第26話 姫、社長に泣かれる
「フリップフロップ?」
なんだっけ? 昔聞いたような気がするけど、思い出せない。
「信号に応じて結果を出力し、その結果を保持する回路です」
「その結果と新しい信号により更に次の結果を出力出来る。保持した内容の書き替えも出来るということだ。平たく言えばコンピュータのメモリだ。レジスタともいう」
「順序回路の基本要素です」
「順序回路!!」
コンピュータの中にはそんなものがあるのか。だから魔法が電子回路で使えるわけか。
「そしてな、フリップフロップは双子のような構造なんだ。原理的には、AND回路素子とOR回路素子を直列に繋いだものなんだがな」
「AND回路とOR回路?」
「AND回路は直列スイッチ回路だ。二つのスイッチの両方がオンになる時だけ出力がオンになる。OR回路は並列スイッチ回路だ。二つのスイッチのいずれかがオンになれば出力がオンになる。両方ともオフの時だけオフ。もちろん両方オンならオンだ」
「うん、それはなんとなくわかる」
ANDは『かつ』、ORは『または』だな。
「電子回路上にOR回路素子が一つあると考えてくれ。片方のスイッチは回路上にある。回路から出ているもう片方のスイッチをオンにすると、OR回路素子の働きによって電子回路もオンになる」
「そりゃそうだ」
「だが、これだけだと回路はずっとオンのままだ。回路から出てるスイッチをオフにしても、回路上にあるスイッチはオンのままだからな」
「ああ、電子回路側のスイッチがオフにならないからか。ずーっとオンのまま電流がぐるぐる回ってる訳か」
「そうだ。まあこの状態がレジスタがオンを記憶しているということなんだがな。でもこれじゃ実用的ではない。そこでAND回路素子を電子回路に加える。片方のスイッチはOR回路素子同様、回路上にあるとする。そこで回路から出ているもう片方のスイッチをオフにすると」
「回路全体がオフになるな。AND回路の直列動作により片方がオフになれば電子回路上のスイッチも切れるから」
「そうだ。オンやオフの状態を記憶し、書き換える。それがフリップフロップ回路だ。だが実際はAND回路素子とOR回路素子じゃなくて、二個のNAND回路素子を使う。双子のようだ、というのはNAND回路二個をクロスさせたように繋いだ形をしているからだ」
「NAND回路?」
「AND回路にインバータがついたものだ。インバータは出力を反転させる。言い換えれば、否定する。すなわちNOTだ。だからNOTAND、つまりNAND回路だ」
「わ、わからん…」
「論理式は高校でやるだろ! まあいいや、おさらいがてら説明してやる。NANDはANDの否定だ。つまり、二つのスイッチがどちらもオンのときだけオフになる」
「うん? こんがらがってきた……」
「ANDはかつ、だ。AかつB。NANDはAかつB、ではないものだ。ベン図を書けばわかりやすい」
姉ちゃんは紙に丸を二つ書いた。一部が重なっている。その周りを四角く囲った。円にA、B、四角く囲ったところにUと書き入れる。
「Uは全体集合だ。AかつBは集合Aと集合Bが重なった部分だ。AかつBの否定は、円が重なったところ以外の全部だ」
そう言って、重なったところ以外の四角い内側をざっと塗りつぶした。
「もう一枚書くぞ。AまたはBはわかるな」
「AとB全部だよな」
「これは、Aの否定かつBの否定、の否定と一緒だ」
「え? そうなるのか? ええと、AでないものかつBでないもの……つまりABを除いたUか。ABを除くU、ではないもの……。ああ、ほんとだ。AまたはBと同じだな」
「そうだ。またはは論理和、かつは論理積という。論理和は論理積と否定の組み合わせで表すことが出来る。すなわちド・モルガンの法則だ。ORとNOTANDNOTは同じものということだ。このうち片方のNOTをANDに移す。するとNOTANDが二個になるだろ」
「そうだな……?」
「つまりOR回路とAND回路のペアは、NAND回路二つと等価だ」
「ああ! そういうことか! だから双子なんだ!」
「そういうこった。ちなみに、NOR回路二個でもフリップフロップになる。説明は省くぞ。同じ理屈だからな。双子の回路素子は片方がリセットでもう片方がセットに働くから、これをRS型フリップフロップ回路という」
「へえ……」
「そしてそのフリップフロップは、もうそこにあるだろ」
「え?」
「ソフィの中だよ。あんたとソフィの二つの魂。それが、まさしくフリップフロップだ!」
びしいっと音がするかのように指を指された。
出た! 姉ちゃん得意の『真実はいつもひとつ』ポーズ!!
