1 カノン
これまでにないくらい一生懸命自転車をこいだおかげか、なんとか間に合ったようだ。周りにはまだ生徒と思われる人がちらほらと見える。
事前に知らされていた僕のクラス、2年5組の駐輪場に自転車をとめた。
昇降口で下駄箱を確認し、靴を履き替えた。
(友達、つくれるかな…)
前の学校ではあまり友達と呼べる人がいなかった。僕自身が人と積極的に話せるような性格ではない。この転校を機に変わることができれば…。
「やあ、きみが転校生の子だね?」
「うわっ!…あ、はい。」
唐突に肩をポンとたたかれた。僕は肩を跳ね上がらせて後ろを振り返る。
そこには、背が高く体格の良い男の人が立っていた。
「あぁ、ごめん。びっくりさせてしまったかな。俺は辰木 蓮次郎。2年5組の担任なんだ、よろしくな。」
辰木先生はにこりと笑って右手を差し出した。
「あ、はい。よろしくお願いします。」
僕もおずおずと右手を差し出した。そうすると辰木先生はがっしりと掴んだ。固い握手である。
(先生、握手にしては力こもり過ぎでは!!ちょ、痛い痛い!!)
つい少し顔をしかめてしまった。それに気付いた辰木先生は、ぱっと手を放してくれた。
「ごめんごめん、痛かったか?」
「いえ、大丈夫です。」
(めちゃくちゃ痛かったです。)
「そうか、ならいいんだが。…お、もうこんな時間か。教室に案内するから、ついてきてくれ。」
辰木先生は腕時計を見て言った。
返事をする間もなく辰木先生はスタスタと歩いていく。
「あ、待ってください!」
僕は小走りでそのあとを追った。
教室は好奇の眼差しであふれていた。対象はもちろん、僕である。
「じゃあ、名前を黒板に書いてくれ。」
「分かりました。」
渡された短いチョークで黒板に名前を書いていく。後ろから感じる視線が、ただでさえおぼつかない手先を余計に震わせる。
やっとの思いで名前を書きあげ、クラスメイトの方を向く。
「信堂 奏音と言います。よろしくお願いします。」
名前を名乗った瞬間、教室がわずかにざわめいた。
やっぱりな。
それが僕の感想だった。
奏でる音、と書いて『カノン』と読む、それが僕の名前だ。女の子に似合うだろう、この名前が原因でちょっかいをかけられたことが何度あっただろうか。自然と小さなため息が漏れた。
「信堂君の席は真ん中の列の後ろから三番目だ。みんな仲良くするんだぞ。信堂君、席についてくれ。」
言われた通りに席に着くと、少しだけ緊張がほどけたような気がした。
―語呂が良いってのいうのもあったけど、母さんがな、奏でられた音のように澄み切った心を持って育つようにって言ってくれて、それが決定打になったな。―
不意に父さんが言っていた言葉を思い出した。あの時の父さんの笑顔ときたら。まるで世界一だとでも言うような、誇らしげで、かつ優しく包み込むような、そんな笑顔。名前の持ち主である僕はくすぐったく、照れくさかったのを覚えている。
(…まぁ、からかわれるのはもう嫌だけども。)
ちょっとだけ肩を回して強張った身体をほぐす。今日は始業式とホームルームだけらしい。朝から体力と精神力をすり減らした僕には助かるスケジュールだ。
クラスメイトの流れに合わせて、体育館へ向かった。
どこの学校でも校長先生の話は長ったらしいのだろうか。
始業式の3分の2は費やしているんじゃないかとも思った。
生徒はもちろん、先生方でさえも疲弊しているような気がする。
ようやく終わり教室に戻って来るや否や、みんな背伸びをしたりあくびをしたりと、いかに校長先生の話が退屈でつまらないものかをあらわにしているようだった。同感だ。
「おーう席につけぇ。」
同じく疲れの色を見せる辰木先生が声をかけると、みんなガタガタと席に着いた。
「今日はあとこれで終わりだ。気をつけて帰るようにな。あと、次のロングホームルームの時間に学級委員決めるから、それまでは悪いが明石君と相沢さんやってくれないか。」
「俺らスか?うえぇー…いいスけど。」
「…分かりました。」
学級委員代理に指名された2人はしぶしぶ了承した。
「じゃあ明石君、信堂君に学校の案内をしてくれ。」
「お、了解ッス。」
あ、案内までしてくれるのか。学級委員代理ありがたい。
その後、辰木先生が事務連絡をしているときに明石君は僕を振り返った。
「(よ、ろ、し、く、な)」
口パクでそう言ってにこりと笑う。
前の学校でこんなことなんてなかった僕はなんだか嬉しくなった。
「(こ、ち、ら、こ、そ)」
そう口パクで返すと、明石君はまたにこりと笑って前を向いた。
僕はなんだかあたたかい気持ちになった。