、インド大反乱に自ら火を付け、イギリスがオスマン帝国での戦争に集中出来ないようにしようとしたという訳ですか」
「そうだ。更に、一橋様は、五月雨式に起きるはずのインド大反乱を同時多発で起こるように仕込み、最初の反乱でインドにあるイギリスの武器庫を狙うとの策を与えたとのことだ」
「その策を一橋様は直接ロシアに渡されたのですか」
「いや、シーボルトを取り込み、シーボルトの策として、ロシア側に提供したとのことだ」
阿部様がそう言うと、島津様が感心した様に言う。
「上手い手ですな。それならば、日ノ本が、イギリスやロシアに目の敵にされる恐れはなさそうだ。
更に、アラスカ購入は大商人の資金を使ってのものだから、日ノ本の資金負担はなし。
平八殿の予言によると、アラスカには金の他にも、豊富な地下資源があるとのことですから、出来れば、日ノ本が所有出来るようにしておきたいものですな」
それを聞き、阿部様も嬉しそうに話す。
「全くです。この策を考えたのは、一橋様ご自身か、あるいは、薩摩の大久保殿か。
心強い限りです。
それで、一橋様は、ロチルド男爵からの借金とアラスカ購入の許可を幕府に求めてきているとのことなのだが」
その言葉に、象山先生が不機嫌そうに呟く。
「ですが、そこは、慎重に考えた方が良さそうですな」
象山先生の意外な言葉に驚き阿部様が尋ねる。
「何か、問題があるのか、佐久間殿」
「幾つかございます。
まず、ヨーロッパの大商人から資金を借りるという話は、秘密にされるのでございますな」
「そう聞いておる。
ロチルド男爵はイギリス、フランスなどに店を持つ商人。
その商人が、直接、ロシアに資金援助してしまえば、イギリス、フランスで商売が出来なくなる。
そこで、考えた策とのことだ」
その答えを聞いて厳めしい顔で象山先生が頷く。
「やはり、そうですか。
それでは、日ノ本は、ロシアとイギリスに資金が豊富な獲物であると認識されることになりますな」
そう言われて、寒気がする。
アッシの夢で、日本が直接、イギリスやロシアに侵略されなかったのは、侵略したところで簒奪出来る資源が少ないのに、侵略に抵抗する武士が多く、損害の割りに収穫の少ない土地であると認識されたことが大きいように思われる。
夢の中では、侵略しなくても関税自主権は奪えたし、金も奪えた。
それなのに、薩英戦争で戦った時には、薩摩が火の海にしても、イギリス側もしっかり損害を受けている。
それなら、無理に侵略し、支配する意味などないだろう。
これが、アッシの見た夢の世界での話だ。
だけど、今回のアラスカ購入で、日本の資金が豊富だと認識されてしまった。
戦いは避ける方針だから、日本と戦うことは厄介だと欧米列強に認識させることも出来ていない。
そうなると、確かに欧米列強の日本侵略の危険性は上がるだろう。
だけど、その代わりにアラスカが手に入るなら、悪くはないと思うんだけどな。
「次に、千島列島からアラスカまで購入するとのことですが、途中のカムチャッカ半島も購入の範囲に入るのですか」
「実際の購入範囲の詳細については、交渉中だと言うが」
「カムチャッカ半島を入手できないのならば、ロシアがその気になれば、アラスカはあっという間に孤立し奪われることになるでしょう。
逆に、カムチャッカ半島を入手してしまうならば、ロシアと地続きで接することになりますから、ロシア側が戦争を仕掛けやすくなることでしょうな」
確かに、その危険もあるかもしれないけれど、今回の象山先生は、危険性ばかり強調し過ぎの様な気がするんだよな。
もしかして、象山先生、自分の提案が通らなくて拗ねてる?
