お腹も心も満たしましょう!
木々が鬱蒼と生い茂る森の中。
「はあ、はあっ……!」
まだ五歳ほどの小さな男児は息を切らせながらも懸命に走っていた。子供特有の丸い瞳にはたっぷりと涙が浮かんでいる。
「た、助けて……っ!」
引きつる喉から絞り出した声はあまりにも小さく、周囲の木々のざわめきにかき消されてしまう。
「あっ……!」
その時、走り疲れて重くなっていた足が地面に張っていた木の根に引っかかり、男児の小さな体は勢い良く前へと投げ出されてしまった。
土埃を上げて盛大に転んでしまった男児は直ぐに立ち上がろうとするも、派手に擦り剥いた膝がズキズキと痛んで上手く足が動かない。
そうして焦る男児を、ふっと大きな影が覆った。
「あ、うわああっ……!?」
恐怖に震える男児を見下ろしているのは、優に二メートルはある巨大な黒い牛だった。爛々と凶悪に光るその赤い目は男児を『獲物』として見つめている。
「《ブモーッ!》」
「や、やめて、来ないで……っ!」
腹の底に響く鳴き声と生温かい鼻息を吹き付けられて、自分の最期を覚悟した男児はぎゅっと目を瞑った。
「そーれっ! 飛んでけーっ!」
そんな呑気な声と鋭い音が、緊迫した空気を裂いた。
「えっ……?」
「《ブモオオッ!?》」
男児が思わず涙目をぱちくりと開けば、今にも自分を喰い殺そうとしていた筈の黒牛が悲鳴のような鳴き声を上げながら地面に転がっていた。その太い首には、弓矢が深く突き刺さっている。
状況が理解できずに男児がその場で固まっていると、近くの茂みがガサガサと揺れた。
「だ、誰……?」
もしかして新しい獣が来たのかと怯える男児。
しかし、その予想に反して茂みから現れたのは、
「やったあ! 牛肉ゲットーっ!」
肩まで伸びて元気に跳ねている髪は太陽の金色。背丈は少し小柄な程度で、年齢は十代後半に見えるが、浮かべている笑顔はあどけない。
凶暴な牛から男児を救ったのは、弓を片手に嬉しそうに笑う、真っ赤なベレー帽とサスペンダーズボンに身を包んだ少女だった。
***
森を抜けて少し歩いた先にある小さな町。
その中にある一件の民家の前で、大きなリュックを背負った少女はその女性と会話を交わしていた。
「本当に有り難うございました……! どんなお礼をしたら良いのか……」
「お礼なんて要りませんよー。私も欲しかった食材を手に入れられましたし、気にしないで下さい!」
深々と頭を下げる女性に対し、人の良い笑顔で答える少女。
そんな少女を自分の母親の隣で見上げていた男児は、先程までの恐怖など忘れた様子で少女に問いかける。
「ねえねえ、お姉ちゃん!」
「ん? なあに?」
「お姉ちゃんは狩人さんなの?」
その質問に少女は苺色の瞳をきょとりと丸くさせ、それから優しく細めると首を横に振った。
「んーん、違うよ」
「え? でもさっき弓で戦ってたよね?」
自分を助けてくれた時の光景を思い出して、男児は不思議そうに首を傾げる。
そんな少年に少女はくすっと笑うと、視線を合わせるように屈み込んで小さな頭を優しく撫でてやり、そして何処か誇らしげにこう言った。
「お姉ちゃんは、料理人なのです!」
***
平原を少し行った先にある森。
歩いて三十分掛かるか掛からないか程度の距離を行くと、道が開けてなだらかな丘が広がっている。
その丘の頂上に建つ、小さな丸太小屋。
金髪をそよ風に靡かせた少女は『キッチンウールーズ』と書かれた赤銅の丸いプレートが付いているドアを開けた。
「お師匠様、ただいま帰りました!」
綺麗に拭かれたテーブルと椅子が並ぶ少し狭い空間に、ドアに付けられたベルの音と少女の元気な声が響く。
そして少女は返事が返ってこない事にも構うことなく、笑顔で小屋の奥へと早足で入って行った。
「お師匠様、お師匠様! 今日は質の良い牛肉が捕れましたよ!」
