第三十三話 バタフライエフェクト
イギリスは日本との通商条約締結の為には、法整備が必要だと条件を出します。
交渉は、ここから本番。
いつもより、少しだけ長くなります。
「さて、我が国と日本の関係がハッキリしたところで、今度はこちらから確認させて頂きたいことがございます。
スターリング提督からお伝えしておりますが、我が大英帝国とロシア帝国は戦争状態にあります。
だから、日本には、この戦争における局外中立をお願いし、そのことに関しては同意を頂いたと聞いております」
「確かに、その通りです。
我らは、あなた方の戦争に参加するつもりはありません」
慶喜が答えると、パーマストン子爵は首を横に振って尋ねる。
「それでは、どうして、あなた方、日本はロシアに資金提供をなさるのでしょうか?
あなた方は知らないのかもしれませんが、戦争中の国家に対して、資金提供をするならば、それを中立だと我々は言いません。
そして、あなた方がロシアの味方をするならば、日本は我々、大英帝国の敵となるということです。
その覚悟はおありですかな?」
パーマストン子爵は、わざとアラスカ購入の件を知らないふりをして、日本に圧力を掛ける方向で話を進めることにする。
パーマストン子爵としては、日本がロシアに資金を奪われることを止めるつもりはない。
その資金を基に、ロシアが戦争を続けてくれれば、必ず大英帝国が勝てると確信しているのだから。
だから、日本がロシアへの資金提供を止めて貰っては困るのだ。
だが、同時にロシアに一方的に得をさせる気も、隙を見せた日本を見逃すつもりもないのだ。
「我々は、ロシアと取引をしているに過ぎません。
無償の資金提供をしている訳ではない以上、味方をしたとは言えないのではありませんか」
「取引ですか?
一体、ロシアと日本はどんな取引をしたと言うのですか?」
二国間の交渉内容は、他国に通告する義務などない。
だから、この時代、幾つもの秘密条約が結ばれ、外交の表舞台の裏側で、水面下の裏切りや協力が行われてきていたのだ。
パーマストン子爵は、圧力を掛け、日本の口からアラスカ購入のことを話させ、更にロシアとの間の外交機密を話させ、日本を外交的に屈服させようと考えたのだ。
「ロシアが買って欲しい物があると言ってきたから、購入を検討しているだけです。
ロシアとの交渉内容をあなた方にお伝えする必要はないと思いますが」
「本当に、その様な取引が存在するのですか?
取引もなく、資金提供をするなら、我々はあなた方、日本をロシアの味方、我らの敵と認め、我が国の国民を守る為、あなた方を攻撃しなければなりません」
パーマストン子爵は、日本で局外中立を要求した一地域の司令官に過ぎないスターリング提督と違って、大英帝国首相だ。
その気になれば、本当に日本への攻撃を開始を決定することも可能な立場にある。
実際、彼はクリミア戦争が終われば、清国と新たな戦争を始めることを計画しているのだ。
その前に、ロシアの味方をする日本を攻撃することで、英国議会を説得するのも決して難しいことではないだろう。
その迫力が伝わったのか、日本側は暫く相談した後に、重い口を開く。
「正式に購入が決まれば、全世界に向けて発表することではありますが、今はここだけの話ということでお伝えしましょう。
我が国は、ロシアよりの提案でアラスカを購入することを検討しております」
そう言われて、パーマストン子爵は驚いたような素振りを見せ、揶揄する。
「アラスカ?日本が、あんな氷だらけの土地を買って、一体どうするというのですか?
