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灰色の紙

作者: たつ

お前は機械だと身体に言い聞かせて、息を止めて階段を駆け上がっていた。もう走らなくとも間に合うことは分かるけれど、その勢いを崩すのはもったいないように思えた。登りきったプラットホームは日向と影が正しく模様を描いて、平和に満ちていた。自分が透明になって、息切れの苦しさだけになったように思えた。膝に手をついてじっとそれを味わっていたら、吐く息と一緒に唾液が唇から滴り落ちた。途端に恥ずかしくなって、心地よい幻想は去っていった。唾液はコンクリートと唇をつないだままで、黒い蟻たちが唾液の糸をつたってよじ登ってきそうだった。蟻の視線は私を見ている人間の視線と同じだった。


車内は空いていた。他の乗客は皆座らずに外の風景を眺めていて、一人遠慮がちに席の端に座った。呼吸は荒いまま、埃臭い陽光を何度も吸い込んだ。整髪料を照り返しているスーツの男が、苛立たしげに携帯と話し込んでいる声が耳に障って、その後は静かになった。 息がととのった頃、次の駅で一人の男が乗り込んできた。競馬新聞と缶ビールは彼によく似合っていたけれど、どこか機械的な歩き方で、酔っているようには見えなかった。彼は私の前を横切って、優先席の真ん中に埃をたてて座った。缶ビールは窓枠にカチリと音を立てて置かれ、ジグソーパズルのピースがうまくはまったようだった。彼はモスグリーンのハンチング帽の傾き具合を気にしてか、何度も帽子に右手を添えた。その手は無残にカサついていて、目をそらせなくなった。あの灰色の紙が、手の水分を吸い尽くしていく様を思い浮かべた。本当は、時間やお金のような抽象的なものじゃなくて、ひたすら水を奪ってゆくのかもしれない。あの唾液は、コンクリートの上ではなくて、彼の手の甲に落ちるべきだったろうか。それは浅黒い皮膚の皺をつたって、爪の先までゆっくりと流れ落ちてゆく。 気味の悪い想像のまま、口の中を舐め回してみたけれど、どこも舌がはりつくだけだった。なぜだろう、さっきまでいくらでも溢れていたのに。次第に焦り始めていた。車内アナウンスが、次の駅が近づいていることを告げていた。


いつの間にか男はこちらを見ていた。傾いたハンチング帽から左目だけがのぞいていた。うっすら笑っているように、憐れんでいるように、口元を歪ませていた。彼の視線の先がわかって、自分の手の甲を見るのが怖くてたまらなくなった。私は目をきつく閉じて、舌を不器用に動かして、ひたすら唾液を、探し続けた。

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