第61話 英雄誕生
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「契約、成立ですわ。ダヴィッドおにいさま」
レベッカは、赤い宝石が飾られた豪奢な首飾りをダヴィッドにかけて、接吻を交わした。
むさぼるように互いの唇を吸って、舌を絡めて、交じり合った唾液が卑猥な音をたてる。
「貴方に、抱擁を――”変新”」
「オオオオオオオオオッ!」
赤い宝石が、夜闇を切り裂くほどの閃光を発した。
レベッカに抱かれた、ダヴィッドの瞳が緋色に輝き、皮膚をきらびやかな黄金の鱗が覆ってゆく。
顔は竜頭を模した兜に覆われて、背から蝙蝠に似た金属の翼が生える。胸腹は鋭角的な鎧に守られ、四肢には竜爪をあしらった手甲と具足が装着される。
光が消えたあと、月光が照らし出したのは、全身を黄金色に飾られた異形の竜人だった。
「素晴らしい。これこそがオレの力。絶対者に相応しい真の姿だ」
黄金の竜人は、手甲に装着された爪に似た造形のナイフを引き抜き、他の同志を庇おうと剣を手に立ちふさがった青年に斬りかかった。
「同志ダヴィッド!」
悲鳴とともに振り下ろされた青年の剣は、ダヴィッドの腕に当たったものの、鱗に傷一つつけること叶わなかった。
一方、ダヴィッドのナイフに裂かれた青年の肉体は、まるで蜂蜜のように融けた後、霧と化してしまった。霧は竜人の中に吸い込まれ、黄金の光を放って怪しく輝いた。
「ああ、わかるぞ。オレはお前の存在を魔力に変えて奪ったのか。ゴミ屑を集めることで黄金を生み出す。ひょうっ、これが――錬金術というものか」
「や、やめろっ」
「うわぁあああっ」
テロリスト集団”赤い導家士”たちが、苦し紛れに射た弩の矢も、剣の一撃も、黄金の鎧と鱗に弾かれてしまった。
ロジオンが馬車に戻る時間もなく、ダヴィッドは爪のナイフを振るい、五人の元同志達を魔力の霧に変えて、飲み込んでしまう。
「腐った果実は、箱ごと捨てなければならない。黄金の一部となることを光栄に思うがいい」
意気揚々と宣言するダヴィッドに、ロジオンはひどく憔悴した顔で言い放った。
「ひどい鍍金だ」
「お前のような下賎な傭兵にはわかるまい。十賢家のようなブルジョアだけではない。半端で未熟な革命家もどきや、ろくでなしどもが積み上げてきた、伝統、文化、思想、価値観。一切合財を無に帰すことで、はじめて新時代は開かれるのだ!」
陶酔したように叫ぶダヴィッドに、ロジオンは哀れむような視線を送るだけだった。
傭兵は見ていた。メッキ仕立ての竜人が元仲間を殺戮している背後で、貴族令嬢がハンカチで唇を拭って、茂みに投げ捨てる様子を。
つまるところ、レベッカ・エングホルムにとって、ダヴィッド・リードホルムとは――。
「オレは選ばれたっ」
「ああ、お前は選ばれたよ」
――用済みになれば捨てられる、哀れなハンカチに他ならない。
「悪いが接近するつもりはない。薄汚い傭兵よ、手も足も出せないままに、ここで燃え尽きろぉおおおっ」
ダヴィッドの両手から、巨大な炎の渦が生まれ、森林を焼き払った。数千度の炎の濁流に飲まれて、ロジオンの姿もまた消えていった。
「さあ、行きましょう。ダヴィッドおにいさま。世界の革命は今日、この日より始まるのです!」
レベッカに誘われるままに、馬に乗って駆けた。
立ちはだかるエングホルム家の領兵、数千人を鎧袖一触とばかりに黄金の霧と変え、道中の砦や要塞を炎で焼き払った。
ダヴィッドの耳には、兵士たちがあげた断末魔の悲鳴が祝福として聞こえ、捕虜や民間人の怨嗟を拍手喝采と受け止めた。
彼の目には、真っ赤な夜明け――血のように赤い朝焼けの光だけが映っていた。
☆
その時、何が起こったのか、見えていたのはレベッカだけだろう。
ロジオンは、凍てついた剣で炎の渦を切り払ってわずかな時間を稼ぐと、羊皮紙の巻物を地面に叩きつけた。
奇しくもダヴィッドが、シーアン代官屋敷から逃れたものと同じ手段を使って、ロジオンは窮地を脱したのだ。