とても信じられませんね。
ロシアへの資金提供の為の口実ではないのですか?」
「アラスカからは金が出るとの情報を得ている。
だが、今は戦争中。
とても開発する余裕がない。
だから、長期的には損をすることを承知で、我々にアラスカを売却を提案したとのことです」
その言葉を聞いて、パーマストン子爵は苦笑する。
何というお人好しだ。
本当に儲かる土地ならば、ロシアが売却するはずはないではないか。
そもそも、この話を仲介したというシーボルトは日本人と日本の風土を愛していても、自分を家族から引き裂いた日本政府を恨んでいるというのに。
そんなことも気が付かずにシーボルトの言葉を信じ込む彼らは、何と未熟なのだろう。
「だが、アラスカから日本へは随分距離があります。
その様な物を買っても、開発など出来ないのでは?」
「購入するのは、アラスカだけではありません。
日本からアラスカを繋ぐ千島列島からアリューシャン列島までの島も一緒です。
そして、我らには、今やヨーロッパまで来ることを可能にした蒸気船があります」
蒸気船と言っても、オランダから購入した物だけだろう。
未開国の人間からしてみれば、蒸気船一艘持っているだけで誇らしい気分になるのだろうが、それだけでロシアから防衛出来ると本気で考えているのか。
「なるほど、それでは、あなた方はロシアからカムチャッカ半島も購入されるのですね」
そう言われると慶喜はキョトンとして尋ねる。
「カムチャッカ半島とは?」
「ご存じありませんか?日本とアラスカを繋ぐ位置にある半島ですよ。
カムチャッカ半島がロシアの手に残っているなら、ロシアは簡単に日本とアラスカの分断が可能となります」
そう言われて、慶喜は納得したように頷き答える。
「なるほど、そうですか。ご助言感謝いたします。
それでは、ロシアにはカムチャッカ半島の売却も並んで要求してみることに致しましょう」
慶喜のあまりに素直な反応に、パーマストン子爵は少し慌てる。
カムチャッカ半島は決して小さな半島などではない。
アラスカ売却交渉中に、カムチャッカ半島まで要求されれば、さすがにロシアも交渉を断念してしまうかもしれない。
それでは、困る。
日本にはロシアに金を奪われ、クリミア戦争を継続の要因になって貰わなければならないのだ。
「いえ、カムチャッカ半島は半島とは言いますが広大です。
さすがに、それだけの土地を譲ってくれる可能性は低いでしょう」
「大丈夫、資金ならあります」
慶喜が自信満々に微笑むのを見て、パーマストン子爵は再び苦笑する。
「一体、どれだけの資金があると仰るのか」
「我が国は、ヨーロッパでは黄金の国と呼ばれているようですが、つまりはそういうことです」
その言葉にパーマストン子爵は思わず生唾を飲み込む。
無防備で大金を持った獲物がここにいる。
清を支配した後、彼らの黄金も手に入れるのが大英帝国の為ではないのか。
「たとえ、資金が大量にあるとしても、国家にとって領土は重要な物です。
あまり欲張れば、交渉そのものが頓挫する可能性もあります」
折角の獲物だ。
ロシアだけにその黄金を奪わせるのが惜しくなってきたパーマストン子爵は日本に入れ知恵をすることにする。
「ですが、カムチャッカ半島を抑えねば、アラスカ確保が難しくなると言ったのは、あなたではありませんか」
慶喜が尋ねると、パーマストン子爵が答える。
「交渉は一方だけが得をしようとすれば失敗します。
相手にも得をしたと思わせねばなりません。
ロシアが譲らないようならば、諦めることも肝心です。
その上で、日本のアラスカ購入は、我が大英帝国が保証いたしましょう。
購入が正式に決まれば、我らにお伝えください。
ロシアが資金だけ受け取って、アラスカを譲らないなどということがないようにして見せましょう」
胸の内で、そうやってロシアを牽制しながら、日本侵略を考えて、パーマストン子爵は微笑む。
「それは実に助かりますが、その様なことをしても、あなた方には、何の利益もないのでは?」
「我が大英帝国は、平和と秩序を愛する国です。
だからこそ、ロシアがあなた方を騙したり、虐げたりすることを許せないのです」
「大英帝国の好意に感謝いたします。
そして、ご理解頂きたい。
我々日本がロシアと取引するのは、あくまでも日本の利益の為。
ロシアを助ける為ではないのです。
同じ様に、もしあなた方、大英帝国が、我が国に土地を売ろうというのならば、我々は検討いたします。
香港だろうと、ニュージーランドだろうと、オーストラリアだろうと、インドだろうと。
あなた方が売却すると言うなら、我々は真摯に検討致します」
慶喜の言葉にパーマストン子爵は思わず笑いだす。
プリンス・ケーキはユーモアを理解するのだろうか。
それとも、本当の道化なのだろうか。
太陽の沈まない帝国である大英帝国が東洋の辺境の小国に土地など売る訳がないではないか。