調理場となっている小屋の奥に飛び込むや否や、少女は調理台に立っていた男に満面の笑みを向け、背負っていたリュックを下ろして差し出してみせる。
しかし、男はニンジンを切っていた手を止めると、握っていた包丁を一旦まな板に置き、呆れたように溜め息をついた。
「……俺をお師匠様と呼ぶのは恥ずかしいから止めろって言ってるだろ、ミエル」
一見すると軟弱と評価されかねない細い体。灰色の髪を一つに結ったその男は、飴色の瞳を細めてそう言うと、差し出されたリュックを受け取った。そして、中から布に包まれた牛肉の塊を取り出す。
そんな男に少女ーーミエルは、ズボンのポケットから出した様々な木の実を籠の中に移しながら、人懐っこい笑顔を向けた。
「だって、ラクティ様は私に弓や料理を教えてくれた人ですよ? だからお師匠様で良いのです!」
「確かにそうだが……だからって様付けはだな」
「あ、お師匠様。森で採ったキノコはこっちで半分干しておきますね?」
「……聞いてないし」
何処までもマイペースな態度で返してくるミエルに男ーーラクティはがっくりと肩を落とす。
そして諦めたように溜め息をつくと、布を剥がした牛肉をまな板の上にどんっと置き、その品質を確かめながら顎に手を添えて言った。
「うーん……なかなか良い肉だし、どうするかな……」
「ハンバーグはどうです?」
「そうだな……うん、じゃあそうするか。ミエル、裏の畑から玉ねぎを採ってきてくれるか?」
「はーい、了解しました!」
ぴしっと敬礼をしたミエルはすかさず踵を返し、ぱたぱたと可愛い足音を立てながら、慌ただしく調理室を飛び出していく。
ラクティは苦笑しつつも微笑ましさを感じながらその背中を見送る。そして腕捲りをし直すと、早速開店の準備に取り掛かり始めたのだった。
***
遠くの空で一番星が輝く頃に『キッチンウールーズ』のドアは開けられた。
来客を知らせるドアベルの音を聞いて、テーブルを拭いていたミエルは笑顔でパッと振り返る。
「いらっしゃいませ!」
「よう、ミエルちゃん」
片手を上げて店内に入って来たのは、広い鍔の帽子を被った三十代前半くらいの大柄な男性だった。所々穴の空いたマントの隙間から覗くがっしりとした腰には、幾つかの皮袋と大小の剣が一本ずつ下がっている。
如何にも熟練の旅人といった風貌のその男性を、ミエルは気心知れた笑顔を浮かべて迎えた。
「マウロさん、お久しぶりです! いつもご来店有り難うございます!」
「こっちに来た時は此処で飯食わねえと、次の日に力が出ねえからな。今日のメニューは何だ?」
マウロと呼ばれた男は、そう言いながらミエルの案内も待たずに我が物顔で一番奥の隅の席に着いた。
しかし、ミエルは嫌な顔一つせず、カウンターに用意しておいた水差しからコップに水を注ぐと、それをマウロの前にことんと置いた。
「今日は良い牛肉が入ったので、肉汁たっぷり熱々ハンバーグです!」
「お、そりゃ楽しみだ。ラクティの料理は何でも美味いが、やっぱり肉は食べ応えがあるからな」
「はい、ボリューム満点ですよ! では少々お待ち下さいませ!」
にぱーっと愛想の良い笑顔を残し、ミエルは注文を伝えに調理場へと足早に駆けていく。
「お師匠様! 注文が入りました!」
「聞こえてたよ。マウロは声が大きいからな」
ミエルが調理場に入ると、其処では緑色のエプロンを着けたラクティが既に調理に取り掛かっていた。
きちんと研がれた包丁で、玉ねぎをあっという間に微塵切りにしていく。
その手際の良さにミエルは目をきらきらと輝かせた。
「流石はお師匠様……!」
「こらこら、見てないで仕事をしてくれ。付け合わせのパンとスープをまだお出ししてないだろう?」
「あっ、そうでした! ごめんなさい!」
