泣かないで、お兄さん
みんなに食事を渡し終わったお兄さんは、入り口近くに置いてある椅子に座って本を読み始めた。
最初は何をしているのか分からなかったけど、向かいの部屋にいる子が教えてくれた。
パンみたいに厚いのに、パンよりも薄くペラペラしたものを捲る姿は本当に不思議だった。
お兄さんはボクが見ていても怒らないので、ボクはずっと見ていられた。
「なあなあ、そんなに見てて楽しいのか?」
向かいの部屋にいる子が聞いてきた。
太った男の人や細っちょの男の人の時だと、殴られたり、怒鳴られたり、水を掛けられたりするけど、お兄さんはボクたちが話していても何もしないので、ボクたちは気兼ねなくお話をすることができる。これもお兄さんが好きな理由の一つだ。
「楽しいよ。だって、夜の空みたいできれいじゃないか」
「夜の空? 夜って暗いだけだろ? 何が楽しいんだ?」
「暗いだけじゃないよ。えっと、お月さまっていうお日さまの親せきがいて明るいんだって言ってたよ」
「明るい? なら、なんで“夜は暗いから寝ろ“って言葉があるんだ? 意味分からん」
「そんな、ボクに聞かれても」
ボクは助けを求めるようにお兄さんを見つめた。
お兄さんは黙々と本を読んでいる。
いつもそうだ。ボクやボク以外の誰かが困っていても助けてくれない。
お兄さんは優しい訳じゃない、優しい訳じゃないけど………
「あ、あの、お兄さん」
声を掛けると、お兄さんはチラリとこちらを見てくれる。
無視は絶対にしないんだ。
「何で夜は暗くて寝ないといけないの?」
お兄さんはムッとした表情のまま、手の平に顎を乗せながら目を閉じて答える。
「夜が暗いのは太陽がないからだ」
「けど、お月さまがあるよ?」
「月は太陽……お日さまの光を反射しているだけに過ぎないから太陽ほどの光はない。暗い世界は視覚情報……目が見えなくなるから出歩くのは不向き……しない方がいいと言われている。まあ、昼の外出の方が危険が少ないという親心というのもあるのだろうな」
お兄さんは難しい言葉を、ボクたちにも分かるように言い直してくれる。
(それでも、あんまり分からないけど、夜は目が見えなくなるから危険で、昼は目が見えるから安全ってことなんだよね)
ほんの少しだけボクにも理解できたけど、向かいの部屋の子はまだ首を傾げている。
ボクは説明しようと口を開きかけたが、その前に向かいの部屋の子は疑問をお兄さんに尋ねた。
「“おや”って何?」
その時、お兄さんの顔が見たことのない風に歪んで見えた。
それは三日に一度あるボクたちの“お仕事”の時のような顔に似ていて、ボクは胸が痛くなった。
お兄さんは目元に拳を押し付けて、顔を隠しながら説明してくれた。
「……親は、お前たちを形作った連中のことだ」
「れんちゅう? って、たくさんいるってこと?」
「ああ、親になるためには男と女、二人必要になる」
「何で親になるの?」
「……自分たちのためだ。自分たちのやりたいことをしてできるのが子供であり、子供は親にとって都合のいい道具でしかない」
お兄さんの顔が見えないけど、お兄さんが泣いていることだけは分かる。
ジンジンと胸に響いてくるお兄さんの悲鳴に、ボクは目から水が流れてきた。
「……何を泣いている」
お兄さんがボクの異変に気付き、近づいてきた。
怒らせてしまったようだ。
殴られるのか、罵倒されるのか。
初めて見るお兄さんの“怒りの感情”に、ボクは不安で、怖くて泣いてしまった。
お兄さんの手が鉄格子の隙間から入り込む。
(怖い!)
ボクは恐怖で腕を抱いて固く目を閉じると、頬に温かいものが触れてきた。
お兄さんの手だ。
顔を上げると、お兄さんの紫色の瞳の中にボクが映っている。
ボサボサの若草色の髪に薄汚れたガリガリの体、元は白だった薄汚れたワンピースを着たボクの姿だ。
(こんな姿を、お兄さんにみせていたなんて……)
羞恥と情けなさで、俯こうとしたが、お兄さんの暖かな手がそれを許さない。
どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。
ボクはお兄さんの温もりが恋しくて、お兄さんの手に触れて頬擦りをした。
お兄さんは手を振り解かない。
ボクはお兄さんの優しさに甘えてしまった。