赤い導家士の残党が集結する港へと転移したロジオンは、船長たち重鎮にダヴィッドの裏切りを告げて、一刻も早くエングホルム領から脱出するよう促した。
「わ、わかりました。船を出します」
船のマストに背を預け、座り込んだロジオンは、ぼんやりと夜明けの水平線を眺めた。
黄金を連想させる太陽光を見ながら、ロジオンは、マラヤディヴァ国へ来てからの、最良と最悪の思い出をまぶたの裏に思い浮かべた。
『たぁぬ♪』
ロジオンにとって、最良の思い出は、漆黒の虎に化けた黄金色のもふもふとした狸虎。オーニータウン守備隊副隊長アリスと出会えたことだった。
アリスと剣を交えるのは楽しかった。遠くから、彼女が踊ったり寝転んだり辺境伯にじゃれつくのを見るのが好きだった。
アリスを相手に戦っていた時間は、ロジオンの凍てついた氷のように無感動な心を溶かして、懐かしく温かい感情を取り戻してくれた。
「ああ、そうか。オレはあの狸虎っ子に、妹の面影を見ていたのか」
灰色の霧にかすんだ記憶の彼方。ロジオンは、蜂蜜色の髪を風にそよがせて、青灰色の瞳を大きく開けて満面の笑顔ではしゃぐ妹の姿を、ほんのわずかな時間思い出して目頭を押さえた。
もしも妹が、アリスと”生きて”出会うことがあったなら、きっといい友達になれただろう。
だが、それは最早叶うことのない願いだと、彼は知っていた。
(ダヴィッド・リードホルム。哀れな男)
あの傀儡は評した。ゴミ屑を集めることで黄金を生み出す――と。
ロジオンから見れば、仲間と共に過ごした時間、同胞の命という黄金を塵芥に変えているだけだ。
(だけど、オレと奴の何が違う? オレもまた数え切れないほどの命を奪った。かけがえのない、黄金よりも大切な家族さえも捧げて、いったいなにを手に入れた? あの無様な姿は、かつてのオレだ)
だから。
「だから、オレは、世界を変える。宿命に抗うんだ……」
ロジオン・ドロフェーエフもまた、狂気へと逃避する。そうでなければ、罪の重さに心が耐え切れないから。
漂泊の日々に、彼の心は磨耗しきっていた。それでも、壊れそうな心の痛みだけが、麻痺した精神を切り刻み、まだ生きていることを実感させてくれる。
「菌兵士と甲殻蝿男についての詳細。想定可能な弱点と対策。レベッカ・エングホルムと、ダヴィッド・リードホルムについて」
ロジオンは、まったく同じ内容のメモを一二枚書き上げると、甲板から梯子を下りて、船長室を訪ねた。
「船長。伝書鳩と使い魔を買い取りたい。こっちの六枚は、旦那、イオーシフ・ヴォローニン支部長がいるイシディア法王国の隠れ家に。もう六枚はレーベンヒェルム領の辺境伯へ。すべて別のルートで送ってくれ。ダヴィッド・リードホルムとクローディアス・レーベンヒェルムの共倒れをねらいたい」
「わかりました。ロジオン殿。今、港の協力者から魔術通信が入りました。ダヴィッド・リードホルムが率いる反乱軍、”緋色革命軍”の攻勢は凄まじく、エングホルム領の陥落も近いだろう、とのことです。間一髪でしたね」
「お互い、命があって良かったぜ」
ロジオンは手を振ると、船長室を出た。
(アリスお嬢ちゃん、イヌヴェ、生き残れよ。クローディアス・レーベンヒェルム、お嬢ちゃんみたいなイイオンナに惚れられたんだ。ちゃあんと責任とって幸せにしてやれ。お前ならできるさ)
歴戦の傭兵は、メモの隅に落書きのように綴った一文を、最後に思い浮かべた。
(巫女の嬢ちゃんは、イシディア地方に名高いササクラの弟子だったはず。あるいは、クローディアスなら翻訳魔法で解読できるだろう。ちゃんと届いてくれよ、オレに出来る最後の助力だ)
傍目にはちょっと変わったイラストにしか見えないだろう絵心のない落書きは、ロジオンが今は亡き剣の師匠から習った異世界の言葉、日本語で書かれていた。そこに記されていたのは、平行世界でファヴニルと遭遇し、この世界でダヴィッドから魔法を受けたロジオンしか知りえない、もっとも重要な極秘事項だった。
「オッテルなんていない。ダヴィッド・リードホルムのちからは、ファヴニルとおなじものだ」