苦笑するラクティに注意されて我に返ったミエルは、流し場で手を洗ってから、竈にかけていた大きな鍋を覗き込む。
鍋の中では開店前に裏の畑で収穫したキャベツやニンジン、以前作り置きしておいたベーコンが入った旨味たっぷりのスープが丁度良い具合に煮えていた。
「……うん、バッチリ! では仕上げにこれを入れて、っと」
くんくんと匂いを嗅いだミエルは満足そうに笑うと、傍の棚から取り出したバターをほんの一欠だけ鍋の中へと入れて、玉杓子でゆっくりとスープをかき混ぜた。
そして、溶けたバターが綺麗に混ざったのを確認すると、鍋の中から玉杓子を引き上げてそのまま口に運んだ。
ミエルの唇に透き通った黄金色のスープが啜られていく。
「ああ、美味しい……! 体に染み渡る……」
「ミエル? 味見は一回だけだからな?」
「うっ、わ、分かってますよ!」
背後から飛んできた厳しい声に、舌に残る余韻に恍惚としていたミエルはぎくっと肩を跳ねさせた。
食器棚から木製のスープ皿を取り出すと、そこに出来たばかりの野菜スープを注いでいく。
そうして完成したスープをテーブルに一旦置き、次に厚手のミトンを両手に填めて、隣の煉瓦作りの窯に予め入れておいた鉄板を床に落とさないように引き出した。
「よいしょ、っと……」
ずるずると引き出された鉄板の上に並んでいたのは、綺麗にこんがりと焼き上がった丸いパンだった。
満月のようにぽってりとしたそのパンの表面には細かく砕かれた木の実が乗せられていて、香ばしい匂いを更に引き立てている。
その匂いを胸一杯に嗅ぎながらミエルは鉄板を慎重に傍の台に置き、マウルに出す分の二個だけを鉄板の上に残すと、残りのパンは籠の中に移し替えた。
「ミエル、序でにハンバーグ用の鉄板を出しておいてくれ」
「あ! はーいっ!」
タイミング良く掛けられた声に明るい返事をしたミエルは、今しがた鉄板を取り出した窯を覗き込んで、窯の中の脇側に置いてあった楕円形の鉄板を取り出す。
そして、それをラクティの元へと運び、フライパンとフライ返しを握っている彼の邪魔にならないような位置に置いた。
「有り難う。じゃあパンとスープを先にラウルさんに……」
「お師匠様のフライパン捌きを見たいです!」
「……あのね、ミエル」
「お客様がいっぱい来る前に一度だけ! 一度だけお願いします!」
組んだ両手を胸元で掲げ、うるうると瞳を潤ませてまで懇願するミエル。
「……、……一度だけだからな?」
そんな彼女の必死さにラクティが負けるのはいつも早かった。
自分の甘さにかくりと肩を落とすも、直ぐに気を取り直したラクティは真剣な顔でフライパンに乗るハンバーグを見つめた。
ハンバーグは染み出る肉汁をぱちぱちと跳ねさせながら、じゅうじゅうと食欲をそそる音を立てて焼けていく。
その様子をジッと黙って見守る飴色の瞳は、まるで獲物の隙を狙っている肉食獣のように静かに光っている。
ーーそして次の瞬間には、
「ーー……っ、今だ!」
ラクティの右手に握られていたフライ返しが素早く動いた。
ハンバーグが一瞬の無駄も無い動作でひっくり返される。そうして上になった面には濃すぎず薄すぎず、誰が見ても完璧な焼き目が付いていた。
それを見たミエルは「わああ……っ!」と感嘆の声を漏らし、素晴らしい舞台を見終わった観客のような表情でぱちぱちと拍手をした。
「見事です、流石です、最高です、お師匠様っ!」
「……恥ずかしいから拍手は止めろ。ほら、満足したなら早く料理をマウロに運んできてくれ」
「はい、了解しました!」
完成した料理達を一つのトレイに乗せていくミエル。
三品を乗せたそのトレイは結構な重量があるにも関わらず、ミエルはそれをひょいと持ち上げると、足元に気を付けながらもなるべく早足でマウロの下へ向かった。
「お待たせしました、今日のメニューです!」
「おお、こりゃ美味そうだな」