「ええええ?」
「RS型フリップフロップにはひとつ禁則事項がある。同時に入力がオンには出来ない。出力が不定になるからな。だからなんだろう、醍醐の考えていることはソフィに伝わるが、ソフィの考えてることが醍醐に伝わらないのは。同時にオンにならないよう禁則処理されているんだ」
「先生、完璧です。鶏冠井もそう理解しました」
そ、そうなのか!
「醍醐、魔法の術式を覚えろ。そうすればソフィとのフリップフロップ回路が動作し電素に順序を与えることが出来る。つまり、現実世界で魔法を起動出来る!」
「マジ!?」
「センセイ! アリガトウ、ゴザイマス! ワタシガ、でぃーごニ、マホウヲ、れくちゃースレバ、イイノデスネ!」
「そのどおりだ。ソフィ、頼んだぞ! 並行して運動量保存の解読は進めるが、ソフィが直接術式を教えた方が早いかもしれない。あんたたちの間なら、言語変換機能が働くんだろ?」
「ハイ、ハタラキマス! チョクセツ、マホウヲ、オシエラレマス!」
「ええええ、このうえ魔法の勉強までするのか……」
「希望が見えてきましたね! 女神さま! でも……」
鶏冠井さんがちょっと残念そうだ。
そうだな、魔法が使えるようになれば、ソフィは異世界に帰る。
俺の魂も元の体に戻る。
そして芸能界ともお別れだ。
「カイデサン、センソウゲツニ、ショウリスレバ、マタ、モドッテ、キマスヨ。ソレニ、コッチニ、モドルジカンハ、ジユウニ、セッテイ、デキマス」
「そうか、ソフィは時間操作できる。どちらの世界でも、すでに起こってしまったことよりも以前に時間を巻き戻すことは出来ないようだが、あっちに転移直後に戻れるように、こっちにも転移直後に戻って来れる!」
「タイムロスはない! そうですね!」
「ハイ、ダイジョウブデス。すけじゅーるニ、アナハ、アケマセン!」
「女神さま、ありがとうございます!」
「ダッテ、ミナサンニハ、オセワニ、ナリッパナシデス。ソレニ、コノセカイモ、たれんとモ、タノシイデス」
「ソフィ、ほんとにそれでいいのかい?」
「モチロンデス!」
鶏冠井さんが涙ぐんでる。
俺はこの時も、ソフィはいい子だな、と思っていたんだ。本気で。
◇◇◇
それから更に10日が過ぎた。
コマーシャルビデオが完成し、HAZUMAKIホールディングス本社で試写を行うとの連絡があった。
その日ミーティングルームに集まったのは、桂後水メディア事業部長をはじめ、事業部幹部の面々、出角監督はじめ主要製作スタッフ、それに鶏冠井さん、俺。
さらに筈巻の社長も同席だ。
「椥辻ソフィーリアくん、はじめまして。私がHAZUMAKIホールディングス社長の一乗寺だ。よろしく」
反射的に立ち上がり、45度のお辞儀をして両手で名刺を受け取る。
HAZUMAKIホールディングス 代表取締役CEO 一乗寺音海。
オールバックにしたロマンスグレーが若々しい。遣り手オーラがビンビン出てるおっさんだ。
前の会社の常務を思い出した。
うっ、いやな記憶。
「じゃあ、試写行きます!」
「よろしくお願いします」
出角監督と桂後水部長が確認しあい、プロジェクターが点く。
カラーパターンの後、ピーという音がして、CM本編が始まった。
……。
作中に回路図やベン図を書けば簡単だったのですが、なんとなく絵で説明したら負け、という気分になったので、会話のみで進行しました。
すみません。