「それは、どれも大事な我が国の領土です。
日本全てを売り払っても、売ることは出来ませんよ」
パーマストン子爵が笑いながら答えると、慶喜も微笑んで答える。
「それは残念です。
しかし、資金が足りなくなった時は、いつでも声をお掛け下さい。
では、最後に、アラスカ購入された場合を含めた、我が国の領土を保証する条約に署名を頂けませんか」
その言葉にパーマストン子爵は頷くと、条約文書に目を通しながら考える。
ロシアが日本からの資金を奪うことに成功すれば、クリミア戦争は後1~2年は続くだろう。
そこで、大英帝国が、ロシアを徹底的に叩き、賠償金を得て、黒海に橋頭保を得ることが出来れば、ヨーロッパにおけるロシアの無力化は完成するだろう。
その上で、次の獲物は清。
アヘン戦争で香港を獲得し、自由貿易は始まったものの、未だに清との間の貿易は大赤字。
清が大英帝国の製品を買ってくれないので、貿易を続けるほど、大英帝国が損をする状態。
何としてでも、戦争を起こし、この不利な貿易状況を、大英帝国に損のない公正な状況にしなければならないだろう。
日本に手を出すとすれば、その清との戦争の最中か、清との戦争後。
時間にすれば、5年から10年後だろう。
それならば、今は、日本の領土を認めて置いてやっても問題はないだろう。
この未熟な連中なら、幾らでも攻撃する口実を与えてくれるだろうからな。
そんな風に考えながら、条約に署名をすると、慶喜始めとする日本視察は嬉しそうに微笑む。
実に愚かだが、その正直さ、素直さは、我ら文明人が失ってしまった美徳なのかもしれない。
日本のアラスカ購入は、ロシアの暴虐の理由として戦意高揚の材料とさせて貰うこととしよう。
無垢で素直な少年たちを騙し、戦争資金を得て、トルコ侵略を諦めない暴虐の帝国として、ロシアを非難すると宣言するのだ。
それならば、国民の支持は得られるだろう。
そう考えながら、パーマストン子爵は、心からの笑顔を慶喜たちに向けるのだった。
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慶喜はパーマストン子爵との会談を終えると、謁見の間として使っているホテルのスイートルームに、パーマストン子爵との会談の際に通訳を務めた渋沢栄二郎(栄一)、大久保一蔵(利通)の他に、ロシアとの通訳を務めている吉田寅次郎、桂小五郎、オランダ語及びフランス語の通訳を任せている橋本左内を呼び寄せる。
本来、外交機密に関することは、機密を知る者は少ないに越したことはない。
機密を知る者が増えれば、その秘密が漏れる危険も増すのだから。
だが、通訳をさせる以上、慶喜の目的が解らなければ正しく通訳することは出来ない。
そう考えて、慶喜は視察団の通訳たちに全ての情報を共有することに決めたのだ。
「結論から言おう。
全て予定通りに、うまく行った。
パーマストン子爵は、アラスカも含めた我が国の領土を安堵する条約に署名をしてくれたぞ。
これで時間が稼げる」
その言葉に部屋の空気が明るくなると、慶喜が苦笑する。
「だが、正直、拍子抜けだな。
地球で最大の帝国の宰相であるなら、もう少し、歯ごたえがあるかと思ったが」
慶喜がそう言うと、大久保一蔵が呟く。
「あん方は我らを知らず、知ろうともせずに、未開ん野蛮人と侮っちょったで、こうなったんやろう」
「耳の痛い言葉だな。
ワシも日ノ本を出る前は、異人を知らず、知ろうともせず、野蛮人と侮っておったからな。
一歩間違えば、ワシも同じ様な醜態を晒していたかもしれないということか。
だが、吉田、ロシアとの交渉が少しだけ増えたぞ。
ゴルチャコフ公爵との面会を取り付けてくれ」
ゴルチャコフ公爵というのは、パリ講和会議の為に来ているロシアの外相。
現在、アラスカ購入交渉を寅次郎が仲介している相手でもある。
「何を提案されるのでありますか?」
吉田寅次郎が尋ねると慶喜が答える。
「アラスカだけでなく、カムチャッカ半島も売ってくれと提案してみる。
そうすれば、交渉は更に長引き、時間が稼げるだろう」
言われた寅次郎は驚いて答える。
「確かに時間は稼げるかもしれませんが、アラスカ購入が失敗するのは反対であります」
「こちらの目的は、クリミア戦争を長引かせることだけだ。
別にアラスカ購入に拘ることはないだろう」
「アラスカは資源豊富な土地であります。
借財の返却に失敗すればロチルド男爵に譲らねばなりませんが、うまく行けば国家100年の利益になりうる土地であります。
更に、シーボルト殿経由の提案にロシアが乗ってくれば、イギリス、ロシアは不俱戴天の仇として長きに渡り戦うことになるかと。
これも、ロシアへの資金提供が成功してからの話であります」
寅次郎がそう言うと、慶喜は少し考えてから橋本左内に尋ねる。
「シーボルトの提案に、ロシア側は乗り気なのか?