運ばれてきた料理に腹を空かせたマウロの目は釘付けになる。
そして、ミエルがテーブルに料理を並べ終えるや否やナイフとフォークを構え、鉄板の上で肉汁を纏って光っているハンバーグに飢えた視線を向けた。
「んじゃ早速、頂きますっと」
ナイフの切っ先をハンバーグに差し入れれば、程良い焦げ目がほんの僅かな抵抗を見せた後にすんなりと切れた。その切り口からは挽き肉に包まれていた肉汁がじゅわっと溢れ出す。
マウロはハンバーグを一口よりも少し大きめに切ってフォークに刺すと、食欲に突き動かされるがままに大口を開けてそれをばくりと頬張った。
「ーー……っ!!」
滴る肉汁が口端に付いた事など気にもせず、もぐもぐと咀嚼しながら口一杯に広がる肉の旨味だけに意識を委ねる。
あまりの美味しさに風味を逃すのが惜しくて口を開くことが出来ず、味の感想すら言うことが出来ない。
しかし、ミエルは全て分かっていると言ったように満面の笑みを浮かべ、次々と料理を胃袋に収めていくマウロの様子を眺めている。
と、其処に新たな来客を知らせるベルが鳴り響き、ミエルは苺色の瞳をぱあっと輝かせながら、入り口の方を振り返った。
「いらっしゃいませ、『キッチンウールーズ』へようこそ!」
***
夜もとっぷりと更け、常連客で溢れていた狭い店内も今では最後の一人ーー料理を平らげた後も葡萄酒を飲んでいたマウロと話に付き合っているミエルだけになっていた。
本当なら店を閉めて後片付けや明日の仕込みに入らなくてはならないのだが、マウロは昔からの常連客であり、ラクティの数少ない友人でもあるので、ミエルは特に不快に思うこともなく毎回こうして会話の相手をしている。
「そういやミエルちゃん、知ってるか?」
葡萄酒が入った所為で赤みが掛かった顔をしながらマウロが言った言葉に、まだ酒が飲める歳では無いミエルは、代わりに飲んでいた水の入ったコップを置いて首を傾げる。
「何をです?」
「この間の仕事先で小耳に挟んだんだけどよ、この世には『伝説のオムレツ』って呼ばれてる料理があるらしいんだ」
「……っ!?」
それを聞いた途端、ミエルの瞳はきらんと輝いた。
そして勢い良くテーブルに両手をついて立ち上がると、突然の事にマウロが驚いたのも気にせず、ぐいっと上半身を前に乗り出させてマウロに顔を近付けた。
「な、何ですか、そのお話は!? 料理人の心を擽りますっ! 詳しく聞かせて下さい!」
「わ、分かった! 話すからちょっと落ちつけ、な?」
興奮と好奇心に満ちた顔を浮かべるミエルの勢いに圧倒されつつも、マウロは何とかミエルを宥めて席に着かせる。
(興味があるだろうとは思ってたが……まさかここまでとはな)
予想以上に話題に食いついてきた小さな料理人に、マウロは思わず苦笑してから話を再開させた。
「何でも伝説の料理人がたった一度だけ作った料理らしくてな。作り方は普通のオムレツと変わらないんだが、使う食材がとんでもないらしい」
「……と、言いますと?」
「俺にはどんだけ凄いんだか分からないんだが、えーと確か……」
そこまで言うとマウロはズボンのポケットを漁って一枚のメモを取り出した。
自分に聞かせる為に書き留めておいてくれたマウロの優しさに、ミエルは内心で感謝しながら話の続きをそわそわと待った。
「必要なのは全部で四つ。それは『流星竜の卵』『夢見るミルク』『幸福のトマト』それと最後に隠し味で『天使の涙』……って、どうしたよ、ミエルちゃん」
メモの内容を読み上げたマウロは、今の今まで元気だった目の前の少女がテーブルに突っ伏してしまっている事に気付いて心配そうに眉を寄せる。
声を掛けられたミエルは伏せていた顔をむくりと上げるも、その表情はすっかり落ち込んでしまっていた。
「何なんですか、その超レア食材の数々は……。ていうか最後のやつなんて、本当に実在しているのかも分からない物だし……」