自分が一番じゃなきゃ、嫌な人だからなぁ。
とは言え、危険性を十分に検証しておいた方が安全だから、もう少し反対意見を出して貰うか。
「更に、クリミア戦争の泥沼化ですが、僕がイギリスの指揮をすれば、インド大反乱を起こそうとも、短期で終わらせることが出来ます」
そう言われて、阿部様も驚き尋ねる。
「どうやって、終わらせる。
インドの反乱は本来2年にも亘るもの。
それに、ロシアの補給が続けば、イギリスはインドでの反乱対策で泥沼に陥るのではないか」
「確かに、ロシアやインドの目先の攻撃に対処すれば、泥沼に嵌り込むでしょう。
だから、僕なら、インドやトルコは放置して、地球最強と言われるイギリス海軍でロシア本土の攻撃をします。
ロシアは皇帝が全てを決める国家。
皇帝のいるサンクトペテルブルグは海沿いにあると言います。
ならば、大阪城に砲弾を撃ち込み、淀の方に講和をさせた様に、首都サンクトペテルブルグに蒸気船で攻め込み、皇帝に講和を飲ませるのです。
そうすれば、インドへの補給も、トルコへの侵略も防ぐことが出来る」
確かに、電撃作戦で首都直撃してロシア皇帝を逃がさなければ、講和を結べるだろう。
だが、ロシア皇帝を逃がしてしまえば、ナポレオンの様に、広大なロシアの領土で泥沼の戦いに嵌ることになるだろう。
そうなれば、イギリスとロシアが共に国力を消耗してくれるのだから、日本にとって都合の良い話ではないか。
そんな風に考えていると象山先生が続ける。
「短期でクリミア戦争が終わり、インド大反乱も片付いてしまえば、イギリス、ロシアが共にアジア、そして日ノ本に牙を剥く危険が高まることになります」
本当にクリミア戦争とインド大反乱が短期間で終われば、そんな危険もあるだろう。
だけど、イギリスはインドやトルコでの被害を無視して、ロシア本土に攻め込むことなんて、本当に出来るのか?
短期間とは言え、インドに住むイギリス人が被害を受けるのを無視することを、イギリス人が許すとはとても思えない。
だから、象山先生も、僕ならばという言い方をして、イギリスがそうするだろうと言わないんじゃないのか。
ただ、そんなことを指摘したところで、象山先生は意地になるばかりだろう。
そこで、3年間付き合ってきた経験を生かして、象山先生に感心したように話しかける。
「なるほど、さすがは象山先生でございますな。
アッシの様な者では、とても思いつかない危険性でございます。
ですが、象山先生、慶喜公は既に、ロシアにアラスカ購入の打診をされているのではございませんか」
アッシが象山先生に尋ねると、阿部様が代わりに答えてくれる。
「アラスカ購入提案の話を水戸様が聞いている以上、一橋様から、ロシアにアラスカ購入を提案していることは確実であろうな」
「そうですか。
そうすると、既に、少なくともロシアには日本に豊富な資金があると思われてしまっているということですな」
「そういうことになるな」
「では、アラスカを購入しなくとも、日ノ本には資金が豊富にあるという情報がヨーロッパ各国に流れてしまうということですな。
全く、象山先生はそういう危険も全てご存じの上で指示を出されたのに、その指示も聞かず、困ったことをしてくれたものです」
アッシが慶喜公を責める様な発言をすると、象山先生の表情が多少緩む。
「まあ、彼らは彼らなりに、精一杯やろうとしたのであろうが、天才の僕とは違うから仕方あるまい」
「とは言え、国防軍の主導権を慶喜公に握って頂く為にも、慶喜公が手柄を立てている様に見せかける必要があるのでしょう。
天才の象山先生でなければ、慶喜公に手柄を立てさせ、更に実質的にも日ノ本を守る策など考えることなど出来ないでしょうな」
そう言うと、象山先生は大分機嫌が治ってきたようで口元が緩みだす。
「そうだな。天才の僕でなければ、不可能であろうな。
まず、慶喜公の策は、先程言った通りの問題はあるが、一見、大手柄には見える。
だから、それを手柄として吹聴するしかないだろう。
実際、アラスカ購入の話がヨーロッパに伝わってしまっているならば、日ノ本に資金が豊富という情報が流れてしまっているだろうからな。
ならば、アラスカ購入に反対する意味はない。
だが、僕の様にアラスカ購入の問題点に気付く人間がいれば、手柄が反転して、失策とされる危険もある。
僕たちは、アラスカに豊富な資源があるという情報を平八君の夢から知っているが、他の者は知らないからな。
ならば、どうするか。
その為の策を考えて置くことにするか」
そう言って象山先生が考え込むのを阿部様と島津様が苦笑しながら見ている。
本当に、困った天才児だよ。
だが、それから数日後、象山先生が駄々を捏ねたことを感謝する事態が起きる。
慶喜公に手柄を立てさせたくない井伊直弼が率いるアメリカ視察団が江戸に帰ってくるのである。
さて、次回はアメリカ視察団の話になります。
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