感触なりとも、何か聞いておらぬか?」
「アラスカ購入の件、シーボルト殿が日本を説得して成功したとシーボルト殿がゴルチャコフ公爵に伝えておるようですが、ロシア本国にはシーボルト殿ではなくゴルチャコフ公爵が日本を説得したことになっている様です。
その上で、大久保殿の戦略提案は、シーボルト殿の提案として、ロシアに伝わっているかと」
その言葉を聞いて慶喜は苦笑する。
「ふん、何処の国も同じよのう。
手柄は自分の物。失敗する危険のある提案は他人の所為か。
さて、大久保、本当にお主の提案、うまく行くと思うのか」
「ロシアが提案を飲まず、正面切って戦いを続けて負けてん、こちらに損はあいもはん。
提案を飲んで行動して失敗してん、ロシア側ん損は決して大きっはなか。
そして、提案を飲んでうまっ行けば、そん利益は計り知れんかと」
「なるほどのう。しかし、大久保は、本当にえげつないことを考えおる。
敵には回したくないものだな」
「そんた、こちらも同じでごわす。地球最大ん帝国ん宰相を相手に一歩も引かん胆力。
さすがは権現様ん再来ち言わるっだけんことはあっかと」
慶喜と一蔵は互いに口元に笑みを浮かべる。
この様に、事態はアロー戦争を延期させるだけのつもりだった海舟会の計画を大きく超えて、進展していくことになる。
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そして、パーマストン子爵との会談から半年後、日本がロシアからアラスカ、千島列島及びアリューシャン列島を購入することが正式に発表される。
購入代金は700万アメリカドル。
当然のことながら、ロシアがカムチャッカ半島全域の売却を認めることはなかったが、その代わりに、日本とアラスカを繋ぐ拠点としてカムチャツカ半島の都市ペトロパブロフスク・カムチャツキーを日本はロシアから譲り受けることになる。
この都市は、クリミア戦争でイギリス、フランスの攻撃を撃退した拠点であったが、この当時は補給の困難さから放棄されていた為、ロシア側も譲渡しても構わないと考えたのだ。
この譲渡により、日本はアラスカの莫大な鉱山資源を手に入れ、アラスカと日本を繋ぐ確かな拠点を手に入れることに成功。
ただし、同時に日本は地続きでロシアと国境を接することとなるのである。
このニュースに対し、パーマストン子爵は、ロシアが幼い日本を騙して、戦争資金を得たと激しく非難。
ロシアへの敵意を煽り、イギリス国民及びフランス人の支持を得ることに成功したのである。
そして、イギリスはフランスと共にクリミア戦争再開の準備を始めることになる。
今度こそ、黒海のロシア軍を壊滅させ、決定的な勝利を得る為に。
それは、全てパーマストン子爵の計算通りである様に思われた。
だが、そこにパーマストン子爵の全く予期しなかった事件が発生する。
1856年10月 平八が夢で見た世界線で起きたアロー号事件が起こらず、
インドで大反乱、いわゆるセポイの反乱が発生するのである。
それは、平八が夢で見た世界線より、7か月早い、反乱の発生であった。
一体、どうしてインド大反乱が起きたのか。
その結果、何が起きるのかは次回になります。
お楽しみに。
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