「そうなのか?」
「はい……。ああでもでも! そこまで知ってしまったら、料理人の端くれとしては一度は作ってみたいなあ……」
そう言って、まるで恋する乙女のようにうっとりとするミエル。
そんな何処までも料理好きな少女を見て、マウロは豪快に笑って言った。
「はははっ! ミエルちゃんは本当に料理が好きなんだな?」
「はい、大好きです! 作るのも食べるのも楽しいだなんて、こんな素晴らしい事はそうそう他にはありませんよ!」
高揚した気分に頬を染めてそう語るミエルの目は真っ直ぐな光に輝いている。
向かい側に座るマウロは何処か眩しげに目を細めると、芳醇な香りを放つ葡萄酒の入ったコップを揺らしながら口角をにんまりと上げた。
「そんなに好きなら、何もしねえで諦めるのはちっと悔しくないか?」
「……え?」
マウロの言葉にきょとんとするミエル。
その無垢な表情が今から自分が差し出す物でどう変わるのか。そんな事を思いながらマウロは悪戯な笑みを浮かべ、くっと葡萄酒を呷ってから言った。
「一歩踏み出してから考えてみんのも悪くはねえってこった」
***
「漸く一段落か……」
研ぎ終わった包丁を元の場所に戻したラクティは調理場を見回し、何処も完璧に片付けが済んだ事を確認するとふうと息をつく。
それとほぼ同時に、店の方からドアの開く音とベルの音が聞こえてきた。
(お、マウロも帰ったか。じゃあミエルに賄い出してやるか)
後片付けには来なかったものの、それは話好きな自分の友人に付き合ってくれているからだと分かっているラクティは怒る事も無く、予めミエル用にと小鍋に分けておいたスープを竈に掛けようとする。
が、ふとある事に気付いて、店の方に目を向けた。
(そういや……ミエルの声がしなかったよな?)
いつもならどんなに疲れていても最後の客にまで「有り難うございました!」と、元気で気持ちの良い見送りをするミエルの声。
それが聞こえなかった事に気付き、小鍋を片手に持ったラクティは怪訝そうに眉を寄せる。
すると、急に何やらどたばたと慌ただしい足音が響いてきた。
「な、何だ何だっ!?」
まるで牛が突進してくるかのような足音に戸惑っていると、
「お師匠様ーっ!!」
「うおっ!?」
牛など可愛いと思える程の物凄い勢いでミエルが調理場に飛び込んできた。
目は興奮で爛々と輝き、口元は抑えきれない笑みが溢れ、正に生き生きとしているミエルのその表情を見たラクティは咄嗟に嫌な予感を察する。
そんなラクティに向かってミエルは片手に握り締めていた紙をバッと広げて目の前に突き出し、そして満面の笑みで高らかに言い放った。
「私、エルフの里に行ってきます!」
「……は?」
「だから! 私、エルフの里に……」
「いやそれは分かったから! 何でまたそんな所に行くなんて言い出したんだ?」
「それはこれを見てください!」
興奮しきったミエルにぐいぐいと紙を押し付けられ、ラクティはそれを軽く払い退けてからその紙を受け取って其処に書かれた内容に目を通し始める。
そして、数分掛けて全てを読み終わるとゆっくりと顔を上げ、ふーっと長い溜め息をついてから紙をミエルの手に返して両目を瞑ったと思えば、そのまま黙り込んでしまった。
「お、お師匠様? どうしまし、きゃんっ!?」
「この馬鹿が!!」
心配に思ったミエルがラクティの顔を覗き込もうとした途端、ラクティは大きな声を上げながらくわっと目を見開いた。
そしてミエルが驚いている隙に、その頭にすとーんっと見事な手刀を落とした。
「い、痛い……。急に何するんですか!」
手刀が決まってズキズキと痛む頭を押さえながら、涙目で恨めしげにラクティを見上げるミエル。
しかし、ラクティは(非公認であるが)弟子からのそんな視線を跳ね退けて、普段は温厚な飴色の瞳を鋭くさせながら怒鳴った。
「馬鹿なお前の目を覚まさせてやろうと思ったんだよ! 何なんだ、この『エルフの里にてゴブリン退治を引き受けてくれる人』って! まさかお前がゴブリン退治に行くつもりじゃないだろうな!?」
「はい! そのまさかで、きゃうんっ!!」
迷い無く頷いたミエルの頭に二度目の手刀が落ちる。
続けざまの攻撃を受け、堪らずその場に屈み込んだミエルの手からラクティは紙を取り上げると、今度は怒りよりも呆れと困惑を混ぜた表情で彼女を見下ろした。
「大方マウロにでも教えて貰ったんだろうが……大体、何でゴブリン退治になんか行きたいんだ? 彼奴らは食材にはならないぞ?」
普段からミエルが相手にしている魔物はどれも食材になる相手ばかりで、ゴブリンのような食材にならない魔物はあくまで料理人である彼女には戦う必要性が無い。
それを知っているラクティが疑問を抱くのも、そして幾ら低級魔物だからと言って退治に行った先での万が一の事態を危惧して怒るのも当然の事だった。
しかし、頭を押さえて屈み込んでいたミエルはふるふると首を振ると顔を上げ、紙に書かれた文章の一部分を指してみせた。
「目当てはゴブリンじゃありませんよ……。お目当てはこっちです」
「えっ?」
もう一度紙を受け取って、今度はミエルが指した箇所だけを読む。
どうやら先程は突然だった所為で読み飛ばしてしまっていたらしいその箇所には、この依頼が無事に成功した際に贈られる、所謂報酬について書き記されていた。
そして其処に書かれていた品物の名前を見て、ラクティはこれでもかと目を見開いて思わず大きな声を上げた。
「報酬は『夢見るミルク』……!?」
『夢見るミルク』
それは料理人ならば誰もが一度は耳にする食材だった。
世界に数頭しか生息していないと噂される特別な牛からしか搾れないそのミルクは、一口飲めばその美味しさにたちまち夢見心地になると言われている。
栄養価も味も抜群だというその伝説の食材が報酬だと知ったラクティは、まだ信じきれない様子で自分の目を何度も擦ったり文章を読み返したりした。
「まあ、外部とは極力関わろうとしないエルフの里になら『夢見るミルク』を出すような牛がいても違和感は無いけども……」
「でしょう!? だから私はその報酬を手に入れる為に行きたいんです! そして本当に手に入れられたら……っ」
「……何だ? もしかして他にも何かあるのか?」
半端な所で言葉を詰まらせて俯いたミエルに、ラクティは新たな予感を覚える。しかもその予感はあまり良くないものだった。
一体どんな言葉が飛び出してくるのかと身構えているとミエルは俯いていた顔を上げ、些か真剣な面持ちでゆっくりと口を開いた。
「……本当に手に入れられたら、私は、食材探しの旅に出ます!」
高く拳を突き上げての堂々とした宣言。
ーーその数秒後、三回目の手刀がミエルの頭に落ちた。
***
「……じゃあ要するに、お前は『伝説のオムレツ』を作ってみたいわけだ?」
「はい! ……あ、作るだけじゃなくて食べてもみたいです!」
調理場の床に正座したまま、輝いた瞳で力強く主張するミエル。
事の経緯を聞いたラクティはそんな彼女を何とも言えない表情で見下ろし、情報を与えたという自分が予想した通りの友人に対して眉をしかめた。
(マウロめ、余計な事を……)
ラクティは重くなった気がする額に自然と手を当て、深い溜め息をつく。
と、自分を見上げているミエルの表情が先程とは違って曇っている事に気付き、ラクティは頭を軽く掻くと目線を合わせる為に屈み込んだ。
「あのなミエル、同じ料理人として伝説の料理を追いたい気持ちは分かるぞ?」
「そ、それならっ!」
「でもな、簡単な事じゃないんだ。今回で運良く『夢見るミルク』を手に入れる事が出来ても、残りの食材を入手出来るとは限らない。旅先でどんな危険な目に合うかも分からないんだぞ?」
「それは……そうです、けど……」
ラクティが宥めるような眼差しを向けながら優しく諭せば、勢いを削がれたミエルは上手い反論を思い付けずに俯いていく。
空気が抜けた風船のようになってしまったミエルを少し気の毒に思うも、どうしてやる事も出来ないラクティはその俯いた頭を撫でてやってから立ち上がった。
「さあ、この話は終わりだ。賄いがあるから食べよう、な?」
そう言うとラクティはスープを温め直すべく、竈へと足を向ける。
「ーー無理です……っ」
調理場にぽつりと落とされた小さな声。
その声に思わず振り向けば、正座をしたままのミエルが両膝の上で拳をぷるぷると震わせていた。
そして俯いていた顔をバッと上げると、面食らって硬直しているラクティに向かって押し倒しそうな勢いで飛び付いた。
「うわっ!?」
「無理です! 諦められません! 私はどうしても『伝説のオムレツ』を作って食べたいんです!!」
「ミ、ミエルっ、ちょっ……」
「どうかお願いします、お師匠様!」
「……っ」
ミエルに胸ぐらを掴まれてがくがくと大きく揺さぶられていたラクティだったが、その手を止めて苺色の瞳で真っ直ぐに見つめられると言葉を詰まらせた。
そして互いに少しの間見つめ合うと、不意にラクティは深い溜め息をついて自分の胸ぐらを掴むミエルの手をそっと解きながら言った。
「ーー……駄目だ」
「……っ!」
無慈悲な返答にミエルの顔が悲しげに歪む。
すると、ラクティはおもむろにミエルの額に手を伸ばし、ぴしっとその白い額を指先で弾いた。
「きゃうっ!?」
「何て顔してんだ。話は最後まで聞け」
「え……?」
ミエルは弾かれた額を押さえながら小首を傾げる。
そんな彼女にラクティはふっと笑い、額を弾いた手で今度は小さな頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でた。
「駄目だ、と思ったが……そこまで言うなら、旅に行くのを許してやる」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、……但し一つ条件がある」
諦め掛けていた気持ちが再び熱を持ち、ミエルはパッと顔を輝かせる。
しかし、ラクティが真面目な表情で人差し指を立てて言葉を続けると、ミエルも思わずつられて表情を硬くさせて続きを待った。
「その条件とは……、……俺も同行する事だ」
「……え?」
予想外の条件を提示されて、ミエルの口からは間の抜けた声が滑り落ちる。
それに対してラクティは至って真面目な様子で話を続けた。
「お前は一人で頑張りたいかもしれないが……やっぱり不安だしな。それに俺一人じゃ今の店を回せる気がしないし、それだったら一緒に行った方が……」
「お師匠様ーっ!!」
「うわっ!? な、何だどうした!? は、離れろって!」
再び勢い良く飛び付かれてたじろぐラクティを、満面の笑みを浮かべたミエルはぎゅうっと抱き締めながらその胸元に頬を寄せる。
突然の抱擁にラクティは顔を赤くさせて引き剥がそうとするも、ミエルの肩を掴む手に込められた力は大して強くは無かった。
「そんなの条件に入りません! 寧ろ大歓迎です!」
「そ、そうか……?」
「はい! 一緒に行きましょう! そして絶対に二人で『伝説のオムレツ』を完成させてみせましょうね!!」
そう言って胸元から自分を見上げるミエルの顔は興奮に赤らんで、採れ立ての新鮮なトマトにも負けない程の弾けた笑顔を浮かべている。
そんな笑顔を前にしたラクティは降参したと言うように苦笑し、自分に抱き着いたまま無邪気にはしゃぐ弟子の頭を撫でた。
ーーこうして二人の料理人の旅は、丘の上の小さなレストランから始まったのだった。
END.